イルカ38景


35:湯治 其の壱




 食卓の上に用意された火薬ご飯を見た。 カカチ用の小さな食器たち。 ビールまである。 缶ビールはすっかり温くなって雫さえ纏っていなかったが、普通サイズのグラスと並んでいつもの卓袱台の上にあり、他の食器との大きさの不釣合いさにカカシはひとり、ちょっと笑った。 クスリとほんの微かな笑い声は、誰も居ないイルカの家の居間に吸い込まれて消えた。

---引導を渡されちゃった

 もう来るな、そう言われていると思った。 あれだけはっきり拒絶されたのだ、当然だと諦めろ、俺。 もう”カカチ”にも、ましてや俺にも、ここに居場所は無い。 始まる前から終っちゃったんだ。 俺、振られたんだ。 いや、振られるも何もあの人は、俺のこと大っ嫌いなんだから。 優しかったのは”カカチ”にだけ。 俺のことは、あの人は受け入れてくれない。


 昨夜玄関で、漏れ聞こえてくる嗚咽を聞いた。 鍵は開けられる。 でも、できなかった。 一晩中そこに居て、イルカの啜り泣く声を聞いていようと思ったが、声は数分で消えた。

---寝ちゃった…のかな

 此処に聞こえてくるなら風呂場からだが、そんな場所でうたた寝でもしてしまったのだろうか。 彼は非常に寝付きのいい人間で、布団で話している途中で気がついたら寝入っていたみたいなことが幾度もあった。

---あんときゃ呆れて開いた口が塞がらなかったっけ

 ふふふ、と下を向いて含み笑うと、ぱたぱたっと水滴が幾粒か足元に落ちた。

---あの人を傷つけた…

 自分が失くすことばかり、気にしていた。 もちろん失くした。 カカシは両手を広げて落ちてくる水滴を受け止めた。 でも、あんな泣き声を聞くなんて、想像してなかった。 あの人はいつも、大口を開けて豪快に笑ってた。 眉間に皺を寄せて怒る時も、腰に手を当てて偉そうに踏ん反り返って、腹から声を出してたっけ。 あんな風に、歯を喰いしばっているみたいに篭った声で泣くなんて。
 結局、イルカが翌朝、あんな顔でよく出かけるなと感心するほど泣き腫らした目でアカデミーに出勤するまでそこから動けず、彼が居なくなってやっと、カカシは部屋に入ることができた。 たった一晩なのに随分懐かしいような気がした。 だが、何も変わった所の無い室内に心なしかほっとして、もしかしたら素知らぬ振りをしてカカチとして戻れるのではないか、とそんな期待を抱いた時、卓袱台が目に入ったのだった。 そこには、何度強請っても聞き入れてもらえなかったメニュが用意してあった。 それも一人分だけ。

---引導、わたされちゃったんだ、俺

 ショックで暫らく立ち尽くした。 どうしたらいいのか判らなかった。 遊び半分の軽い気持ちで始めたはずだった。 こんな、途方に暮れちゃって、俺どうしちゃったんだ。 縦しんばこれが本当に恋だったとしても、今までだっていくらでも女と修羅場を演じて別れたりしてきたじゃあないか。 何も今回に限っことじゃあない…ないはずなのに、胸が痛くて痛くて堪らない。 自分の半端なちょっかいが彼を傷つけ、返す刃が自分まで傷つけた。 今までの俺は? こういう時どうしてたんだろう。

---とにかく、出てかなきゃいけないんだ

 今の自分にできることは、”カカチ”の存在を消して行くことくらいだ。 最初からそのつもりだったじゃないか。 彼が”カカチ”を妖精と思いたいならそのままに、妖精らしくいつの間にか消えたことにして…彼もそれを望んでいるかもしれない。 さぁ、痕跡を消してここを出ろ。 もう二度と来ることも無い。
 カカシは、イルカが揃えた”カカチ”の物を集めて回った。 火薬ご飯の入ったままの小さな食器、ビールとグラス、リカちゃん着せ替えグッズ、そして、ついに一回も使わなかった猫ハウス。 あと他には無いだろうか。 くるりと見回して、ぱたぱたっと畳の上に何か落ちた音にビクリと竦むと、恐る恐る下を見る。 その途端また、ぽたぽたぽたっと水滴が落ちた。

---俺、こんなに涙出たんだなぁ

 水滴は蒸発するよね、と足先でいい加減に擦り付け、また怒られるかなと首をちょっと竦める。

---もう…怒っても貰えないんだった

 彼は怒ってばかりいたっけ。 後から後から零れて落ちる涙に閉口して、カカシは早々にそこを退散することにした。 だって、水溜りになっちゃったらさすがに半日じゃあ消えないかもしれないし、こんなトコで泣いてたって知られたらカッコ悪いし。

 イルカ先生、ごめんなさい。
 俺の痕跡は消していきます。
 これくらいしか、できること思い付かない。
 俺がアナタにしでかしたことについては
 アナタが落ち着いたら、きちんと謝ります。
 その時はどうか、俺のこと許して。


               ***


 イルカ25歳独身彼女居ない暦25年。 そこに輝かしき「男に弄ばれた」暦が加わった。

---それだけのことだ

 あの日、帰ってみるとカカチ用に用意したもの一式が消えていた。

---'98年版プレミア付きリゾート・リカちゃんだけは置いてってほしかったな

 ありゃあ、ネットオクに出品すりゃあ、結構な値が付いたに違いないのに。 ま、いいか。 最初から無かったと思おう。 そうさ、妖精さんは気紛れなんだ。 一つ所に居付くなんて有り得ない。 元々ペット向きじゃあなかったんだ。 すっげぇナマイキだったし、すっげぇ自分勝手だったし、すっげぇ…かわいかった。 あの人とは違う。 男イルカ25歳、まだまだ絶賛現実逃避中。 現実を見たんじゃなかったのかよッ 見たよ見たけどでも、器用に都合の悪いところだけは切り離して、きっかり分けて、「思い出は美化してもいいものなのさ」とちょっとだけ遠い目をして、ちょっとだけ大人な男になった俺?みたいな感じで、普通なら絶対にしないであろう体験をきれいさっぱり無かったことにした。 これでもう元通り。 だいじょぶだいじょぶ。 餓えた狼の上忍だぁ? けっ そんなのクソ喰らえだ。 俺様の受付け捌き無くしてアンタらの報告書一枚処理されないって思い知りやがれッ 男一人で夜道も帰れなくてどうする? 一楽にさえオチオチ寄れなくなっちゃうじゃないか。 そんなこと、俺の生活で有り得ねぇッ ぜってぇ嫌だッ 俺は俺のやりたいようにヤル。 今まで通り暮らすんだ。 今までと何一つ変わらず同じに。

---ただひとつ、はたけカカシは居ないものと思うこと

 今までも、今も、これからも、俺の人生に、生活に、あの男は存在しない。 もう意地悪もしない、同僚と陰口も叩かない、目で追ったりもしない、声に聞き耳を立てたりしない…いやいやいやっ違う違う、群集の一部と思うってことだ。 無視して無視して無視し捲くってやる! ふっふっふっとドス黒く笑ってイルカは昼のカレーうどん啜りかけの箸をうっかり握り潰しかけた。 貧乏性のイルカ25歳独身日頃エコに心掛けマイ箸を持ち歩く男。 百均で買ったとは言え箸一本も粗末にできない。 そうさ、俺はこうやってセコくてもいい、清く正しく”男らしく”生きてくんだ。

「イ、イルカ、オマエだいじょうぶか?」
「おう、ぜんっぜん、どっこもかしこも快調だぜ」
「そそそうか、ならよかった」

 向かいで狐蕎麦を啜る彼は、あの夜カカシの影分身に送られたのが魂の傷になってしまったらしい。

---恐かったんだな

 ごめんな、俺の所為で。 だが、それもこれも皆あのクソ上忍がいけないんだ。 許すまじ、はたけカカシ。 事務方中忍を怒らせたらどんな目に会うか目に物見せてやるッ

 おいおい、無視し捲くるんじゃなかったのかよ、居ないんじゃなかったのかよ、と突っ込むなかれ。 うみのイルカ25歳セコい仕返しに燃えるセコい男。 本末転倒でささやかな意地も、踏み躙られたと感じる男の矜持も、心から愛おしいと思った小さな存在への思慕も、心の向こう側半分を占めて最早誤魔化すこと適わぬまでに膨れ上がった一人の上忍への理解し難い執着心も、皆宙ぶらりんにイルカの周りに浮いたままでクルクル回る。 これを現実逃避と人は言う。 そんなの判ってる。 でも認めない。 彼が認めたのは唯ひとつ。 もうカカチは居ない、それだけだった。


               ***


     「カカチ…」

 風に乗って微かな声が届けられる。 パックンが指し示す先の樹影に佇むのは、最近任務に遅刻ばかりする新人暗部。 気配を消し存在を消し音を消し、彼が見上げる先の大枝の上に支給のサンダルのシルエットが見えた。 動体視力ばかりが良い自分の目は、その大枝から時折落ちる水滴までも見止めていた。

「あの子、イルカ先生が家に帰るまでああして見てるの?」
『そうだ』
「毎晩?」
『そうだ』
「イルカ先生」
『行くな』
「だってパックン」

 余りに遅刻ばかりするその新人は、言い訳が酷く下手だった。 諜報・工作にはてんで向かない。 考えてる事が全て顔に出る、そんな子だった。 こんなん暗部に置いといて大丈夫なの?と思いながらも、それがイルカを思い起こさせ、カカシは少し痛い気持ちで彼の面倒をみていた。 遅刻の理由を誤魔化しているのが丸判りのくせに口だけは固いので、忍犬を付けて探らせていたところだった。 当のイルカはと言えば、無視、無視、無視無視無視! 無視の嵐。 大人気ない。 話なんかできゃしない。 あんな風に泣いたくせに、翌日の午後にはもう元のイルカだった。 一部の隙も無く任務帰りの殺気立った上忍達を捌き捲くり、アカデミーの子供達を怒鳴り捲くり、時には中忍として任務も粉し、全く凹んだ様子も無い。 あの数週間はもしかしたら夢だったのかしらと、カカシは遠い夕焼け空に向かって問うた。 ねぇ一番星さま、これはもうこのままフェードアウトしなさい言うことでしょうか。 俺はやっと気付いたこの想いも伝えんと、諦めて手を引け言われとんのでしょうか。 その方があの人の為でしょうか。 でも今、この他人を欺けないダメ忍の新人暗部君が見上げる先にイルカが居て、彼が泣いているのだ。 あの夜のように。

「飛んでって抱き締めたい」
『やめとけ』
「じゃ、もう一回カカチになって」
『バカを言うな』
「一生カカチで居てもいい」
『オマエにそんな資格は無いと言っている』
「パックン〜(泣)」

 あの人がカカチを望むなら、もうそれでもいい、そう思った。 パックンは厳しい。 突かれたくない場所ばかり突いてくる。 お互い寂しくて、お互いがちょっと目を瞑れば埋め合える条件を持っていて、どちらかが歩み寄ればきっと上手くいく。 だから俺から歩み寄ろうとした。 拒否し続けているのはあの人の方だ。 でも、今ならもしかしてと思っただけだ。 それもダメなのか。

「いいじゃない、俺達明日をも知れない人生なのよ? 資格とか、一々細かい事言ってちゃあ悔いばっかり残っちゃう」
『貧相な人間関係しか結んでこなかったのが諸バレだな。 それはオマエの悔いだろう。』
「あの人だって…」
『同じだと思うのか』

 同じじゃいけないのか。 俺とあの人が同じじゃいけないのか。 たとえ同じじゃなくたって…

「違ったっていいじゃない、ふたり寄り添って埋め合えば」
『それで、埋め合って満足したら捨てるのか』
「捨てるなんて言ってないだろっ」
『都合が悪くなったら無かった事にするのか、痕跡を消して居なくなるのか、諦めて手を引いて、その方がヤツの為だとでも言うのか』
「…」
『また同じ事を繰り返すのか。 ヤツが必死で隠していた脆さに付け込んで、また傷つけるのか。 前以上に!』
「パックン」

 きっつい

『オマエは二重にヤツを裏切った。 騙して体を弄んだ。 ヤツからカカチを取り上げた。』
「カカチは俺だよ」
『カカチがオマエだと言うのなら、オマエはカカチと一緒に死んだんだ。 ヤツのカカチはもう死んだ。 ヤツの前にその情けない姿を晒すな。』
「でもっ でも…あの人あのまんまじゃあ、また誰かに」
『どこかの人非人の上忍に弄ばれると?』
「…そうだよ、あの新人の子じゃあ、そんな抑えきれないよ」
『放っておけ、その方がヤツの為かもしれんぞ』
「そんなのッ」

 そんな訳ない。 だってあの人は…

「そんなのダメだ、あの人は」
『オマエのモノか』
「そうだよッ! 俺んだッ 悪いかッ 他のヤツになんか絶対触らせないッ 俺の、俺だけのもんだッ!」
『だったら』

 だったら根性見せろ、この意気地無し。 我が身可愛さで身を引く真似なんかしやがって、女々しく自己満足してんじゃねぇ。 一回や二回無視られたくらいで諦めるなら最初から手を出すな。 余所へ持っていかれるのを大人しく指を咥えて見ていろ。 それが嫌なら…

『男ならモノにして見せろ』
「俺…俺は」
『恐いのか?』
「なにが」
『モノにされるのが』


---大人になりかけの子供さえ、あんな風に身を賭して恩師を守ろうとしているのに、俺は

 上から降ってくる微かな声と水滴。 昔の恩師を心配して毎晩この木の下に居るあの子は、イルカが家路に就いて玄関の奥に消えるまで、ずっとああして見ているのだろうか。 これからも毎日任務に遅れてきて、下手な言い訳をするのだろうか。 

---雨みたいだ

 あの木の下だけ雨が降ってる。 人間の体からは信じられないほど水が出る。 イルカと暮らしてそれが判った。 堪え切れない胸の痛みが、喉元を通って上がってきて涙腺で水になる。 体から出た水は、少ししょっぱい。

---俺って小さい


 カカシはその翌日から、イルカへの猛アタックを開始した。







すみません。これは続き物です。20→09→01→31→05→24→33→27→35 の順番です。
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 つづく→35:湯治 其の弐



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