バヨリン

-Violin-



               9.Libera me(我を(隠れたる咎より)解き放ちたまえ)


「イルカ君、入団おめでとう。 歓迎します。」
「ありがとうございます」
 イルカはぴょこっと頭を下げた。 先日のカカシとの話を聞いているから、色々複雑な想いもあるだろうに。 確かカカシの一つ下だったはずだから、24か。 もう一人の立派な大人なのだ。
「少しお話しましょう」
 そう言うと、彼は「はい」と言って頷いたが、すぐその細面の顔を俯けた。 俯いたままの彼を連れて外へ出る。 今日は運よく天気がよかった。 中庭にある椅子に彼を促し自分も座ると、やっとこの時がきたのだ、と感慨深かった。

 カカシから彼の入団妨害工作を頼まれた時、カカシが自分の父親の事をどこかで知って、それで逆恨みでもしているのかと心底心配になった。 イルカがどういう青年に成長したのかも判らなかったのでとにかく様子を見ようと、取り敢えず正式な入団試験は受けさせない事にしたのだった。 後でカカシから話を聞けば、恋愛の拗れらしいではないか。 なんと因果応報なことかと、正直呆然としたものだ。 だが今目の前の青年を見て、あの時も今も、為るべくして為った事なのだと、納得するしかなかった。

「君には少し辛い話かもしれないけど、君ももう大人だ。 動揺しないで聞いてほしい。」
 イルカは、カカシとの事だと思ったのだろう。 ある程度の覚悟はしていたに違いない。 また「はい」と頷いて、今度はまっすぐ顔を上げた。
「カカシから君達の関係についてはある程度聞きました。 決して他言はしないから安心してね。 僕は彼の養父なんです。 彼が取り返しのつかない傷を負うような事は絶対にしない。 それは君のためにもなると思う。」
「はい」
 それも予想していたのだろう。 彼は動揺することなく頷いた。
 それを見て、心を鎮めて本題に入る。
 
 どうか、私を許してください

 この世には存在しない者に許しを請う、銀髪の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。

「君のご両親は、君が幼い頃に亡くなっているんだよね?」
「はい」
「カカシもそうなんだよ。 彼のお母上は彼が物心つく前からいなかったし、父上は君がご両親を亡くしたのと同じ頃、自殺した。」
「え? ……自殺?」
「そう」
 イルカは、その大きな黒い瞳を驚きにだろう、いっぱいに見開いてこちらを凝視してきた。
「サクモさんと言うんだけど、僕の先輩でね。 とても才能のある演奏家だった。」
「やはり音楽を?」
「そう、カカシと同じ、チェリストだった。 彼は所謂天才というやつでね、しかもとても自分に厳しい人だったので練習も怠るようなことはなかったし、名実ともにりっぱな演奏家だった。 ソロ活動を主にしていたんだけど、時々は他のパートの奏者と組んで室内楽にも積極的に取り組んでいた。 まぁだいたい同じ相手と組んでいたんだけど、ある時いつもと違う相手をパートナーに選んでね。 それもあまり名の売れていない室内楽団の一員だった。 それが君のお父さんだ。」
「は?」
 イルカは、突然自分の父親の話が出てきて、心底戸惑ったような表情を露にした。
「亡くなる前に、ショスタコビッチのピアノ五重奏を演ろうとしていたのは覚えてる?」
「あ、はい」
「その時のチェリストがサクモさんだ。 彼は、どこかで君のお父さんの演奏を聴いたんだろうねぇ。 有名なチェリストの名指しだと、当時かなり騒がれた。 サクモさんはね、多分君のお父さんに恋してたんだと思う。」
 イルカは瞠目したまま何も言わなかった。 自分の父親と、体の関係まで結んだ相手の父親との因縁浅からぬ繋がりを、どんなに複雑な想いで聞いたことだろう。 受け入れられないでいるかもしれない。 だが、真実を全て話すと決めている。 その上で、彼自身にカカシとの未来を選んでくれればと、そう願っていた。
「カカシは本当にサクモさんによく似ている。 容姿だけじゃなく、その才能も性格もね。 サクモさんは、普段はとてもクールな人だったけど、内側は燃えるような情熱を抱えた人だったんだ。 演奏もそうだった。 生まれ持った才能と、厳格なまでに鍛錬された技術と、内なるパッション。 それらが相俟って、彼を一流の演奏家にしていた。 カカシもそうだ。 だから判るんだけど、君はカカシと最初に関係した時、無理矢理だったんじゃない?」
「それは… いえ、でも俺は拒否しませんでしたから」
「拒否はしなかったけど、同意もしなかったんじゃない?」
「……はい」
「君は優しいね」
 そう言うと、彼はまた少し俯いて唇を噛んだ。 おや、優しいと言われる事が嬉しくないのか。 なかなか一筋縄ではいかない性格をしているらしい。 彼の父親も、そうだったのだろうか?
「でも俺は、カカシさんが好きでした。 後悔はしていません。」
「過去形かい?」
 その意外に強い意思表示に驚きながらも揚げ足を取ると、彼はハッとしてまた俯いた。
「…いえ、今でも好きです。」
 だが誤魔化すことはしないのか。 海野イルカ。 サクモが愛した海野マサキの息子。 自分は海野マサキには会ったことがなかった。 話題に登るや、あっと言う間に死んでしまったからだ。 サクモはもちろん、もっとずっと前から彼を知っていたに違いないが、一人胸の内に収めていたのだろう。 相手は妻子持ちのしかも同性なのだから。 だが、このイルカを目の前にしていると、海野マサキという人物が生きてそこに居るような錯覚を覚えた。 きっと彼もこんな風に、真っ直ぐに人を信じて人を愛して、それ故に多く傷つきながらも強く生きていた人なんだろう。 その強さを信じて、この優しい青年に更に追い討ちを掛ける事をどうか許してくださいと、何へともなく請う。
「サクモさんは君のお父さんと強引に関係を結んでいた。 これは確かだ。 僕が彼から直接そう聞いたから。 彼にもカカシがいたし、君のお父さんも奥さんも子供も居る既婚者だった。 でもサクモさんの情熱の方が勝ってたんだろう。 彼は君のお父さんを心から愛していると言っていた。 僕にそう打ち明けてくれた時は、例の事故の起きる直前だったんだけど、彼の口調から僕は彼らが想いを通じていると感じた。 君のお父さんは、彼を受け入れた、と。」
「でも、父と母は、喧嘩もほとんどしないくらい仲が良かったです。」
 珍しく口を挟み、しかも否定の言葉をこの真面目な青年から聞けたので、少しほっとした。 そう思うのが当然なのだ。 自然な反応なのだ。
「そうだね、きっと君のお父さんは君のお母さんを心から愛してたんだと思う。 それは間違いないよ。 でもね、サクモさんも愛してしまったんじゃないかな。 理解、できない?」
「いえ…、いいえ」
 じっとこちらを凝視し、呆然といったように話を聞いていたイルカは、一回そのままでかぶりを振った後、俯いて少し考えるようにしてから、もう一度しっかりと首を横に振った。 彼も、カカシとの経験で大人になったのだ。 今だからできる話なのだ、と思った。
「最初は多分、君と同じで、サクモさんの強引なアプローチに流されていたのかもしれない。 だけど途中から二人は心を通じ合わせた。 これは僕の想像だけど、間違ってないと思うよ」
「どうして、そう思うんですか?」
「サクモさんがね、コンサートのアンコールの最後に、必ず決まった曲を弾くようになったんだ。 僕も、後からそうだったんだと判ったんだけど、時期的な事とか色々考え合わせると、あれは君のお父さんの好きな曲だったんじゃないかなって。 君のお父さんが自分の好きな曲を、無理矢理関係を強要し続ける相手に教えると思うかい?」
「フォーレの…、エレジーだったんですか?」
「やっぱり……。 ああどうしよう、僕ちょっと感動してる。」
「父が生前よく聞いていました。 でも、亡くなった後、そのCDを随分捜したんですけど、どうしても見つからなかった。」
「そう…」

 さぁ、心を決めろ。

 一つ大きく深呼吸してイルカを見る。
 彼は、その黒い瞳でじっと見つめ返してきた。
「それはね、多分君のお母さんが処分してしまったんだと、僕は思う。」
 彼は、何か言おうとして息を吸い込んで口を小さく開いた。 だが言葉はついに出てこなかった。
 聡い子だ。
 驚愕か? 後悔か?
 その表情に浮かんでは消えるものは、彼が全てを理解した事を語っていた。
「ピアノ五重奏にしようと言い出したのは誰?」
「母です」
「あの事故の朝、誰が運転していた?」
「母…です」

 許してください
 許してください
 どうか、私の罪を、許してください

 最後に会った時のサクモの姿が頭の片隅を過ぎる。

「サクモさんは、その後精神を病んで、自ら命を絶った。 絶望、したんだろうね。 その後、僕は正式にカカシを引き取って養子縁組した。 元々演奏旅行で飛び回っていたサクモさんの留守中は、ずっと僕の所にいたんだ。」
「カカシさんは…、この話…」
「知らないよ。 話してない。 彼はああ見えて君よりずっと弱い。 サクモさんの事もあるし、恐くてとても話すことはできなかった。 今までずっと。 でも、もし君がカカシときっぱり別れたいなら、彼との間にはっきりとした線を引きたいなら、この話をカカシにもしよう。 彼はきっと、二度と君に近付かない。」
「!」

 瞠る瞳。
 引き結ばれる唇。
 美しいと思った。
 サクモが、カカシが感じた感動を、今自分は感じているのだと。

「カカシが最初にコンクールで優勝したのは、彼がまだ音大に在学中のことでね、随分マスコミに騒がれた。 彼は父親の死後にも何かとマスコミには苦労させられていてね、根っからのマスコミ嫌いで態度が頗る悪かったんだ。 最初持ち上げていた彼らは、すぐにカカシを叩き始めた。 カカシの左目の事、サクモさんの自殺の事、僕の過去まで穿り返された。 僕はその時かけだしの演奏家からやっと抜けたくらいの時期でね、ちょっと叩かれたら直ぐ何もかもを失ってしまった。 その時の事をカカシはずっと忘れていないんだ。 今でも僕の不遇は自分の所為だと自分を責めている。 彼が自分の素性を隠して君に近付いたのも、君を守りたい一心だったんだ。 だから、自分の父親が君のご両親を死に追いやった原因だと知れば、彼は絶対に自分とサクモさんを許さないだろう。 君の前に姿を現すこともしないと思う。 どうする? 君は別れたい?」
 イルカは、今まで一適も涙を流さなかったのに、今初めて血の通った人間になったかのように、その大きな黒い瞳から涙をポロポロと零し始めた。 それを見て、自分の卑怯さを思い知る。
「決して、話さないでください。 俺も話しません。」
 ああ、自分はこの子が絶対こう言う事を知っていてこの話をしたのだ。
「じゃあ、カカシと縒を戻すの?」
「それとこれとは、話が違うと思います。 俺は、カカシさんとの事は自分で決めます。」
 なんて強い!
 カカシにはこの子が必要だと、心から思った。
「でも、今のままだとカカシが余りにも辛すぎる。 君はどうしたいの? 別れたいの? やり直したいの? 君が態度をはっきりしないままカカシと会おうとしないから、カカシもあんな風におかしな事までしてしまうし、それを止められないんだよ?」
「俺の所為、ですか」
「全部が全部、君の所為とは言わないけれど、全部が全部カカシの所為でもないでしょ? 君の未練がカカシに伝わり、カカシは君を諦められない。 違うかい?」
「…」
 今までになく深く頭を垂れ、イルカは黙った。
「僕はね、正直カカシがかわいい。 僕の家族だからね。 彼には幸せになって欲しいんだ。 君となら、きっと彼は幸せになれる。 彼がこんなに一つの物事に執着して欲しがった事って、今まで一度もなかったし、何よりカカシ自身が君のために自分を変えようとしてる。 こんな事絶対有り得ないよ。 誰に中傷されても甘言を囁かれても、絶対自分を変えなかったあの子が、君のために変わろうとしたんだ。 僕は…」
 思わず言葉に詰まってしまった。 カカシのこれまでを走馬灯のように思い出してしまったのだ。 下を向いて鼻を啜っていると、ガタンと椅子を引く音がして焦って顔をあげた。 イルカは立ち上がって、じっとこちらを見ていた。
「帰るの? 怒った?」
 慌てて言い募ると、イルカはそこで、何故かふっと顔を綻ばせて笑った。 そしてこちら側に回ってくると、そっと肩に手を置いてゆっくり撫で付けてくる。 なんて大人なんだろう。
「カカシさんと口調がそっくりですね」
 そして後ろからポツリとそんな事を言う。
「え? 僕?」
「はい」
「そ、そうかな」
 コリコリと頬を掻いて照れ隠しをしていると、イルカはまた笑ったようだったが見えなかった。 新たな涙が視界を滲ませる。
「親子、なんですね。 羨ましいです。」
「ごめんね、君には辛いばっかりの話をしちゃって。 カカシに都合のいい事ばかりだったよね。 それに、こんな話、君に今したのは、多分に僕自身のエゴだったし。 僕がただ、荷物を少し降ろしたかっただけかもしれない。」
「いいえ、聞けてよかったです。 それに、俺ちゃんとカカシさんとの事考えます。 それで自分でカカシさんに話をしようと思います。」
「うん…、うん!」
 嬉しくてもう涙が止まらない。
 サクモ、マサキさんの息子はこんなに強く賢く育ったよ。
 何も心配ない。
 カカシもきっとこの子が幸せにしてくるから
「あの、俺、明日からほんとにここで雇ってもらえるんでしょうか?」
「な、何言っているの! 当たり前じゃない、楽団員全員で決めたんだよ? そういうシステムだって言わなかった?」
「いえ、ただ、今の話を聞かせるために俺を引き止めたのかと…」
「そんなことないよ! 君とアンサンブルしたいって皆思ってる。 ほんとだよ?」
「はい! 嬉しいです。 よろしくお願いします。」
 ぴょこっとポニーテールを揺らして頭を下げたイルカは、次に顔を上げた時はにっこりと美しく微笑んでいた。




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