バヨリン
-Violin-
8.Pie Jesu(憐れみ深きイエスよ)
両親の死後、自分を引き取り大学まで出してくれた母方の祖父は、少し訝しげな顔をしたものの、黙って自分を迎え入れてくれた。 年末年始に帰省したばかりなのに、連絡も入れないままの急な訪れにも何も問わず、ただ疲れただろう、とそれだけだった。
また、逃げてきてしまった。
重なるショックな事実を知り、自分はもう限界だった。 どうしていいか、全く判らなかった。 ただカカシにはどうしても会いたくなかった。 会えば酷い事を言って罵ってしまいそうで、そうすればカカシとの関係が完全に消滅してしまいそうで、恐かった。
めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、
罪人なるわれらのために、
今も臨終のときも祈りたまえ。
アーメン
母が結婚するまで使っていたという部屋は、そのままイルカの部屋になり、主の居ない今もイルカがこの家を出た時のままになっていた。 子供の頃、よく両親に連れられてここへ来た時からある壁の詩篇。 母の実家はクリスチャンではなかったが、ミッション系の女子高へ進んだ母が礼拝のために少しでも早く覚えようとして貼ったのだというそれは、大人が立った時の顔くらいの高さにあったため、よく父や母に抱っこをせがんでそれを読んだ。 そしていつの間にか覚えてしまった。 小さい頃はそれはただの呪文で、意味などさっぱり判らなかったがそれで構わなかった。 自分には、マリアもイエズスも主も罪人も、関係がなかった。 特に”罪人”というのはその頃のイルカにとっては、”殺人者”や”盗人”などの”犯罪を犯した人”であって、生きとし生ける者全てが罪人であるという概念などありようはずもなかった。 両親が突然の事故であっけなく他界し、住むためにここへ来た時も、自分は何も悪いことをしていないのにどうしてこんな目に会わねばならないのか、と泣いたものだった。 だが今は、この詩篇の意味が解る。
「イルカ」
もうすっかり自分より背が低くなってしまった祖父は、白い髭を顎に蓄え、同じ色の頭髪もまだまだ薄くはならず元気だったが、やはり老いていた。 特に、母が死んだ後は急に老け込んだような気がする。 だが、自分の為に厳しく優しくおおらかに側に居てくれた。 長く中学校の校長をやっていたのだが、去年それも勇退し、今は晴耕雨読の毎日だと年末に聞いたばかりだった。
「風呂が湧いているから入りなさい」
「はい」
壁の詩篇の前でぼーっとしている自分を見上げて、祖父は少し首を傾げ、何か言おうとしたようだったが言葉は紡がれなかった。
風呂から上がると、簡素だが温かい食事が用意されており、それまで全く何かを食べるという事に考えが及ばなかったイルカだったが、実家でのみ食べる事ができる田舎味噌を使った独特の味噌汁の匂いに、初めて空腹を覚えた。 どんな時でも人間は腹が減るのだな、と思うと、少し元気が出るような気がして不思議だった。
「就職先は決まったのか?」
「いいえ、まだ」
「そうか、まぁのんびりやりなさい」
「はい」
年末に帰省した時も尋ねられた事を重ねて問われ、苦笑とともに申し訳なさから溜息が漏れる。 少し呆けがきているのかな、と心配にもなった。 祖父の家の近所には母の兄の家族が住んでいて、何年も前から同居を申し出られているらしい。 だが、足腰が立つ裡はこの家で一人で居る方が気楽だと、突っぱね続けているんだと、正月に挨拶にきた伯父から聞かされた。 おまえが一緒に住んでやるのが一番いいのではないかと、それとなく言われている気がして気が引けた。 就職先も決まらず、一人で遠地に住み、祖父に何かあっても直ぐに駆け付けることもできない。 それでも祖父自身から、帰ってこちらで適当に就職せよと言われたことはなかった。 伯父夫婦は音楽など道楽で職業にするものではない、と頻りに言う。 母もそうだったらしい。 兄と兄嫁に責められ続け、父と逃げるようにして横浜に移り住んだのだと、死後に初めて聞かされた。
「おまえが風呂に入っている間にの、おまえに電話があった。」
「え?」
心臓がドクリと鳴る。 だが、カカシはここの住所も電話番号も知らないはずだと言い聞かせて、啜っていた汁椀と箸を置き、祖父に向き直った。
「どなたからでしたか?」
「おまえが昨日、面接を受けに行った楽団の団長さんだそうだ。」
「…」
カカシとあの話をしていたあの人か、と頭が真っ白になる。 そう言えば履歴書に本籍も書かされた事を思い出した。
「なんと?」
「もう一度、受けに来て欲しいそうだ。」
「そうですか」
「とにかく、あちらに帰ったら一度連絡しなさい。」
「はい…。 でも、どうしてここに居ると判ったんでしょう。 俺誰にも言わずに出てきたのに」
「さてのぉ」
祖父は白い顎髭を擦りながら首を傾げ、こちらに目を向けてきた。
「何か、あったのか?」
「…」
やっと、と言った風に祖父が心配を初めて口にしてくれた事に対して、何もない、と言えなかった。 きっと顔に出ている。 自分はすぐ感情が顔に出ると、昔からよく皆に言われた。
「友達とちょっと、喧嘩しました。」
「向こうで友達ができたのか?」
「はい」
「大事な、友達になれたのか?」
それは、お互いがお互いを大切に思っている”友達”という意味だろうか。
「…はい、とても」
ああ、これが自分の正直な気持ちなのだと、この時初めて判った。
「失くしてしまう前に、仲直りをしなさい。」
「はい」
おじいさん、友達ではないんです。 俺はその人の事、好きなんです。 他の誰よりも、好きで愛しているんです。 その人になら、男の身で抱かれることも嫌ではないくらい、その人が愛しいんです。 おじいさん、俺は…
「イルカ」
心の内で懺悔しているのが聞こえたのかと、ビクッとして慌てて祖父の顔を見ると、祖父は優しい優しい顔をして、こちらを見ていた。
「疲れたらいつでも帰っておいで」
「……はい」
ポロポロと零れる涙で、その後の食事の味が全然判らなかった。
・・・
『ああよかった! 連絡取れなかったらどうしようって思ってました。 海野イルカ君、この間はごめんなさい。 君にはこんな事言えた義理じゃないんだけど、もう一回ウチの入団試験を受けにきてくれませんか?』
電話の向こうの声は、どこか幼稚っぽかった。 あの人、焦るとこんな喋り方になるんだ、と金髪碧眼の容姿が頭に浮かんだ。 彼はどこかナルトを思い出させるところがあった。
「はい、そう言っていただけて嬉しいです。 俺の方こそ、失礼な態度で帰ってしまって」
『ほんと?! よかったー』
喋り方はどこかカカシに似ていると思った。
『ウチの入団試験はね、ほんとは楽団員全員の前でやってもらって全員で決める決まりなの。 だから今度はそのつもりで来て下さい。 アレグロの曲とアダジオの曲と両方弾いてもらうから、選曲は君の自由でいいから譜面もそっちで用意してきてね。 あと、こっちの楽団員の誰かとアンサンブルもしてもらうから、何かやりたい曲とかある? あ、そう言えば』
マシンガンのように続けさまに喋っていた楽団長は、急に電話口から遠ざかったのか声が遠くなり、何かぶつぶつ言いながらガサガサとした音をさせて暫らくイルカを置き去りにした。
「あ、あのー」
『あ、あったあった。 あのね、君この前忘れ物したって言ってたでしょ? それ楽譜?』
「はい、あの」
『バッハのドッペル・コンチェルトの譜面が落ちてたのね、じゃあやっぱりこれ君の?』
「ああはい、多分」
『じゃあアンサンブルはこれでいいか』
「え、いえそれはあの、困りますっ」
思わず拒否の言葉を上げてしまってから焦った。 そんな事を言える立場ではないのに。 だがそれはカカシと練習中に中途半端に終わらせられてしまった曲なので、他の誰かとやるのは今はまだ自分にはできないような気がした。
『え? そうなの? 僕これ聞きたいな、好きなんだよねコレ』
「はい、あの、でも」
『うーん、じゃ、何か他の考えといてくれますか。 そんで来るまでに連絡ちょうだい。 こちらでも譜面とか用意しときますから』
「はい、すみません」
『とんでもない! 謝るのはこっち、ね、ほんとごめんね。 絶対来てね。 今度はカカシには来させないから』
「あの、あなたはカカシさんとは、どういう…」
『僕達、親子なんだ。 今度会ったらその話もしましょう。』
「はぁ」
親子? 似てない…、喋り方以外は全然似てない。
『じゃ、待ってまーす』
「は…」
こちらの返事を待たずに電話は切れた。 のんびりしているのかせっかちなのか判らない人だと、嵐のような会話に翻弄されてイルカも受話器を置いた。
・・・
その楽団は、温かい雰囲気でイルカを迎えてくれた。 そして3曲弾いた後、拍手でイルカの入団を受け入れてくれた。 イルカはやっと、望んでいた仕事を得ることができた。 父と同じ、楽団の中での2ndバイオリンという職を。
色々な事務手続きを終え、改めて楽団長に挨拶に行くと、彼は満面の笑みでイルカを待っていた。
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