バヨリン

-Violin-



               6.Offertoire(奉献歌)


「強情な子だわ」
 車で待っていると、紅が盛大に溜息を吐きつつ帰ってきてドカリと助手席に座った。
「だめだったか」
「ええ」
 苛々とした様子から、話し合いが上手くいかなかった事は聞かなくても知れたが、一応確かめる。
「あんまり聞き分けが無いから、もういいわよって椅子を蹴って出てきちゃった。」
「おいおい」
 これだから短気な女は困る。 返って話をややこしくしてないか?と心配になった。
「でもね、最後にあの子ぽつって聞くのよ。 カカシさんの本名はクロウなんですかって。 だから言ってやったわよ、クロウはあたしがスケアクロウから勝手に付けた芸名で本名はカカシだけど、それはトップシークレットだから言いふらさないでねって。 そしたらあの子、何て言ったと思う?」
「何て言ったんだ?」
「わかりました、忘れますって、こうよ!」
 紅はドカリとダッシュボードを蹴り上げた。

               ・・・

「忘れるって、あの人言ったの?」
 お土産だと言って渡した忘れ物の小袋を抱えてカカシは泣きそうな顔をした。 そんな顔はもう見飽きたと、アスマも紅もうんざりしていたのだが、改めて見せられると一応哀れになった。 自業自得だろ、と散々詰ってやったのだが、ここまで情け無さそうな顔をされると何も言いようが無い。
「あ… これ…」
 袋の中身を一つ一つ取り出していたカカシがポツリと呟いた。 そして、包装してある小さな小箱を慌てて開けるや、それを抱き締めてまた泣く。
「イルカ先生…」

「おい、マジ泣きしてるぞ」
「私物じゃなかったのかしら」
「どうせクリスマス・プレゼントとかだろ」
「味な真似してくれるわね、あの子も。 本気で別れる気あんのかしら?」
「俺も顔を拝みたかった」
「かわいい子だったわよ」
「おまえの審美眼じゃ当てにならんがな」
 こそこそと聞こえよがしに陰口を叩いてみても、カカシはただメソメソしているばかりだ。 いつもならとっくに反撃されている。 クリスマス・イヴに悄然と帰ってきてからずっとこうだ。 演奏も気が抜けたようなものにしかならなかった。
 そう、あれからカカシは致命的なスランプに陥って、幾つも公演をキャンセルせざるを得ない状態だった。 小さな地方公演はそれでもまだいい。 後日必ず再演すると約束し、多少の保証金を積んで許してもらう。 だが、大都市の演奏会はそうはいかなかった。 今一番切羽詰っている演奏会は、一ヵ月半後に迫っていた。
「おめぇもプロなんだからよ、そんな色恋沙汰でキャンセル出さすような真似、やめろよな。 いったいどんだけのファンがおまえの演奏会の前売りチケット買ってると思ってんだ?」
 え?っと凄んでみせてもカカシはクタリと項垂れたまま反応しなかった。

 ダメだこりゃ
 ああうぜぇ

「なんなら今度は俺が行って、そのイルカ先生とやらの尻の一つや二つ叩いてきてやろうか? そんでついでに美味しく頂いてきてやってもいいぜっ」
「やめろよっ」
「だったら根性みせろっ」
「ちょっとちょっと、何仲間割れしてんのよ」
 男同士で険悪に言い合っていると、紅がさも呆れたように割って入ってきた。

 自分達3人は学生時代からの仲間で、カカシを柱に音楽事務所を立ち上げプロモーションをしてやっと最近軌道に乗ってきた、まだ駆け出しのぺーぺーだった。 油断すると直ぐ足元を掬われるこの業界で、何とかかんとかここまできたのだ。 こんな事で何もかも台無しにはできない。 幸い、カカシには天に愛された才能がある。 それを世の人達も認め、楽しみしてくれているのだ。 それなのにこのバカは、と怒鳴りたくなっても仕方ないだろう。

「でも、俺にとってイルカ先生は、本当に本当に大切な人なんだよ。 俺の所為であの人がそんな、そんな悲しい事言って…、きっと一人で泣いてるに違いないんだ。」
「そうでもないかもよ」
 やめればいいのに紅が、女々しく言い募るカカシに追い討ちをかけるように容赦のない台詞を吐く。
「ちゃんとオーディションにも行ってるみたいだったし、バイオリンのお教室も恙無く続けてるっぽいわよ」
「そ…、それは、あの人、根が真面目だから」
「引き摺ってるのはおめぇだけじゃねぇのか?」
「そんなこと、…ないよ」
 だが最後は自信なさ気に声が小さくなった。

 ああ、心底哀れなヤツだぜ

「やっぱ俺がもう一度行ってくる。 そんでアンアン言わせてきてやらぁ」
「やめろっ 殺すぞ!」
 カカシは最近手を大事にしてあまり大立ち回りはしなくなったが、昔は結構な悪で腕っ節も強いのを知っている。
 だが、来るなら来いっと思った。
 久しぶりに相手になってやるぜっ
 腕力なら負けねぇ
 だがそこでまた、紅が口を挟んできた。
「ねぇ、彼にあんたの演奏会のチケットを送りつけてやったらどう?」
 おおっ、ナイス・アイディア!
 それならコイツも演奏に身を入れずばなるまいよ。
 なんて悪賢い、基、頭がいいんだ、女ってやつぁ。
「イルカ先生、来てくれるかな…」
「大丈夫、結構心配そうだったわよ」
「ほんと?!」
「ほんとほんと」
 嘘八百!
 全然脈無いって言ってなかったっけ?
 女って恐えー
 だが哀れなカカシは乗せられたようだった。

 これで取り敢えず、一ヵ月半後の演奏会は何とかなりそうだ。 だがその後は? ここはやはり俺が出張って、そのかわいいイルカ先生に頼みこんできてやるか、と思い決めた。

               ・・・

「だからよ、さっきから言ってるじゃねぇか、カカシのヤツに悪気は無かったんだよ」
「カカシさんが悪いだなんて、俺全然思ってません。」
「なら会ってやってくれよ」
「それはできません」
「なんでだよ」
「…」
 まただ。
 大事なところに来るとだんまりになる。
 華奢な見た目に似ず、頑固で強情というのは紅の言った通りだったな、と思わず溜息が漏れた。
「これじゃ、カカシのヤツがかわいそうだよ。 アンタはヤツを手玉に取って溜飲を下げたかもしれねぇが、ヤツはまだ一途にアンタを想ってるんだぜ?」
「手玉に取ってなんか…」
 目を瞬かせてイルカは俯いた。
「おんなじ事じゃねぇか」
 もう少しだ。
 もう少しでこの男の本音が聞ける。
「俺はただ…」
「ただ?」
「……なんでもありません」
 またかよ
 どうにも頑固でいけねぇ

 アスマは辺りを見回した。 お稽古場に使っているらしいそのリビングには、都合よくソファがあった。 頑なに口を閉ざし、首を横に振る青年の手首を徐に掴み、ぐいっと引きずり出す。
「な、なにを!」
「口で言って判らねぇヤツには体に利かすって、昔っから相場が決まってるだろ」
「そ…、な…、やめ、嫌だっ 離せっ」
 男の身でありながら直ぐに何をされるか察しを付けるあたり、やはりカカシと体の関係があったのは事実らしい。 暴れているつもりらしい華奢な体をひょいと持ち上げて肩に担ぎ、ドスンとソファに投げ下ろす。 衝撃に咳き込みながらも、なんとか起き上がって逃げようとする体を組み敷いて腕を頭上に押さえ付けると、イルカは真っ黒い目を力いっぱい見開いて睨みつけてきた。
「止めてくださいっ 大声出しますよ」
「出してみろよ」
「た…」
 悔しそうに唇を噛み、それでも叫び声を上げられないお人好しな青年は、ポロリと涙を一滴頬に転がした。
「カカシさんがこうしろって、言ったんですか?」
「そんな訳あるか。 ヤツが知ったら俺は殺されるぜ?」
「俺に、俺にどうしろって言うんです。 俺とあの人は、全然住む世界が違うじゃないですか」
「それがおまえの本音か?」
「俺だって一生懸命忘れようと頑張ってるのに、どうして皆してそう関わらせたがるんですか。 あの人、だってあの人、俺なんかに関わったって何にも得なことない。 それどころかスキャンダルにでもなったらどうするんです。 男同士なんですよ?」
「そうならないように、俺達がサポートしてやるよ。 だから一回だけでもアイツに会ってやってくれよ。 アイツの言い訳、聞いてやってくれよ」
「嫌ですっ」
「なんでだよ」
「だって俺、俺… もしもう一回会ったらもう我慢できないものっ 今だって、今だって…」
 ポロポロと涙が零れ出し、イルカは堪らずといった風に顔を覆って嗚咽した。

               ・・・

「落ち着いたか」
「はい」
 勝手に人の家の台所を漁り、なんとかコーヒーを二人分淹れてイルカに渡す。 彼は一頻り泣いて気が済んだのか、目元を赤く腫らし鼻を啜り上げてはいたものの、多少素直に話し相手になる気になったようだった。
「だいたい、なんで気が付かなかったんだ? 結構、ヤツは顔が売れてると思ってたんだけどなぁ」
 そう思ってたのは俺達だけか?と少し落ち込むが、イルカは首を横に振った。
「俺んちテレビ無いし、雑誌とかも余り読まないし」
「でもCD持ってるじゃねか」
 壁際のボードの上にコンポが有り、その周辺に何枚か散乱しているCDを手に取りながらアスマは訊いた。
「はい…。 ほんと、どうして気が付かなかったんでしょうね。 髪型とアイパッチしか違わないのに…」
「いつ会ったんだ?」
「多分、去年の春受けたオーディションに、特別審査員としていらしてたはずです。 でも俺、その時は一時審査で落ちたし、全然目立ったりしてなかったと思うんですけど…」
 ”いらしてた”かと、敬語を使われた事をカカシが知ったら、さぞ悲しがるだろうと思った。
「煙草は…、だめなんだったな」
「いえ、どうぞ」
 ヘビースモーカーなのでそろそろ限界に来ていた。 元々華奢なのだろうが、さっき担ぎ上げた時の体の感触や重さが余りに儚くて、カカシの気の使いようが大袈裟ではないと感じていた。 仕方ない、出直すか、と立ち上がる。
「いや、今日は帰るよ。 カカシがな、おまえさんの側では絶対に煙草は吸うなってな、煩くってよ。」
 イルカはじっと見上げると、また新たな涙を一粒だけ零した。 お互いこれだけ想い合っていて、ロミオとジュリエットじゃあるまいし、と溜息が漏れる。
「後で来月のアイツのコンサート・チケットを送るから、聞きにきてやってくれよ。 アンタが来るならヤツも少しは頑張るだろうからさ」
「…はい。 頑張ってくださいと、お伝えください。」
「来てくれるのか?」
「はい」
「ほんとか?」
「はい」
 しつこく尋ねると、イルカは少し笑みを零した。 そしてポツリと呟くように付け加えた。
「先日の紅さんや、あなたみたいなお友達が側に居て、カカシさんは幸せですね」
 その優しげな表情や雰囲気が一緒にいてとても心地よかった。 それに、先程押し倒そうとした時感じた、怯えの中に混じる色。 カカシがこの男に惚れ、虜にされた理由が判ったような気がした。




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