バヨリン

-Violin-



               5.Introit et Kyrie(入祭唱と求憐唱)


 その青年は、両手と肩に荷物をいっぱいに下げて店に入ってきた。 右手に大事そうにバイオリン・ケースを下げている。 間違いない、この青年だと確信する。 彼は、濃紺の少し古びたダッフルコートを着込んだ上からでも、細い体つきが見て取れた。 顔は細面で真っ黒い髪と対比するように青白い顔色だった。 あまり丈夫ではないのかもしれない。 長めの髪は、男としては珍しくポニーテールにしてあり、歩くたびにピョコピョコと揺れていた。 入り口で立ち止まり、大きく真っ黒な瞳がキョロキョロと辺りを見回す仕草はどこか幼かった。
「ここです」
 手を挙げて合図すると、青年はハッとして息を呑み、ゆっくりと近付いてきた。
「こんにちは」
「こんにちは」
 声は、少し高めのテノールで、耳に心地よい響きを持っていた。 対面に座るように促すと、一つづつ荷物を下ろして落ちつかな気に椅子に座る。 視線はテーブルに落ち、こちらを見ようとしなかった。
「海野イルカさんね?」
「はい」
「初めまして、私こういう者です。」
 名詞を一枚取り出してテーブルの上を彼の目の前まで滑らせる。 彼は俯いたままそれを食入るように見つめた。
「音楽事務所?」
「そうです。 今は、はたけクロウのマネージメントをしております。」
「そうですか」
「あなたがあの、イルカ先生、ね」
 カカシの名を出しても、相変わらず俯いたままで感情を表さない彼に焦れて、紅は早々に切り札を見せた。 すると青年はハッとして顔を上げ、こちらを見た。 黒い瞳がユラリと揺らめいて、カカシはこの瞳にやられたのかと思った。


 カカシがここ半年ほどソワソワと落ちつかない様子で、頻りにどこかへ出かけては一喜一憂しているのは判っていた。 どこかの小娘にでも懸想しているのかと放っておいたのだが、まさかこんな事になっているとは思わなかった。 この目の前の青年は明らかにカカシと同じ男性で、少し気弱そうではあるがその手の嗜好の持ち主に有りがちなナヨナヨした態度は見られなかった。 もちろんカカシも今までそういった傾向など一切なかったのだ。 ノーマル同士の突発的な恋愛なのか。 厄介だなと、正直溜息が漏れる。 二人とも器用に割り切ることなど、できそうにないタイプだった。


「あのこれ、カ…、クロウさんの忘れ物です。 返しておいてください。」
 紅が黙っていると、イルカという青年はちょっと困ったように逡巡した後、自分から口火を切ってきた。 荷物の一つから中くらいの紙袋を取り出し、コトリとテーブルに置く。

 ずっと持ち歩いていたのか

 彼は明らかに旅行帰りの身支度だった。 カカシの話通りなら、あちこちのオーケストラへの就職活動をしているらしいから、その帰りなのかもしれない。
「じゃあ、これで」
 しかもサッサと話を切り上げて腰を浮かす。 待て待て、いったいどうして態々遠路遥々こんな田舎までやって来たと思ってるんだ、と内心突っ込みながらも笑みを絶やさず、もう少しお話したいのですが、と引き止める。 彼はまた困ったように眉尻を下げて、ポスリと椅子に座り直した。

「イルカさんにはうちのはたけがご迷惑をお掛けしたようで、監督不行き届きで申し訳ありませんでした。 今後は二度と、イルカさんにご迷惑が行かないようこちらとしても務めますので、イルカさんもそのつもりでいらしてくださいね」
 釘を刺すつもりでそう言うと、彼は少し瞳を潤ませまた俯いた。
「はい」
 意外と素直に返事を返され、もっと駄々を捏ねられるかと構えていた紅は拍子抜けした。 
 それにしても言葉少なな青年だ。 こんなんで社会でやっていけるのか。 何度もオーディションに落ちていると聞いているが、これでは仕方なかろうと、冷めた目で見てしまう。 こんな男がカカシをどうやって垂らしこんだのか。 それともカカシの言う通り、カカシの方が彼を口説いて落としたのか。 喩えそうだとしても、それを認めてしまう訳にはいかなかった。 ウチのカカシには将来がある。 こんな何の才能も無いような、それも男になど、大事なカカシの将来を潰されては堪らない。
 だが彼は、それ以上何も要求らしい事を言ってこなかったので、一先ず安堵の溜息を吐いて紅は煙草の箱を取り出した。
「ところでねぇ、ひとつ聞いてもいいかしら」
 幾分砕けた口調に直し、少し突っ込んだ事を確かめておくことにする。
「はい」
 取り出した煙草をテーブルの上でトントンと叩き、口に咥えてライターで火を点けるのを、彼はぼーっとした顔でただ見つめていた。
「あなたもよかったらどうぞ」
 仕舞い掛けた煙草の箱を、思い返して彼に差し出すと、彼はフルフルっとかぶりを振った。 いちいち仕草がかわいらしいじゃねぇか、と苛々する。
「いえ、俺は吸いません」
「そう」
 そう言えば気管支が弱いんだとカカシが言っていた事を思い出し、慌てて灰皿で揉み消す。
「ごめんなさい、嫌だったかしら」
「いえ、どうぞ遠慮なく」
 だが彼は、返って吃驚した様子でこちらを見つめてきた。 ほんとにかわいらしい。 それに素直だし、優しいし、いい子だわ。 カカシの気持ちが判って少し罪悪感が芽生えるが、退くつもりはなかった。
「ね、あなたウチのはたけとはどんなお付き合いをしていたのかしら。 差し支えなかったら少し教えてくれない?」
「…」
 彼の大きな黒い瞳が揺れる。 何を迷っているのだろうか。 何かを必死で考えている風にしてから、イルカは返事をした。
「俺のバイオリン教室の生徒さんでした。」
「それだけ?」
「はい」
 それは聞いていた。 何をバカなと罵ったものだ。 あんた自分を誰だと思ってるの? 天才の名を欲しいままにするチェリストのはたけクロウなのよ? と。 だが、本当だったようだ。
「体の関係があったと、ウチのはたけは言ってるのだけど、本当?」
「それは…」
 本当だったんだ。
 言葉に詰まる彼の表情が如実に真実を語っている。 だが彼は、瞳を横の窓の外に彷徨わせた後、キっとこちらを睨むようにして顔を戻した。
「そんな事はありません。 カ…、あの、クロウさんが何とおっしゃっているか俺知りませんけど、あの人は唯の生徒さんで、俺は唯の先生でした。 もう俺、あの人に関わりませんから、どうぞご心配なさらないでください。」
 先程から「か」と言って詰まるのは、カカシの本名を知っていて、否寧ろ、本名しか知らなくて、あのカカシがクロウだとは全く気付いてなかったのだ、と判った。 それだけで二人の親密な関係が知れるというものだ。 カカシの本名は固く秘されていたからだ。
「そう」
 でも、そんな事知ったこっちゃないわ。 あんたが黙って身を引いてくれるっていうなら話が早いってもんよ。
 そう自分に言い聞かせてみても、シクシクと痛み出した”良心”という架空の存在が、紅の背筋をツンツンと叩く。

 ああもう、わかったわよっ

 ひとつ、大きく溜息を吐き、紅はイルカに話し出した。 本当の事を。

「実はね、カカシが参ってるのよ。 もうどうしようもない程スランプなの。 塞ぎこんじゃって手の付けようがないのよ。 あなた、意地を張ってないでカカシに会ってくれないかしら」

 イルカという青年は、その黒い、黒い瞳を、大きく見開いた。



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