upstream
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寝室の壁のタペストリィを捲り、その後ろの壁面にある微かな窪みに指をかけ力一杯引くと、その扉が開く。 それは数年前に偶然に発見した隠し部屋だった。 中には机一つと壁を埋め尽くすように置かれた書棚と、足の踏み場も無いほどの書物と巻物の類で満ちていた。 発見当時は、だが。 今は少しづつ空いてきている。 多分父親も知らない秘密の部屋だ。 自分の曾お爺様のはたけサクモの研究室兼資料庫。 異端審問官に見つかったら確実に火炙りにされるであろう禁断の園である。
はたけサクモは、生涯をかけて天使や悪魔の研究に身を捧げた人だったらしい。 否、”身”だけではない。 私財も湯水のように投じた。 はたけ家の身代が傾いたのも彼の所為だと言う。 彼が、訳の判らない(父親の言うには)何の価値も無い古文書やら地図やら遺物やらに惜しげもなく大枚を叩いてしまい、また世間知らずのお貴族様のそのような”趣味”を聞きつけたその手のいかがわしい商人達が後から後から怪しい品々を売りつけてくるようになり、伯爵家として何不自由なく暮らしていたはたけ家はあっと言う間に困窮した。 しかもサクモ本人は世界中を旅して歩いていて留守勝ちだったために、余計に寂れたらしい。 現在ここまで持ち直したのは、自分と自分の父の功績であると、耳にタコができるほど小さい頃から聞かされてきたことだ。 だからオマエもしっかり”商い”を覚えろよ、と言うのだ。 父の言う商い(だがその実体は裏取引や闇取引きの数々)を引き継ぐためにはまず、身を固めて世間的な信用を勝ち得よと、そればかりだ。 世間的な信用…、損の無い相手と婚姻を結ぶ事がか? まだ17だぞ? 勘弁してくれ、と爛れた生活三昧の毎日。 でもそれさえ偶に耐えられないほど鬱陶しくなることがある。 そういう時、アスマにどろどろに抱かれるか、それでもダメならこうして秘密の隠れ場所で一人息を吐く。
「あの子…イルカと言ったっけ。 黒い髪に黒い目なんて、明けの明星ルシフェルか、それとも…」
最近、ふとした事で知り合った知人に大量の資料を貸し出してしまった。 もちろん大金と引き換えの、姑息な小遣い稼ぎだった。 あんな古文書の山にアレだけの金を惜しむ事無く払うなんて、サクモと同じ類の人間なんだろう。 自分も幾らかは読んでみたのである程度の知識なら有るが、うっかり口にして父親に知れたら怒り狂うのは目に見えているし、せっかくの資金源を取り上げられてしまう。 父や祖父は、とっくにサクモの残した”訳の判らない””忌まわしい”異端の神像や絵などを古物商に売り払ってしまっていた。 取って置くなどもっての外だと言う訳だ。 ましてや、そんな物がまだ屋敷内にあると世間に知れたり、件の異端審問官の耳に入るようなことは決してあってはならない。 自分もまた、何も見なかった事にして再び封印してしまおうかと考えていた。 だが、金に換わると判り、話は変わった。 こっそりそれで商売をしたカカシだった。 アスマにさえ話していない。 サルトビ家は、斯く言うサクモ本人が”悪魔召喚儀式”などをとり行なう場合の万が一の為に側に控えさせていた”それ”専門の戦闘を生業にした一族で、自分が”そんな”事に首を突っ込んでいると知れば、唯で済ませてはくれまい。 面倒な事は嫌いだし、アレコレ言われるのもうんざりだった。 だから”そういった”事に拒否反応を起こさない相手に出会った時は寧ろ驚愕したものだ。 こういう人間も居るものか、と。 いや、彼らは拒否反応を起こさないどころか三度の飯より”そういう"事が好き、と言った方が正しかろう。 彼らにとっては、はたけサクモの資料庫は宝の山なのだ。
「ルシフェルよりもっと似合いな悪魔が居そうなのに」
天使でなく悪魔を先に思い浮かべる自分を笑った。 こんな所はサクモ譲りかもしれない。 悪魔と言っても堕天使だ。 元は天使。 他の堕天使達もルシフェルに従ったまで。 主に背いたのは結果だ。 こんな事を口にすれば、もちろん直ぐに審問所に呼び出される。 毒が吐けるのは、資料を貸した相手だけ。
自分は貸したつもりだが、もう返ってこないかもしれないな、と溜息が漏れた。 もっと吹っ掛ければよかった。 アイツら、Golden Dawnとか言ったか。 サクモの資料を基に何か編纂しているらしいが、本ができたら一番に持って来させよう。 偉そうに「史上最高のグリモア(魔術書)になる」と豪語していた。 読み辛かった(中には全く読めない文字の物もあった)古文書の山が、一般人にも読み易くしかも魅惑的に修飾されて毒を撒き散らすに違いない。 悪魔崇拝は今流行りだ。 挿絵とか付いていたらもっといいな。
「レライエ、レライエ、私の鳥…か。 レライエはどんな悪魔だったっけ」
サクモの机の上一杯に散乱していた紙片に書き付けられていた詩篇とも言えない散文。 目立つ所にあり、もう覚えてしまった。 彼の研究対象は天使や悪魔全般だったが、特にソロモン王の72柱と呼ばれる悪魔(或いは精霊)達にご執心だったようだ。 その中でもレライエと呼ばれる悪魔の名が、彼の著作のそこここに登場し、サクモの関心…否、愛情を一身に集めていたことが、素人の自分にも判ったほどだった。 レライエ。 光の弓で光の矢を射る悪魔だ、確か。 はたけサクモが特別に愛した悪魔。 ソロモン王の72柱の…何番目だったかな、思い出せない。 やっぱり返してもらおう。
「ああ、くそっ アスマのヤツ、好き放題シやがって! 座ってらんない、もう寝よ」
明かりを消し、タペストリィを押して自室に戻ると一人のベッドに寝転がる。 体は疲れているのに目が冴えて、なかなか寝付けなかった。 その所為か、色々おかしな夢を見た。
・・・
暗闇で、黒髪黒目の悪魔がこちらを見て「はたけサクモ」と呟いた。
自分は魔法の壺を湖底で拾い、それを必死に擦っていた。
悪魔は言った。
ご主人さま、3つだけ願いを叶えましょう
緑の衣を纏い、右手に矢を、左手に弓を持ち、
放てば地平まで光の尾を引いて飛んだ。
そして、彼が微笑めば愛が満ち、彼が眉を顰めると病が満ちたので、
そのどちらも止めよと請うた。
代わりに俺を連れていって、湖底に一緒に沈もう
これで丁度3つだろう
悪魔は昏い笑いを浮かべて言った。
では代わりにこの壺に入り、代わりに湖底に沈め
何百年か後に誰か人間が拾って擦ってくれるまで、そこで腐っていくがいい
だから自分も笑って言った。
腐るだけならこの世界で充分だ、と。
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