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3
レライエ
レライエ
わたしの鳥
このままずっと
わたしのそばに…
「背中が痛いよ」
「お目覚めになられましたか?」
覚醒とともに襲ってきた背中の痛みに顔を顰めながらも、イルカは従者のサルトビを見て飛び起きた。
「ごめん、サルトビ。 それ、俺がやったんだね」
「いえ、もう直りかけでございますから」
顔と言わず手足と言わず、見えるところ全てに裂傷がある。 既に直りかけの傷痕とはいえ、闇の眷族の治癒力をしても一晩で治らなかったのだから余程酷かったのだろう。
「ごめんね…」
「大丈夫です。 それよりこれを」
優しく微笑みかけられてイルカは涙ぐんだ。 いつもいつも迷惑ばかりかけてしまう。 それなのに、こんな自分に何十年も仕えてくれて、支えてくれる。
「これなに?」
イルカは、目元を手の甲で擦って差し出されたグラスを受け取った。
「お聞きにならないでくださいませ」
「う…」
「そんな物でも多少はエナジーが宿っています」
生臭い匂いに嘔吐感が起こる。 口元と鼻を片手で押さえて突っ返すが、いつも優しい自分の一番の従者は渋い顔をして押し戻した。
「一昨日の晩、目覚めたばかりなのに変身なさったのですから、召し上がらなければなりませぬ」
「え? 俺、二日も眠ってたの?」
「さようでございます」
これ以上弱られると取り返しがつきませぬぞ、と窘める口調で重ねて言われ、イルカは仕方なくそれに口を付けた。 鼻を抓んで飲んでも吐き気がする。
「まずい」
「今は我慢してください。 狩りはやり直さなければ。 アナタが女の血でもよいと仰ってくださればもっと」
「女の血は嫌だ」
「そんな我侭を」
「だって、嫌いなんだもの」
昔は平気で飲んでいたらしいが、ここ何十年かイルカは女の血を受け付けなかった。 だから狩りの獲物は男になり、自然女を相手にするより困難になる。 昔と違い、今は殺してしまうと何かと面倒なので、殺さぬよう気取られぬように少しだけ頂かなければならず、余計に手間がかかった。
「アナタには新鮮な血が必要です。 早急に狩りをしなければ。 でも、あのサロンにはもう行かれない方がよろしゅうございますな。 狩り場を変えてやり直しましょう。」
「う…ん」
「堕落した貴族どもばかりの、いい餌場だったんですが」
「うん」
貴族は対面を重んじる。 親族が主に背くものに血を吸われたなどと、ましてやその所為で変死したなどということになれば家名に傷が付く。 彼らは病死したことにされ、闇から闇へ葬られる。 昔と違い警察力がバカにならなくなってきている昨今、庶民を襲うよりリスクが少ないと言えた。
なんとかグラスの中身を飲み干すと、サルトビはやっと満足そうに微笑んで頷いた。
「ねぇ、あの人って…」
「イルカさま」
だが、イルカがあの銀髪の貴族のことを口にすると、また直ぐに顔が険しく曇る。 確かに思い出すのも恐ろしい顛末で、その所為で永くこの大陸から離れていなければならなかったほどなのだ。 でも、気になる物は仕方がない。
「彼の子孫…ってことだよね」
「お忘れなさいませ」
「サルトビ〜」
「意識を保てなくなったのはドナタです?」
「う〜」
突然で心の準備ができていなかったんだもの。 ここへ帰ってくればそういう事あると、判っていたはずなのに。 でも、今はもう大丈夫。 一応血も飲んだし。 彼が目の前に居ない限り、我を失うほど狼狽えるなんてしない。
「ねぇ、教えてよ。 彼の孫?」
「存じませぬ」
知らない訳がない。 この男は自分の安全の為にあらゆる手段を講じているはずだ。 調べていないはずがない。
「サールートービ〜」
「曾孫です」
サルトビは諦めたように溜息を吐き、答えた。
「そっかぁ、もう70年以上経ってるんだよね。 俺、あの人かと思って狼狽えちゃったけど、有り得ないよね。」
「”まだ”70年です。 当事者は生きていないにしても、まだまだ人々の記憶からはそう容易くは無くなりませぬ。 油断は禁物です。」
「そうだね」
斯く言う自分も、その70年の内の何分の一かは眠っていたのだし、”人”の時間の感覚と自分のそれとでは大きなズレがある。 多分、自分にとっての70年前は、”人”にとっての一昨日と同じくらいなのかもしれない。
「俺ね、彼の所為で女の血が飲めなくなったんだ。 彼の血を初めて飲んでから暫らくは、男でも他の血は嫌だったもの。 それくらい彼の血は特別だったんだ。 ね、サルトビ、俺、彼の曾孫の血が欲しい。」
「イルカさま、お忘れですか? あの一族には我がサルトビ家が血の盟約に従って今でも仕えているはずです。 闇に棲まう物を屠るためだけに生きる者達です。 特に、現当主の長子が中々の使い手と聞きます。 どうか近付くのは」
「彼付きの元当主だったオマエが言うのだから、確かだろうけど…。 でも俺、どうしてもあの人の、彼の子孫の血が欲しいんだ。 あの味が忘れられない。 ああ、喉が疼くよ。 次もあのサロンに行こう。」
「イルカさま…」
溜息を吐き、呆れたと言わんばかりの顰め顔は、だが従順な僕の顔となり、主人の願いを叶えるべく策略を巡らすために頭をフル回転させているのが窺われた。 ああ、頼もしい。 そして待ち遠しい。 早く、早くあの血が飲みたい。
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