upstream


2



       レライエ
       レライエ


 イルカは、押し込められるように乗せられた馬車の座席に丸くなり、啜り泣いていた。 見るはずのないものを見た。 あの顔。 銀の髪。 碧い瞳。 暗闇でもはっきり見えた。

「ちがう、ちがう」

 目を瞑り、頭を抱えて耳を塞ぐように蹲り、思考を遮断しようと努めたが、長期休眠から目覚めたばかりで時間の感覚に混乱のある今の状態で、洪水のように甦ってくる遠い記憶から逃れることができなかった。 忘れたくても忘れられない声が繰り返し自分を呼び、余計に記憶を混乱させる。 早く、早く帰りたい。 どこへ?

「イルカさま、もう暫らくの辛抱です」

 御車台から従者のサルトビが気遣わしげに声を掛けてくる。 馬車は疾走している。 車輪が悲鳴のような回転音を上げ、石を踏むたび不規則に跳ねて叫ぶ。 道の両側から迫る木立。 天井を擦る枝。 掠れ軋んだ音。 そのもっと上では鵺が鳴き、森の奥では獣が吼え、遥か南の海岸の岩壁を打つ波飛沫の音まで聞こえてくる。 それらに聴覚を集中させて必死で抗った。 過去へ過去へと囚われていくことから。


       レライエ
       わたしの鳥


「俺じゃない!」

 俺に翼なんかない…!

 それなのに、頭の奥深いところで響くのはあの懐かしい声なのに、彼が呼ぶのは自分ではない。

「サルトビー! もうダメだ! 止めて!」
「イルカさま!」

 めきめきっと背中に激痛が走り、イルカは更に体を縮こまらせて喘いだ。 最早意識は遠退き出している。 はぁはぁと荒く息を吐き、油汗を掻いて全身を貫く悪寒に硬く体を抱き締めた。

「あうぅ…サル…ト…ビ…」

 厚手のツイードのコートと中の衣類諸共にイルカの背中を突き破って翼が現れるのと、馬車が猛スピードで屋敷の門を潜ったのは同時だった。

               ・・・

 後ろの客室からイルカの悲鳴とも咆哮とも吐かない叫びが上がったが、サルトビは馬を止めずそのまま正面玄関まで雪崩れ込むように走り抜け、急カーブして大扉の前に横付けた。 既に連絡していたので、中から数人が飛び出てくる。

「早く! イルカさまを」
「はいっ」

 召使と共に馬車の客室扉を開けようと走り寄ったがその瞬間、それはひとりでに開いた。 中から漆黒の闇が溢れ出る。

「ひっ」
「遅かったか…」

 イルカはゆっくりとステップを踏んで地面に降り立った。 背中からはその髪と同色の真っ黒い翼が伸び、イルカの細い体を包み込んでいる。 両の瞳は赤い血の色に染まり、妖しく光っていた。

「オマエ達は下がっておれ」

 まだ間に合うかもしれない。 浮き足立った者達は遠ざけ、精神を落ち着けて集中する。 そして素早く幾つかの手印を結び、低く呪文を詠唱した。 荒らぐ魂を鎮める術。

「小賢しいぞ、サルトビ」

 いつものイルカの声ではなかった。 それは古の悪夢を抱いた魂。 夜の眷族達を統べる王たる者の威圧感が滲み出る。 だが彼は今、目覚めたばかりで”食事”もしていない。 まだ鎮められる。 早く…

「そこをどけ。 食事に行く。」
「お待ちくださいっ レライエさま!」
「俺をその名前で呼ぶなっ!」

 イルカが怒りも露に腕を振るったので、カマイタチのような旋風が巻き起こり一帯を切り裂き渦巻いた。 そして両翼を広げるとバサリと一回羽ばたき天を仰ぐ。 だが幸いなことにその一瞬後には鎮魂の術が完成し、今にも風に乗って飛び立たんとしていたイルカの体を拘束した。

「離せっ」
「お鎮まりください」
「ううう」

 黒い翼が黒い羽となってイルカの背から舞い、散り々々に飛んであたり一面に巻き上がった。 イルカは崩れるように倒れた。 その翼を失った体を慌てて抱き止め、側使いの者を呼ぶ。 暫らく目は覚めないだろう。

「お労しや、イルカさま」

 今日の狩りさえ首尾よくいってさえいれば。 あの男に会いさえしなければ…。



BACK / NEXT