upstream


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 いつものとおり、薄暗い室内には阿片の香りが立ち込め、さわさわとさざめく話し声や物憂いリュートの調べがそこはかとなく流れ、行き交う人々の影がシルエットになって影絵芝居のように揺れていた。 退廃的な雰囲気。 自堕落な生活。 何ものにも心動かされない退屈な日々。 きっとこのまま心根まで腐って崩れ落ちて、塵と化して風に飛ぶのだ。 そう、バンパイアの伝説のように。 そんな風につらつらと思っていた時、その人が現れた。

「…」

 そこかしこで起こるざわめき。 自分と同じ退屈しきった人々が皆、彼に注目して色めき立っている。 変化の無い凪の水面に、ひとつ石が投げ込まれたかのようだった。

「あれは誰だ?」
「海野男爵さまのご子息でいらっしゃいます」
「海野? 聞いたことないな」
「永く海外を旅行していらっしゃって久しぶりにこちらへ寄られたそうです。 カカシさまはご面識が無いかと」
「永く? だって俺より年下じゃないのか? アイツ」
「たしか…一つ年下ではなかったかと」
「ふーん」

 ご幼少の砌から海外旅行三昧とは。 男爵家のくせにいいご身分じゃないか。 貿易か何かで巧く稼いでいるのだろうが、ここ社交界に於いてはやはり爵位がモノを言う。 こんな、内情は借金だらけで火の車の財政状況を抱えてはいても伯爵家は伯爵家。 皆、一目置くし、逆らったりしない。 それがつまらないと言えばつまらないのだけれども。
 とにかく、暫らくは暇が潰せそうだと、カカシは思った。 真っ黒く艶やかな髪を肩までするりと垂らし、磁器のような象牙色の肌をしている。 遠目でよく判らないが、瞳も髪と同じ色のようだ。 東洋の血が混じっているのだろうか。 シノワズリ趣味が流行りの当世だ。 あちこちから熱い視線が送られて、早くも一声二声掛けられているようだった。 だが彼は、そのどれにも軽く会釈を返すだけで同席を拒み、ひっそりと最奥の暗闇の中に席を取った。 一人、背の低い白髪白髭の老人が控えているだけの寂しい様子だったが、今日は誰ともお近づきになるおつもりは無いと見える。 

「ここへ呼んで」
「は」

 斯く言う自分も誰も側へ寄せ付けないで居る一人だったが、それは散々取り巻きを回りに侍らせ白々しい世辞の言葉の洪水に身を浸した後のことだ。 あんな風に最初から何もかもを拒絶するのなら、なぜこんな社交界などに顔を出すのだろう。 まぁ理由なんかどうでもいい。 とにかく、この俺が皆に先んじて彼を囲う。 羨望の眼差しを浴びるのも久しぶりだ。

「?」

 だが、そんな風に珍しくわくわくする胸の内を抑えて興味の無さそうな態度を保ちつつも、さりげなく使いの者の首尾を見守っていたカカシは、彼の人のテーブルで何か悶着が起こったらしい様子に眉を顰めた。 どうしたのだろう? 使いの者が失礼を働いたか? 海野男爵ご令息は、使いの言葉を聞いてこちらに一瞥を投げるや、はっきりと顔色を険しく変えて激しくかぶりを振った。 そしてあっと言う間にその場から消えてしまった。

「なにをやってるんだ?!」
「それが…急にご気分が悪くなったとかで」

 苛々と使いが戻ってくるのを待って不手際を罵ると、使いは戸惑ったように言い募った。

 人々のエキゾチシズムを掻き立てたまま去ってしまった彼は、自分を一目見るなり真っ青になって震えだし、御付の者に宥められて外へ連れ出されて行ってしまったのだと言う。 そしてそのまま戻らなかった。 伯爵家の長子である自分の誘いを無視する形で。 永の旅路から戻りサロンのマナーを思い出せなかったか、はたまた男爵家と伯爵家の格の違いを正しく教わらなかったか、世の中を知らぬ唯の愚か者なのか。 そのどれでもなければ古の隠れた王族の後裔とでも言うのだろうか。 恥をかかされたカカシは唇を噛んで、益々面白くなったと歪めた笑みの下で思った。



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