同居人求む
- RoomMate -
14
小屋へと続く少し上り坂の小道の入り口に、郵便物など全く来ないのだけれど、一応取り付けてあるくすんだ赤いポストが立っている。 カカシが自分で作って自分でペンキを塗ったのだと聞いた。 彼が腰を屈めてペンキを塗る様を思い描き、そのポストがなんとも愛おしく思えた。 屋烏の愛ってやつだな、とこそりと笑ったものだ。 今、遠くにそのくすんだ赤が見えてきて、「ああ帰ってきた」と感じて、また少し笑う。 仮の宿だろ、と突っ込みを入れつつ笑うしかなかった。 だがその時、遠くから見たその赤い色の中に微かに白い色が滲んでいるような気がして、イルカは目を凝らした。 とっぷり暮れた辺りのように、不安という名の暗雲が自分の心にも薄っすらと広がっていくのが感じられた。
***
当時、例の薬に関係する部署の開発部長だった男は、この十年でその会社のトップに登り詰めていた。 イルカのヨーロッパからの帰国に前後して会長職に退いたものの、経営権を手放してはおらず、事実上のCEOだった。 邸宅は、広大な敷地に豪奢な邸と大樹の植木が混在する贅沢なものだったが、忍び込むには適していた。 何回か下見の為に来て、その内の何回かは実際に住居内にまで侵入した。 警備は普通の日本のそれだったはずだ。 だが、今夜眼下に邸を見下ろし、イルカは少なからず弱気になった。
「前より人が増えてる。 さっきの偽情報で会社側に警備が流れるんじゃないかって、期待してたんですけど」
「減ってるよ」
「これでですか?」
「うん」
結局、夜の街の屋根伝いを暗闇に紛れるようにカカシと飛んで来た。 「足りない」資料を盗みに入るはずなのに、社屋の方には行かず、この会長宅に来たことの弁解を幾つか考えたイルカだったが、カカシは何も問わなかった。
「この家、一ヶ月くらい前に警備増やしたんだもんね」
邸内外を歩き回る黒服は明らかに私設のボディガードのようだった。 金に飽かして数を雇ったか、イルカには蟻の這い出る隙も無いように見えたが、カカシはちょっと小首を傾げるようにしてウンウンと頷いた。
「数じゃないのにね」
「一ヶ月前って…どうして急に」
「その位が丁度頃合かな、と思って」
「頃合?」
「そ、短すぎてもつまんないし、かと言って長く間を措き過ぎて変に開き直られちゃっても面倒だし、ね?」
言っている事の意味が解らない。 今度はこちらが首を傾げると、カカシはニッと笑って事も無げにこう言った。
「俺がね、海野イルカが渡欧した本当の目的は、”人殺し”をする覚悟を決めるためだったんだって、クライアントに話したの」
「!」
気が付くと、カカシの手が自分の口を押さえていた。 声なんか上げる気は無かった。 でももしかしたら、上げていたかもしれない。 「しー」と耳元に息を吹き込まれ、フルッと震えた瞬間にカカシの手が外れたのだが、代わりに唇で塞がれたので返って正気に戻ったのを感じた。
「キスしない」
「えへ」
「えへ」じゃねぇ。 強く体を押し返しながら、でも、とまだ震えている自分を叱咤してカカシを睨んだ。
「やっぱり、全部ご存知なんですね」
「うん! イルカ先生のことなら何でも!」
しかもニコニコと…。 疲れる。 いったいぜんたいアナタは味方なんですか敵なんですか、どっちなんですか。 もうどっちでもいいからはっきりさせてくれ、と泣きたくなったのをよく覚えている。
「それで、”俺のために”警備を増やしてくれたって訳ですか」
「だからー、警備は少し減ったよ。 ほんとほんと。」
「数じゃないって…言いましたよね? 最後に邪魔するのがアナタなら、俺は」
「まだ邪魔するかどうか決めてないですよ」
「じゃあ、邪魔しないでください」
「俺のお願い、聞いてくれますか?」
「何でも! 何でも聞きます。 アナタのしたいようにしていいです。 だから」
この体なら、幾らでも存分に犯してくれ。 SMでも、変態プレイでも、どんな事でも構わない。 だから、俺の最後の望みだけは邪魔しないでくれと、まだ彼の腕の中で震えながら顔を見上げると、カカシはちょっと頬を膨らませて口を尖らせた。
「嘘ばっかり」
剰え、ぷいっと少しだけだったがそっぽを向いて目線を外してしまったので、イルカは慌ててその顔を両手で挟みこちらを向かせると、その色違いの瞳を交互に覗き込みながら訴えた。
「嘘なんか吐いてませんっ ほんとですっ」
信じてください、と、いっそ接吻けてしまおうかと考えて止めた。 体を使っても通用しなかった。 今そんな事をして逆効果だったらどうする。 言っている事に本当に嘘は無い。 5年前に心に決めた悲願さえ達成できれば、後はどうなったっていいんだ。
「信じてください、カカシさんっ」
「しー」
思わず声高になったイルカの口を口で塞いできたカカシの首に縋りつき、接吻けを自分から深くして舌を絡め、何度も角度を変えて啄ばみ、合間々々にまた瞳を覗いた。
「お願いです、嘘じゃありません。 カカシさん」
カカシさん、カカシさんと何度も名を呼ぶと、また、このままこの腕の中でずっと…という想いが湧き出してきて涙が滲んだ。 この人に出会うまでは終ぞ感じなかった気持ち。 否、常に有ったはずなのに敢えて見なかった気持ち。 それが表面化して、無視できなくなってしまっていた。
「そんなに唇噛んだらダメだよ」
もうカカシの顔を見る事もできず、その胸にしがみつき顔を押し付けて涙を堪えていると、ずっと背中を抱いて離さなかった手が片方外れた。 その暖かみをイルカが惜しむ間も無く、手は髪に当たり、ゆっくりと撫で付け、ゆるゆると心を溶かした。
「大丈夫、ちゃんと手伝いますから、ね」
挫けそうだ、もう挫けてしまいたい。 5年間見ないようにしていた、泣いて座り込む自分。 一回見てしまったら、一回その自分とシンクロしてしまったらもう立てない、とずっと無視し続けていた。 なのに、カカシの瞳に映る、泣きじゃくるその姿を見てしまった。
「カカシさん」
でも、その手を引いて立たせてくれたのも、カカシだった。
---俺、もうだめだ
もう止まらなかった。 重力に囚われて落下する隕石のように、イルカはカカシに全面降伏している自分を感じていた。
・・・
「あの」
太腿に括りつけた皮製ホルダーから、刃渡りが優に10センチ超はあろうかというサバイバル・ナイフを引き抜き、その鈍い光沢を月光に翳して何かを確かめるような仕草をするカカシに、イルカは思わず声を掛けていた。
「なに?」
にっこりと、その得物を翳す仕草には似つかわしくない笑みを湛えてカカシが振り向く。 それに見惚れながら、一度唾を嚥下して声を落とした。
「できるだけ、関係ない人はその…命を奪うような事はしないで欲しいんですけど」
「えーっ」
めんどくさいなー、とカカシがぶー垂れたので、日本では殺しはやらないんじゃなかったのかよ、と内心では突っ込んだが、彼が自ら囮役を買って出てくれた事を鑑みれば安易に非難もできなかった。
「その方が難しいことは判ってます。 でも」
「うーん、判りましたけどー、腕の骨1本とかー、奥歯の2・3本とかー、そのくらいはいい?」
カカシは玄関から殴り込んでくれると言った。 だからその間に、イルカは別ルートで目的の部屋へ行けと言ってくれた。 「全力で邪魔する」と言った時の様子では、ずっと自分に貼り付いているつもりなのかと思っていたイルカは少し信じられない気がしたが、有り難くその申し出を受けた。 時間がこちらの武器にもなり、相手の楯にもなる。 余計な詮索をしている暇は無い。 素直に感謝して行動しよう、そう思い決めたのだ。 カカシを信じる方に大きく傾いている所為もあったかもしれない。
「彼らも一応プロです。 その位はギャラのうちでしょう。」
「そうだよね! じゃあ、膝砕くとかー、肋骨1・2本罅入れるとかー、肩外すとかアキレス腱切るとか頚動脈」
「ストップ! カカシさん、日本人のボディガードに、腕の骨折られてまだ抵抗してくるようなヤツは居ませんよ」
「そうなの?」
と、不思議そうにクリッと小首を傾げるとホルダーにナイフを収めて、今度は脇に吊るした銃を取り出しマガジンとセーフティをチェックし出すカカシ。 .44口径は有ろうかというマグナム・オートで消音器も付いていなかった。 こんなデカイ銃、どうやって持ち込んだんだろう。 それにしても銃声は不味い。 銃創のある怪我人も不味い。 カカシなら致命傷を負わせずに済ませることができるだろうがやはり、とカカシの手元をじっと見つめていると、それに気がついたのか、カカシはイルカの顔と銃を換わりばんこ見比べて、「えへへ」と首を竦めてみせた。
「日本の警察は、銃の絡んだ事件には過敏に反応します。 できるだけ使わないでください。」
「はーいっ」
ぷーと少し膨れっ面はしたものの、セイフティを戻し銃をホルダーにしまったカカシは、だが制止する暇も与えずイルカの懐を探ってきた。
「でもー、アナタも持ってるじゃない?」
「なにす…、返してください」
あっと思った時はもう、イルカのシグはカカシの手に有った。 剰え、マガジンまで外され、装弾数を確認されてしまう。 最大15発分、全弾詰まっていた。 銃を持っていたことさえ秘密にしていたつもりだったのに、とショックを隠しきれないでいると、外したマガジンを自分のポケットにしまってしまったカカシに尚焦る。
「あ、の」
「俺も使わないからアナタも要らない」
ね、といつものように小首を傾げながら言われたが、銃は返してくれた。
「…」
「さ、始めましょか」
そして肩をポンと叩く。 オートマティックでチャンバーに予め1弾装填するのは常識だ。 態とか?と、思わずカカシの顔を凝視するも、慌てて視線を外して下を向いた。 どっちでもいいじゃないか。 1弾有れば事足りる。 自分だって無関係な人間を傷つけるつもりは無いのだ。 ただ、邪魔をされてどうしようも無くなった時は判らない、と思っていた。 そんな時、安易に銃に頼ることができなくなっただけだ。 最後の一発分の使い道に関しては、カカシもきっと許してくれたのだ。 そう自分に言い聞かせて銃をしまった。 少しだけ震える手をギュッと握りまた開く。 それを繰り返すその掌にカカシの手が重ねられ、体ごと引き寄せられて顔が寄って来た。
「キスしな…ん」
無意識なのか、項を押さえる手の指先に生え際を擽られ、ゾクッと産毛が立つのを感じて慌てて胸を押すと、カカシは意外とすぐに唇を解放した。
「さっき言った事、忘れないでね」
暗がりで光る赤と青の瞳。 まただ。 この目に見つめられると思考が停止する。
「さっ…き?」
「何でもお願い聞いてくれるって、言ったよね」
人形のように鸚鵡返し、問にもただカクンと頷こうとした顎をグイと捕らえられ、腰まで抱き寄せられて口中を深く探られて、掠れた喘ぎ声が出た。 それを合図のようにカカシの方から体を離されて、頼り無くゆらりと上半身が揺れた。 カカシが右手の親指の腹でゆっくりと濡れた唇を拭っていく。
「じゃ、後で会いましょう」
その手はふわりと頬に宛がわれ、数瞬の温もりをイルカに残し、目線を外さないままカカシは下に飛び降りていった。 暗闇に、赤と青の軌跡が流れたように見えた。
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