再見
5
イルカ 05
起きれる? と問われてかぶりを振ると、暗部の男のほうが自分の隣に寝そべった。思わず身体がギクリと強張る。まだ怖い。自分がびくついているのを知られるのさえ怖かった。そっと顔を窺がうと、それはそれはみじめったらしい表情を浮かべ、それでも少し自分との距離を置こうと身体の位置をずらすので、イルカは首を傾げずにはいられなかった。どうも行動が極端だ。
イルカの声が届く距離と自分で思い定めたのだろう、50cm程離れた先でこちらを向いて肘で頭を支えてこちらを見ている。やっぱり幼い。イルカが思わずちょっと微笑むと、やっと嬉しそうに顔を綻ばせてちゃっかり距離を詰めてくる。
甘やかしたらダメなタイプかも。
イルカは学習した。
「子供の記憶の定着には、なんとか言う酵素とそれを働かせるための触媒となるなんとか言うビタミンと、深夜の時間帯に暗闇で安眠することが必要なんだそうです。」
イルカは聞かされたことを掻い摘んで話し出した。
イルカには、九尾の夜から数日間の記憶が無かった。我に返った時、イルカは火影の家の縁側で足を垂らして座っていた。夕陽がオレンジ色に辺りを染めていた。そこが何処なのか、何故自分がそこに在るのか、イルカには解らなかったが、それでも両親を失った事だけは何故か言われなくても理解していた。
実は、あの忌まわしい夜の事は、感覚だけ覚えている。今でも、無理に思い出そうとすると冷や汗が出てきて体が震え、硬直した挙句に呼吸困難に陥り卒倒してしまうので、なるべく考えないようにしている。何かの拍子に思い出しそうになっても、直ぐに思考を他所に押し遣ってやり過ごす事を覚えていた。
記憶の無い数日間のことを、その時イルカの世話をしてくれていた火影の家の者達に問うても、普通に飲み、食い、眠って、起きて、ぼんやりはしていたが人の問いかけには応えていたと、言われるばかりだった。泣くでもなく、食が細るでもなかったと、その応えには少し蔑みが混じって聞こえた。なんて情の薄い子だと、声がした気がした。イルカは段々無口になったが、急に食が細ったと言われるのが嫌で、生活は変えなかった。そうやって半年ほど過ごした。
ある日、三代目火影が唐突にイルカを散歩に連れ出した。途中、川面の見える土手道に、女の人がひとり立っていた。3人は何も喋らず、黙って水を眺めながら歩いた。夕陽が目に痛かった。どこか懐かしい気持ちがし出して、イルカは落ち着かなくなっていた。
この道は、どこに通じているの?
イルカははっとして立ち竦むと、体を翻して元来た道を走り出した。だそうとした。あのよぼよぼの三代目のどこにそんな力と素早さがあったのか。イルカはあっと言う間に手首を掴まれ、引き摺られてまた道を辿った。あの夜から一度も行かなかった、我が家へ続く道。
嫌だ還せと泣き喚いていられたのは初めのうちだけで、段々体が震えて止まらなくなった。涙がぼろぼろ零れだし、嗚咽と共に胃の中の物が無くなるまで吐いたが、火影は手を離そうとはしなかったし、労わるでもなく大丈夫かの一言をかけるでもなかった。普段好々爺のように優しかった火影の、真の一面を見た気がしてイルカは怖かった。
やがてイルカが、文字通りボロ雑巾のように泥と吐瀉物に塗れ、ぐったりした頃、三人は荒れ果てた区域に出た。イルカを挟み3人で悄然と廃墟に立ち尽くす。九尾の瘴気に冒されて半年の間、復興はおろか近寄る事も禁止されていた場所だった。イルカがふらりと歩き出すと火影はやっと手を離し、イルカの一歩後に続いた。女の人はその場を動かず、遠くから二人を見ていた。視界を遮る物などひとつも無い、荒れ果てた廃墟だった。ふらり、ふらりと歩くイルカ。足の下で瓦礫が軋んだ。イルカの家は、地面に近い部分の壁だけが残っていた。
イルカ 06
おまえはあの夜から半年、少しも成長しなかったのだよ。
あの、河辺の道で出会った女の人が、火影邸のあの縁側でイルカに話した。
「おまえは、この半年の間、寝て、起きて、食べて、勉強もして、大人達とも普通に接して暮らしていた。だから気付かなかった。誰も。おまえ自身も。」
イルカには何のことだかさっぱり解らなかった。
火影邸に帰り、湯を使わせてもらって着替えたイルカを待っていたのは、彼女ひとりだった。ふたりで縁側に並んで座り、夜の庭を眺めた。火影は姿を見せなかった。
彼女は自分を医者だと言った。忍医なのだと。九尾の災厄後、イルカのような子供を何人も、何十人も診てきたと言っていた。皆、口が利けなくなったり、食べ物が喉を通らなくなったり、反応がなくなったり、いろいろだったと彼女は話した。しかし最近になって、そんな解り易い症例ばかりではないことが徐々に判明してきたと。特に被災地域を中心に、住民の大掛かりな健康調査を実施して解った事態は深刻だったと。彼女は淡々と語った。難しい専門用語を子供向けに直すでもなく語られる内容を、イルカは判らないなりに黙って聞いた。途中からふと、この人は本当は誰に向かって語っているのだろう、と思った。
「特に、子供の状態は目に余った。普通そうにしている子ほど根が深かった。精神的なストレスが原因で、いくら食べても栄養として摂取されない、なんてことがあるんだねぇ。私達は正直、途方に暮れたよ。どうしていいかさっぱりだったからねぇ。」
しかし、イルカに向き直りその顔を近づけると、彼女はさして困った風でもなく艶然と笑って見せた。よく見ると顔立ちも美しく豊満な体つきの美人だったことに初めて気付いて、イルカは頬を赤らめながら仰け反って顔を離した。そんなイルカの反応を、目を眇めて満足そうに眺めた彼女は、いきなりイルカをその豊かな胸の間に収めるとぎゅっと抱きしめた。イルカは真っ赤になりながらもじっとされるがままになっていた。
「おまえはもう大丈夫だ。私達が付いているよ。さっきはひどい扱いをして悪かったねぇ。ショック療法とでも言ったら許してもらえるだろうか判らないけど、普通にしてたらどんどん悪くなる一方だったって事例もあるんだよ。」
がその表情に滲み出ていたものは、悔恨の情だったのだろうか。
「これからまだ時々、あの道すがらのように吐いたり体調が悪くなったりするかもしれない。訳もなく泣きたくなったり怒りたくなったりするかもしれない。でも、その方がいいんだよ。それを覚えておきなさい。要は、生きてやるっていう覚悟なんだからね。」
おまえには三代目もいるんだし。と付け加えるように言ってから、何を思い出したのか、彼女は俯いてくくっと含み笑いを漏らした。
「三代目の心配のしようをおまえに見せてやりたかったよ。本当にねぇ。」
彼女はしばらく思い出し笑いに興じていたが、ふと真面目な顔をしてイルカに正面から向き直った。
「お元気そうに見えても三代目はもうお年だ。それに、あの災厄で一番堪えているくせに一番平気面してしているのもあの方だ。」
イルカの目をじっと見て哀しそうな顔をする。つられてイルカも眉尻を落とすと、またくくっと笑って付け加えた。
「おまえは2番目だっ」
そう言ってイルカの鼻頭をむぎゅっと押すとニッと笑って立ち上がり、縁から庭に下りてイルカに背を向けた。
「守ってやっておくれ。」
その肩は落ち、声は力無く低かった。闇に消えたその人とは、それきり会っていない。
イルカ 07
翌朝、火影がやってきて、跋が悪そうにイルカの機嫌をとったのを、イルカは今でも思い出すと顔が笑ってしまう。
「彼奴、それが保護者の務めだとかなんとかぬかしてわしにあれをやらせた挙句、自分ばっかりおいしいところを持っいきおったのじゃっ。」
痛かったじゃろうのぉ すまんことをした 許しておくれ、と手首を摩られたイルカは、初めて火影三代目の枯れ木のような体におずおずと抱きついた。人の温もりを思いだしたことが涙を呼んだが、火影は逆に嬉しそうに小さいイルカの体を優しく抱き返し、涙を拭っていつまでも頭を撫で続けた。
成長は再開されたが、並に届かないのは仕方がなかった。両親が共に長身だったために身長が伸びる遺伝子が働いて背はどんどん伸びたが、元手が無かったせいか並よりやはり華奢になってしまったのも仕方がない。次の成長期に取り戻せばよいのだ、と心の不安も和らげられ、今がその成長期だ。体力の無さは今は仕方がないが、この何年かで追いつかなければならない、と思う今日この頃。
「その後、アカデミーを出て忍になりましたけど、あまり火影さまのお役に立ててはいません。中忍になれたのも極最近ですし。」
チャクラは少ないし体力も無いし、と独りごちると、暗部の男は、そんな女の言った事は気にするな、と怒ったように唸った。
「その女は津名手だ。とんでもない馬鹿力だったろう?」
「いいえ。優しい方でしたよ。会ったのはそれ一度きりでしたけど。」
「猫被ってたんだよっ あいつと自来也の奴にどんだけいびられたか。」
けっとしかめっ面をして目上の者をくそみそに言う男に、イルカは目を丸くした。いつのまにかふたり向き合って顔を付き合わせるようにしている。恐怖心はすっかりどこかへ行ってしまい、同じ年頃の少年同士のような会話になったなぁ、とイルカは内心息をついた。身体の疲労も幾分回復してきた。
「そう言えば、あの後ナルトに会いに行って、その帰り道で会った子がいましたけど、あれが貴方かなぁ。」
「ナルト?」
眉を顰め、声を潜める暗部の男。
「ナルトに会ったのか?」
「はい」
「それで」
「それだけです。」
「それだけ?」
なんだか間抜けな会話になってきたなぁ、とイルカは思いながらまぁいいか、とも思う。
「ちょうどお座りができるようになったばっかりで、すごくかわいかったです。」
思い出し顔を綻ばせて言うと、ばっかじゃねぇの、とすぐさま詰られる。イルカはしゅんとしてしまったが、本当にかわいかったなぁと久々にナルトの事を懐かしく思い出した。金の髪が柔らかく色白で真っ青なぱっちりとした両目をイルカに向けて頻りに何かを言っていた。もう5歳かぁ。
「九尾の器だぞ」
「そうですね」
「おまえの親の仇だろ?」
「九尾は、そうですね」
「…」
「かわいそうですよね。あんなに小さくて、あんなにかわいいのに」
「おまえ、やっぱりばか」
イルカがむう、と剥れると、男はしばらく黙ってじっと見つめてきた。腕を折って枕にし、幾分猫背ぎみに丸まって、空いた手で落ち葉を弄ぶ。幼い仕種がやはり雰囲気に合わなかった。
「俺、やっぱりおまえに会えてよかった。」
ごろりと仰向けになりぽつりと呟く。イルカも釣られて上を見ると、空は随分暗くなりかかっていた。
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