再見


3



          イルカ 03

 「会いたかった」
 抱きしめられている。腕の力が強い。苦しい。
 「やっと見つけた」
 片腕で肩を掻き抱かれ、もう片方の手で背を、項を、髪を、頬を、次々と撫でまわされる。
 「捜した」
 耳元で囁く声は掠れ、数瞬前まで全く気配の無かった忍と同一人物とは思えない程余裕の無い様子を露にしてくる。忘我の淵に在ったイルカだったが、相手のその余裕のなさが逆に自分に我を取り戻させた。とにかく、何かコミュニケーションを摂らなければ。この人、人違いをしている。
 「あ、あのっ」
 ヒクッと息をつくと、自分がガチガチに硬直したままだったことが知れた。ふうと息と力を抜き、抱き込まれた腕を何とか上げて胸を押して顔を見上げる。至近距離にあるそれは白磁器のようだった。
 「どこも怪我は無い?」
 じっと目を覗きこむように尋ねられ、長い指に頬をなぞられ唇をなぞられる。背筋に感じる異質な感覚を振り払うように、こくこくと細かく頷きながら、はい、と返事をする。
 「だいっ…んむ…」
 吸い寄せられるように顔が近付いてきて唇が塞がれた。大丈夫です、という声は呑み込まれ、「だ」の形で開いていた口には直ぐに舌が侵入してきた。

 「あ……うん…まっ…や…」
 なんとか言葉を紡ごうと顔を外す度に追いかけるように唇を塞がれる。息さえうまくできない。腕の拘束も強まった。
 頭が朦朧としてくる。信じられないくらい自分の咥内で動き回る舌。腰を強く引き寄せる腕と、首の後ろをガッチリ固定する腕。もう相手の胸当てにしがみ付くくらいしかできなくなった。元々疲労困憊した身体。されるがままでいるうちに次第に硬直していた体の力も抜け、ガクッと膝が折れた。ぐっと支えられたが、鉛のようになった体が頽れるのを止められない。ぐらっと視界が傾いで目眩ににた感覚に思わず目をギュッと瞑る。体は反射的に衝撃に備えたが、予想に反してゆっくり柔らかく背が落ちた。目を開けると、ちらちらと風に揺れる木立と葉のシルエットに縁取られた空が見えた。


 ドサッと音がした。そちらに顔をめぐらせると、くらっと目眩が襲う。思った以上に身体がまいっている。そっと目を開けると、敷き詰められた木の葉の上、目線の先には白い胸当てが放られていた。暗部の男は黒い印象に変わっていて、肩には渦巻形の刺青が見えた。何か印を組んでいる。イルカの知らない並びだった。一連の印を淀み無く次々と組上げる、その動作の優雅さ。ゆっくり最後の印を結び短く発動の言を紡ぐ、その低く響く声の心地好さ。イルカは自分の境遇も忘れ、うっとりとそれに見惚れた。
 きんっと耳が痛んだので、ゆっくりと辺りに視線を巡らせてみる。見た目には何も変化がないが、これは…。この感じには覚えがあった。物理結界だ。イルカの付いた上忍師が一度やってみせてくれた記憶がある。気圧が微妙に変化するので敏感な者には感じられるが、まずそこに結界があることすら判らない。それに、多分外側に幻術を掛けて不自然に通れない場所があることも誤魔化されているはずだ。完璧に外からは判らないし入れない、中の音や気配も決して外には漏れない二重結界の中にいることになる。これで、仲間が要請してくれたかもしれない救援隊に見つけてもらうという望みも断たれた。絶望に目を閉じる。
 今度は自分の胸元でジジッとファスナを下ろす音がする。右、左、と腕を抜かれ、ベストを脱がされた時点で、イルカはやっと力の入らない腕を上げて男の胸を押した。これから自分がされることはひとつだ。今の体力では、逃げる事はおろか、碌な抵抗もできない。早くも諦め気分に浸りつつあったイルカだが、それでも人違いでは、と言わずにはいられなかった。この人も、想い人とは違う人を間違って抱いてしまうのは本意ではないのではないか。出会い頭のあの様子は、真剣そのものだった。それほどその人を好きなら、間違ったと知れば後悔するだろう。自分も哀しい。
 「待って…。待ってください。話を訊いてください。」



          イルカ 04

 「待てないし、止められない。」
 そう言いながらも、体を弄る手をぴたりと止めて、イルカの言葉を待ってくれる。口はへの字で、頬は不満そうに膨らんでいた。その表情が、雰囲気とは裏腹に余りに幼く、イルカは強い拒絶の言を上げられない気持ちにさせられた。
 「人違いじゃ、…ないですか?」
 恐る恐る言ってみる。案外、話せば解るタイプかも。イルカは諦めが早い変わりに楽観的でもあった。
 「違わない」
 また弄る手が再開される。イルカは焦って言い募った。
 「で、でも、わたしは貴方を知りませんっ」
 しまった、と思った時はもう息ができなかった。ざわりと殺気が結界内を満たす。体が金縛りのように動かなかった。脂汗が浮かび涙がじわりと滲んだ。
 凍てつく目をして暗部の男はイルカの首元に手を伸ばし、ばりっと忍服を引き裂いてイルカに覆い被さってきた。その白い首を鎖骨から耳裏までべろりと舐め、ひくっとイルカの喉がなるのを聞いてから、やっと殺気を緩めてくれた。
 げほげほとイルカが咽ているのもお構い無しに、男は胸や背中を弄ってくる。イルカはもう抵抗の意志を完全に無くして、体の力を抜いた。元よりそんな体力も無かったし、話が通じる相手では無いと諦めた。頭がくらくらして目を開けていられない。このまま気を失ってしまったほうが楽かもしれないとさえ思えて、ぐったり腕を投げ出しされるがままになっていると、イルカの胸元に顔を埋めて、腹や胸を舐めたり吸ったりしていた男は、何故か突然動きを止めて何かを呻いた。
 投遣りになっていたイルカは、どうしたのだろうと訝しむことさえ放棄して、重い体が闇に沈んでいくのに任せていたのだが、せり上がってきた男の顔が自分の顔を見下ろすのをその吐息で感じ、両頬をその手で大事そうに包まれるに至って、やっと重い瞼を薄く押し上げた。
 男の顔は苦しげに歪んでいた。
 「ごめん…。話を聞くから。」
 男の声は泣きそうで、イルカの首筋に顔を埋めると小さく肩を震わせている。イルカはふうと溜息をつくと、やっと片腕を持ち上げて顔に被さっている男の銀の髪を撫でた。





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