ヴォカリーズ
- Vocalise -
2
喪失
他里の上忍にイルカが抱かれている、夫婦同然の暮らしをしている、そう聞かされて脳が溶けそうになった。
「イルカからはもう何年か任期を延ばしたいと打診がきている。 全く気付いていないようだが、返ってそれが命拾いになっているんだな。 だが、このままではいずれ取り込まれる。 迎えに行って来い。」
火影が渋い顔をして資料を放り投げて寄越した。 本当ならオマエには行かせない所だが、この2年間の我慢へのご褒美だと付け加えられる。 カカシはモノも言わずに火影の前を辞した。 心は既にイルカの居る遠い異郷の地に飛んでいた。 たとえ誰にどんなにあの身体を犯されようとも、彼は自分のモノだと強く念じる。 そう、たとえ彼の心がもう自分に無いとしても。
***
2年前、これはオマエの日頃の行いへの報いだと、イルカを追って連れ戻そうとする自分を止められ諫められ、その上二週間ほど土牢に放り込まれた。 頭が冷えたかとやっと出して貰えた時には、忍犬さえ匂いを追えないようイルカの痕跡はきれいに消されていた。
「草の任務なのだぞ? 当たり前だろう」
たとえ同里の者でも情報は漏らせない、解っているだろう、と重ねてガミガミ説教までされた。 それでも諦め切れなかった。 こんな、一言も無しに置いて行かれて、納得せよと?
「一言ならあっただろう」
くそっ なんで知ってるんだ。 確かに、イルカからの書き置きが家にあった。 たったの一行「お別れさせていただきます」と、それしか無かったが。
「理由も解らずこんなのは理不尽です!」
「どの口が理不尽などと」
火影は然もおかしそうに笑った。 そして言われたのだ。 本当に失くしたくなければおとなしくしていろ、と。
・・・
イルカと自分との間に温度差が生まれてきていたのには気付いていた。 イルカが頻りに何か話し合いたがっていたのも知っていた。 態と酔っ払って帰った日に枕元で小さく詰るように訴えられた内容も、実はしっかり覚えていた。 覚えていたからこそ、翌朝忘れた振りをしたのだ。
「だって、どうすりゃいいのよ?」
こんなに、こんなに自分自身をもどかしく思った事なんてなかったんだもの。 こんなにも、こんなにも誰かを愛おしいと止められない想いに翻弄された事もなかったんだもの。 どうしたらいいのか、どうしたらイルカが喜ぶか、どうしたらイルカが悲しまないか、皆目見当もつかない自分が情けなくってもどかしくって。 でも、イルカを見ると抱きたくなるし、離れようとしているのを感じれば感じるほど焦燥感に苛まれてイルカの話を聞かず有耶無耶にした。 話し合ったら、別れてくれと言われるに決まっていると思った。
「俺だって、こんなにアンタに惚れちゃうなんて、予定外だったんだもの」
告白して口説いて、イルカが徐々に自分に惹かれてくるのが手に取るように判ってそれが楽しくっておもしろくって笑い出したくなるような日々を送っていた頃は、こんな事になるなんて思わなかった。 堕ちたイルカが妻のように甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれたり、日を追う毎に抱かれる身体になって自分の下で喘ぐイルカを見るにつけ、自分の方が段々落ち着かなくなってきたのだ。 このザワザワする気持ちは何だろう? 後から後から途切れなく湧き出してくるこの感情は何だろう? 居心地が悪い。 体裁が悪い。 その上、イルカの自分に対する真剣な想いと切なる覚悟に気付いた時の衝撃と戸惑い。 どうしたらいいか解らない。 どう接すればよいのか解らない。 とんでもない取り返しのつかない事を平気でするくせに、反面日常では些細な事を大切にしたがるイルカが煩わしくなった。 邪険にした。 乱暴なセックスも強いた。 訴えかける瞳を無視してあの身体を組み敷き、翌朝はイルカが寝ているうちに姿を消すことも多くなっていた。 でも、これじゃあいけないと自分でも解ってはいたのだ。 何とかしなきゃいけない。 そうしないと取り返しのつかない事になる、と。 そんな矢先のしっぺ返しだった。
・・・
その里で、イルカは然も幸せそうにのほほんと暮らしていた。 とっくに正体がバレているとも気付かず、暢気なことに内偵相手の上忍の見張りの下に居るのだとも知らず、しかもその上忍にこの上なく大事に愛されていた。 どこか福としたその顔付きが気に食わなかった。 自分と居た時はもっと尖がった顔付きをしていたような気がした。 どうやったらあんな顔させられるんだ? 無性に腹が立って、町の人混みでイルカを拉致り茶屋に連れ込んで組み敷いてしまった。 火影にあんなにも目だった真似はするなよ、と言い含められていたにも関わらずだ。 イルカに常に人が付いていた事も判っていたし、それがあの上忍に筒抜けになることも判っていたのに、そうせずにいられなかった。 そんな情けないほどイルカを想っている自分に対し、もうアナタとは別れたはずだ何しに来たのかみたいな言い方をされてカッとくる。 自分がどんな危険な状態に居るのかも知らないくせに! だが、この暢気さがこの人を守っているのだから、事実を知らせちゃいけないと必死に自分を抑えた。 それなのにイルカときたら、しくしく泣いてあの敵の上忍と愛し合っているなどと戯言を!
「優しくしてくれるんです、いい人なんです」
自分の下で、身体を繋いだ状態で、イルカは両手だけで必死に抗った。 一時たりとも忘れたことが無かったあの黒い瞳からぽろぽろと涙を零し、敵の上忍に操でも立てようと言うのかと、ヤツの本当の目的も知らないでと、気がつくとカカシは意地悪くイルカを詰っていた。
「アンタの欲しかったものってそんなモノだったの?」
「そんなものって…」
イルカは一瞬だけ唇を噛み切るほどくっと食い縛ったが、ついに堪え切れなかったのかそれまで内に秘めてきただろう言葉を吐き出し、カカシにぶつけてきた。
「俺は普通の人間なんだ、アンタとは違う! 俺はアンタに時々ただ抱き締めてもらえるだけでも幸せだった。 なのに、アンタは… アンタが欲しかったのは従順な家政婦兼慰安婦だったんだ! 俺じゃなくてもいいんだ! 他を捜せ!」
家政婦 兼 慰安婦?
「そんな風に思ってたんだ!」
「違わないだろう!」
「違うっ!」
イルカの頬を思い切り張りつけた。 気が狂ったように暴れる腕を縛り上げ、嫌だと叫ぶ口を塞ぎ、怒りでいきり立った自身でこれ以上無いくらい乱暴に突き荒らした。 無理矢理接吻けると唇を噛み切られたので、顎が砕けんばかりに掴んで口中を犯して呼吸を奪い、同時に下から身体を突き上げ掻き回すと、イルカは程なく朦朧となり始めた。
「あ… ああ… カ、カカシ、カカシィ」
我を無くして喘ぐイルカが、小さな声で自分の名を繰り返す。
「イルカ・・・、俺のイルカ」
なんてバカな人なんだ! これくらいで正気を飛ばし、俺の名を口走ってたんじゃあアイツにバレて当然だ。 よく今まで殺されなかったものだ。 そんな… そんな事を必死で思っていた。 バカな人、バカな人だ。 生きててよかった…。
・・・
自分がこの里に来てイルカを茶屋に連れ込んだ事はとっくに知れているだろう。 このまま帰したら殺されるのがオチだ。 だがイルカは一回帰ると言って利かなかった。
「黙って消えるなんて、できません」
「俺の時はそうしたくせに」
まだあの男を唯の商人か何かと信じて疑わないイルカをそう詰ると、また黒い瞳を瞬かせて涙を零す。
「言わせてくれなかったでしょう?」
ぽろぽろと零れる涙を指で掬い、ゆっくり顔を近付けた。 諦めたように目を瞑り、やっとおとなしくカカシの接吻けを受けるイルカの顔を見つめながら、頭の中では事情を説明しようかどうしようかとグルグル考えを巡らせる。 自分の考え無しの所為だが、禄に走れなくしてしまったイルカを連れてこの里を出る事は、既に敵に自分の入里を知られている現状では困難を極めるのは必至だ。 結局あの上忍の男のイルカに対する情に訴えるのが一番の得策なのではないか。 アイツはきっとイルカを殺さないだろう、とどこか確信めいた予感がする。
「そんなにアイツが好きなの?」
「…いい人なんです」
思わずくっと含み笑いを零すと、イルカは心なしか顔を赤らめた。 本当にバカな人だ。
「じゃあ一回帰ってきなさい。 それで別れてきてください。 俺も付いていきますから」
「あの… アナタは来なくていいですから」
「ダメです、付いて行きます」
「でも」
「ダメです」
一人で行かせたら、多分殺されるか…浚われる。 殺さないならアイツはイルカに何か術でもかけて自分のモノに…
「なら…外で待っていると約束してください。 話す時は二人できちんと話したいです。」
「…判りました」
ふぅと溜息を一つ吐いて同意を示すと、イルカはやっと少し微笑んだ。 彼はどうして忍などになったのだろう。 この天然の笑顔はなんだ? アイツもこの笑顔とこの瞳を愛したのか。 俺が一から仕込んで俺しか知らなかったこの身体を…
「くそっ」
「カカシさん」
不安気な瞳がゆらゆら揺れる。
「まぁ、俺が外でぎんぎんに殺気だってればヘタな真似はしないかな」
「へ、へんな事しないでくださいね!」
ほんとにもう、この人は…
帰すなら、やはりこの人には真実を知らせられないな、と溜息が出る。 きっと勘付かれてしまうだろうから。 怪我の功名と言うべきか、この赤黒く残ってしまった縛り痕がいい言い訳になるだろう。 まだ信用しきっていないと語る顔をするりと撫でて一頻り深く接吻けると、イルカはきゅっとしがみついて、かわいくウンっと喉を鳴らした。 心の底から守りたいと、そう思った。
・・・
イルカの気がはっきり揺れた。 動揺している。 微かだがあの上忍の殺気も漏れてきた。 カカシは突入しようとしたのだが、意外と堅固な結界に手間取り気が遠くなるほどの焦燥に身を焼いた。 歯軋りをして力任せにその結界を打ち砕くと、空気がびりびりと震えてあたり一面に剣呑な気が満ちる。 自分の殺気だった。
「イルカ!」
イルカ、イルカ、イルカ!
「よかった…」
その家の中で呆然と一人座り込むイルカを抱き竦め、カカシは唯々その名を繰り返した。
・・・
派手に家を半壊させただけでなく遠くまで届くような殺気を撒き散らしてしまったカカシは、早々にイルカを背負って国境を越えた。 やはりと言うかまさかと言うか、有り難い事に追っ手はかからなかった。 背中の温もりが、首に巻く付く腕が、イルカの無事を自分に確かめさせてくれる。 永遠に失ってしまうのかと震えたあの瞬間は、一生忘れないだろう。
「もう下ろしてください」
「まーだ」
いやだ、ずっとこの体温を感じていたい。
「カカシさん」
「だーめ」
取り合わないでいると、イルカのムッとした気配が後ろから伝わってくる。 気配を隠せないイルカに我慢できずくっくっと笑いを漏らすと、イルカはきゅうとしがみつく腕に力を篭めカカシの後れ毛を掻き揚げて項にちゅっと唇を押し当ててきた。
「わっ なななななにすんのっ!」
思わずイルカを振り落とし、まだ熱く感じる自分の項を押さえて叫ぶと、イルカは目を真ん丸く見開いてカカシを見上げた。
「そんなに驚かなくたって…」
「アンタ!」
草叢にそのままイルカを押さえつけて接吻ける。 腕の中でジタバタと抗う身体を抱き込むほどに、その身体が自分の身体にすっぽり嵌るような感覚に囚われ、カカシは嬉しくて適度にイルカを暴れさせたまま接吻け続けた。 イルカのウィークポイントである首筋を責めると、びくりびくりと跳ねる身体が愛おしい。 ああ、取り戻したとやっと思えた。
「ここで抱いちゃおうかな」
「だめ、やめてください、カカシさん」
さっきのお返しとばかりに首筋に唇を押し当てると、その度にアンアンと鳴くくせに、イルカはカカシの顔を押さえて無駄な抵抗を止めようとしない。
「どうして? さっきあーんな事して俺を煽ったくせに。 アイツに教わったの?」
「違います!」
「ねぇ、アイツは好かった? どんな風にアンタを抱いたの?」
「カカシさん…」
縄目の残る手首を掴んで顔の横に磔ると、イルカは哀しそうにかぶりを振った。
「俺、アナタと話がしたいんです」
愛する黒瞳に自分が映っている。 ついに来たかと嘆息し、カカシはイルカから身体を退かすとその手を掴んで引き起こし、また背負おうと背を向けた。 だがイルカは態々前に回ってきてカカシの顔を覗きこんできた。
「歩けますから」
「いいから」
「話す時は顔を見て話したいんです」
駄々っ子のように自分を曲げないイルカにまた嘆息させられる。 この人と真正面から向き合うとこうなると、判っていたから嫌だったんだと思い出した。
「判りました、判りましたから」
やれやれと立ち上がり、だがイルカに向かって手を差し出す。 逃げられたら堪らない。 逃げたいのはこっちだけど、イルカの存在を感じていたかった。 それほど逃げられたのがショックだったのだ。 だがイルカは、そんなカカシの葛藤を余所に迷いもせず素直にカカシの掌に自分の掌を重ねてきた。 さっきまであんなに抗っていた相手に! 無防備過ぎる。 心底呆れた。
「アンタ、こういう所が拙いって自分で思わないの?」
「は?」
「もういいです」
暖かい手を握ってしっかり掴んで、カカシはゆっくり歩き出した。
***
他の男に抱かれていたのだからと、イルカは一回自分達の関係を清算すると言い張った。 次から次へと乗り換えるように、ほいほいカカシの元に帰れないと、哀しいことを言ってくれた。 俺はそんな事全然気にしないのに、と言えば余計に頑なに、イルカはイルカの筋を通したがった。 面と向き合ってイルカと話して、どうして俺に勝ち目がある? 2年前もそうだったんだ、と白状し悪かったと謝ると、イルカは少し泣いた。 そんな風に俺が言い出すとは思ってもみなかったらしい。 ただ、家政婦兼慰安婦発言だけは撤回してもらった。 自分はそんな風に思ったことは一度たりとも無い。 非常に不本意且腹立たしいと訴えると、イルカは小鹿のような瞳を潤々させて謝った。
「言い過ぎました、ごめんなさい」
顔を幾分赤らめて、俯き気味にしどろもどろと謝罪の言葉を色々言い募られて、どうしてアンタはそうなんだとまた溜息が漏れる。
「アンタは忍に向いてないよ」
「お、俺…」
ショックを受けたように更に項垂れたイルカが、実はあの時あの上忍の男に自分の首を差し出していたことは、随分後になって聞いた。 内心で自分の不甲斐なさをずっと恥じていたらしいイルカに、アンタはちゃんと立派に囮の役を果たしてましたよ、と教えてやった時だった。 イルカは更に落ち込んで、あの時やっぱりあの人に殺して貰えばよかったなどと、胆の冷えることを言ってくれたので問い詰めた結果だった。
この人を失くす。 永遠に。
その恐怖は深層心理にまで鋭く刷り込まれ、ほとんどトラウマとなって時としてカカシを脅かす。 相変わらず暢気なイルカは、未だに無意識にカカシを恐怖のどん底に突き落としていることにも気付かない。 本当にどうしてくれようと、のほほんとした顔を横目で睨んで考える。 でも、自分にできることと言ったらまぁ、この人をグダグダのトロトロになるまで抱いてやるくらいしか無いんだものな。 それも今はできないけれど、この人が自分の腕の中に戻ってくるのは時間の問題だと思っている。 だってイルカの顔に「もう戻りたい」と書いてあるもの。 全くこの人は何でも直ぐに顔に出る。 まったく…
他里の上忍を虜にし、この俺様までもこの様だ。 まったく、本当に恐ろしいのはこういう人なのかもしれない。 もうこの人絶対里外の任務なんかには出さないぞと、暖かい身体を抱き締めて思うのだ。 別れたくせにハグだけはして欲しいなんて我侭、イルカ以外の誰が言ったって聞いてやらないものを! この俺様はしてやっているのだ。 だってこの温もりが、俺の安心。
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