ヴォカリーズ

- Vocalise -


1


別離




 部屋を奇麗に掃除し、乾いた洗濯物を奇麗に畳んで、数ヶ月カカシと生活を共にしたその部屋の戸に鍵を掛け、イルカは旅立った。 この次にこの部屋のドアを開ける時には、恐らくまた一人の生活が待っているだろう。 あの男が2年も待つはずがない。 妙に心は晴れていて、静寂だった。 振り返ることはしなかった。


               ***


 最近、自分がなんだか情けない。 カカシのために食事を作りカカシのために掃除洗濯をしカカシのために夜の相手をする毎日。 アカデミー勤務の内勤中忍と言ったって、子供相手の仕事は言うほど楽じゃない。 雑用も山ほどあるし、気も使うし、スケジュールも結構ぎりぎりだ。 自分だってかなり疲れてると思う。 外回りのAランク、Sランクばかり粉す忍とは比べるべくもないのかもしれないが。

「うっ うっ い、いたっ あっ」

 Hも最近御座なりで乱暴な気がする。 初めの頃はあんなに丁寧だったのに。

「あ、あ、も、もう無理です、あう」
「なーに言ってるの、珍しくイルカ先生からおねだりしてきたくせに」

 おねだりじゃない。 ただハグして欲しかっただけだ。 今日くらいは甘えてもいいかな、と思ったのだ。 1年に1日くらい、自分を甘やかしてもいい日ってあるだろ?誰にでも。 疲れてたんだ。 ただ優しく抱き締めて欲しかったんだ。

「あ、ああ… あ」

 カカシが乱暴に腰を押し付け揺すってくる。 明日はきっと遅刻だ。

               ・・・

 これでもカカシから告白されて口説かれたのだ。 口説かれて落とされて付き合い始めた。 ほとんど無理矢理抱かれて、男など露知らなかったこの身体を、抱かれて善がる身体に変えられてしまった。 当たり前のように夕食・朝食を共にし、寝床を共にし、こちらの予定などまるで無きが如くに振り回されて。 もうくたくただ。 相手が上忍だからと言って、何もかも我慢することは無いよな、恋人同士として付き合っているんだもの対等だよな、と思い話し合いを持とうとした。 だけれどもそういう日に限ってカカシは帰ってこなかった。 任務なのか遊んでいるのかさえ判らない。 深夜や明方に寝込みを襲うが如くに帰宅して、そのまま頂かれて話も何もできない、なんてことばかり。 ぐでんぐでんに酔って帰ってくることもあり、そういう時はもっと性質が悪かった。 剰え、翌日何にも覚えてないとシラっと言われる。 俺って何なんだろう。


「草の任務?」
「はい」

 火影執務室でそう申し出ると、カカシに相談したのかと問われた。

「自分の任務をカカシ上忍に相談しなければなりませんか?」
「そんなことはないが」

 カカシとの事は周知の事実なので火影さまがそう言うのも判らないではないが、カカシが自分の任務を俺に相談した事があったろうか。

「草となれば年単位だぞ? 解っているのか?」
「もちろんです」
「カカシと別れたいのか?」

 別れたいのか? なぁ、別れたいのか?

「とにかく、よく考えてから出直して来い」

 黙っているとそう言われ、執務室を退出させられた。 きっとそんな展開になるだろうな、とは思っていたが、まさにその通り。 俺ってカカシの付属物か何かなのだろうか。

「よく考えろったって、考えたからこうして来たんだし、相談って…」

 飲んで帰るか、任務帰りか、イルカが話し合いたいと思う日を判るのだろうか、カカシはまともに帰って来ない。 それどころかイルカの誕生日さえ忘れられた。 そう言えば、去年のカカシの誕生日の時も、イルカの様々な心尽くしを返って迷惑そうにしていたな、と思い出す。

---でも、やっぱり黙って出て行くってのはよくないな

 そう思い直したその晩。 カカシはまた正体を無くすほど酔って帰り、イルカを手酷く抱いて、否、犯して、翌朝にはもう居なかった。 イルカは少しだけ泣いて、もう話し合うことを諦めた。
 次の日の午後、夕暮れの執務室で、イルカは二年間の草の任務を拝命した。


               ***


 2年はあっと言う間に過ぎた。 男を覚えた身体が判るのか、そういう嗜好の相手何人かから口説かれて、中に任務に調度良い人間がいたので付き合った。 幸か不幸か、その男が物凄いマメな男で、愛し方も日頃の態度も、非常に優しく慈しみ深かった。 ただ、男慣れした身体に過去の経験を問われた時はさすがにちょっと焦ってしまい、前に居た国で付き合っていた男から逃げてここへ来たのだと言い訳をしてしまった。 その事だけは100%本心だったので、きっと真実味が篭っていたのだろう。 男は、もう何も心配要らないと愛おしげに頬を撫でてくれた。 ついカカシと比べてしまい落ち込む自分が情けなく、愚かしかった。 だが任務は恙無く粉すことができたし、その地で誰に怪しまれることも無く、すっかり馴染んで暮らしていた。 だから、2年目の6月が来た時、もう何年かこのまま続けたいと里へ打診した。 返事はすぐ来た。

「カ…」

 人混みでむんずといきなり腕を掴まれ、そのままぐいぐい引っ張って行かれた。 あまりに驚きすぎてもう少しで名前を呼ぶところだった。 カカシは何も言わずに自分を茶屋に連れ込み、好きなように犯すとこう言った。

「もう待てません、一緒に帰ってもらいます」

 誰も待ってくれなんて言ってないのに。 そう言おうとして自分の己惚れさ加減を嘲笑い、問いを考え直した。

「何を待てないんですか?」
「アナタに決まってるでしょ」
「どうして俺を待ったりするんです」
「恋人だからに決まってるでしょ」
「俺…アナタの恋人だったんですか…」
「なにそれ! それに「だった」って何? 2年前も今もアンタは俺の恋人ですよ」
「俺は2年前のあの日にお別れさせていただいたつもりでした。 手紙、読まれませんでしたか?」
「たった1行、お別れしますってアレのこと? バカ言わないでよ」
「…」

 涙が出た。 もう言葉は出なかった。 ただ俯いて泣いていると、カカシがちっと舌打ちをする音が聞こえてきた。 思わずカッとしてカカシを睨む。

「俺、今ちゃんと恋人が居るんです」
「任務上のでしょ」
「そうですけど、違います。 ちゃんと愛し合ってるんです。」
「はっ」

 カカシが鼻で嘲笑う。 もちろん、草の任務に必要で関係を構築しているのだ。 愛し合っているなんて茶番だ、判っている。 でも。 真実では裏切っているも同じだ。 でも…。

「優しくしてくれるんです、いい人なんです」

 伸びてくるカカシの手を頑なに振り払い、それでも結局最後はまた組み敷かれて、イルカはぽろぽろと涙を零しながら訴えた。 すると然も呆れたと言うように、カカシは溜息を吐いた。

「アンタの欲しかったものってそんなモノだったの?」
「そんなものって…」

 俺は普通の人間なんだ、アンタとは違うんだ、ただ抱き締めてくれる腕が欲しい、それだけなんだ! でもアンタが欲しいのは従順な家政婦兼慰安婦なんだろう! 俺にはできない! そうめちゃくちゃに喚き散らし暴れると、縛られてまた気を失うまで犯された。 後のことはよく覚えていない。 

               ・・・

「昔の男が追ってきた?」
「はい」
「それで茶屋に連れ込まれたって?」
「はい」

 ドス黒く痣になった手首の縄痕を撫で擦り、男はイルカを抱き締めた。 日が変わらぬうちに帰れなかったイルカを寝ずに待っていてくれた朝だった。

「それで俺と切れて来いと、外で待っているあの男に言われて来たのか?」
「…はい」

 カカシが殺気さえ漂わせて外で立っている。 きっとこの人を殺す気でいる。

「危ない人なんです、何をするか判りません。 言う通りにしないと」
「イルカ」
「ひっ」

 突然、本名を呼ばれて、イルカは男の腕の中で戦慄いた。

「外に居るのは写輪眼のカカシだな?」

 イルカはその時やっと、自分の任務が疾うの昔に失敗していた事を悟った。 優しかった男が一瞬で敵忍に変わり、イルカはその敵の腕の中でただガタガタと震えるしかなかった。

「恐がらなくていい。 オマエが言った事でアイツから逃れて来たという事だけは真実だったんだろう?」

 敵なのに、この人はなんでこんなに優しいんだろう? 小さくコクリと頷くと、男はイルカの顎を捕らえていつもの優しい接吻けを寄越した。

「イルカ、木の葉を抜けてこの里の忍となれ」
「そ…! それは、できません」
「どうしてだ? 木の葉がオマエに何をしてくれた? アイツから守ってくれたのか?」
「あ、あの人との事はプライベートな事で、里とは関係ありません」
「こんな酷いことをするヤツだぞ?」
「で、でも、木の葉は裏切れません!」
「ならばここで死んでもらうしかなくなる」

 男の指が喉にかかる。

「それなら少しは面目を保てますね」

 イルカがそう言って、ほうと身体の力を抜くと、男はそんなイルカを抱き締めて溜息を吐いた。

「そんな嬉しそうな顔をするな」

 困った顔をして微笑む男は、恐らくこの里の上忍なのだろう。 カカシと渡り合って生き延びられるだろうか。 自分を殺したら、多分カカシが乱入してくる。

「生きて、死なないで」

 イルカが嗚咽を漏らすと、男は益々困った顔をして抱き締める腕に力を篭め、本当に愛していた、と一言だけ残して消えた。


               ***


「ねぇねぇイルカ先生ぇ、もういい加減俺と縒りを戻してくださいよぉ」

 カカシとの関係はゼロに戻った。 里に連れ帰られる道すがら、イルカはやっとカカシとまともに話し合うことができたのだった。 カカシは2年前のあの頃、イルカから逃げ回っていた事を認め、今も逃げたいしアンタの言う結論を先延ばしにして有耶無耶にしたいけど、今アンタの手を離したらアンタはまたどっかへ行っちゃうから、と言い訳とも文句ともつかない御託をタラタラと述べまくった挙句に降参をした。

「じゃあ、ハグしてください」
「うん!」

 ぎゅっと抱き締められると、ああこの腕が欲しかったんだ、と今でも涙が零れそうになる。 もう二度と手に入らないと諦めた腕。 自分から離してしまった腕だった。 だが、イルカがおとなしくじっとカカシの腕の中に居ると判ると、もう直ぐ次の段階に進もうと蠢く手にがっかりする。 この人は一瞬も我慢できないのか、と。

「はい、ありがとうございました」
「え〜〜」

 素直に離しはすまいと思ったが、イルカがその暖かい身体を押すとカカシはあっさり離れた。 一応、無理強いはしない事に決めたらしい。 それをちょっぴり残念に感じている自分を笑う。

「俺、いつまで我慢すりゃいいのよ」

 無理強いはしないが、過去の自分を全然反省してもいないみたいなんだよな、と嘆息する。 でも聞いた話では、本当に2年間、カカシは自分に操を立てていたらしい。 これでもカカシはカカシなりに自分を愛してくれているのだろうか。 こうしてまた、こんなただの中忍の自分を口説いてくれているし、あの人を殺さないでくれた。 あの人どうしているかなぁと、今でも時々思い出す。 あのままあの人と暮らしていた方が、きっと幸せに違いないと確信さえできる。 もう元には戻れないが、たとえ過去でも人にきちんと愛された記憶は自分を強くしてくれるようだ、と知ることができたのだ。 あの人のお蔭だな、とまた自分を笑う。 あんなに優しく愛してもらったのに、自分はやはりカカシが好きだった。

「俺、どうしてこんな人、好きになっちゃったかなぁ」
「え?え? それ、俺のこと?」

 ねぇねぇ、とカカシが仔犬のように纏わり着く。 よくよく自分はバカだと思うイルカだった。

「バカだ」
「え〜〜〜っ」

 アンタのことじゃないよ、と心の中で舌を出す。 もう意固地は止めようかなと思い始めた秋だった。




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