死がふたりを別つまで  -妖狐の廟-

- Until Death Do Us Part. -


9


               青龍の訪問


 六日目の朝、廟の外で青龍の呼ぶ声に目覚めた妖狐は、腕の中の海野に接吻けて彼も起こした。
「青龍だ。 多分おまえを返せと言ってくる。」
「ワンクォー…」
 まだ眠そうに目を瞬かせて海野は妖狐の名を呼んだ。 海野は用も無しに名を呼びたがった。 軽く何度か接吻けて覚醒を促し、体の調子を聞く。
「大丈夫か?」
「はい」
「立てるか?」
「…うん、ちょっと無理みたいです。」
「寝ていろ」
 そう言いながらまた接吻ける。 何度味わっても飽きない唇だった。
『もういいだろう、その男を返せ。』
 青龍の声が再び妖狐を呼ぶ。 妖狐は仕方なく口を離した。
「帰りたいか?」
 海野の目を覗き込み尋ねると、海野はふるふるっと首を振った。 妖狐はすかさず深く口を併せて、その気持ちに応えた。
『その男を殺す気か?』
 そのまま一戦交えようかと手を淫らに蠢かせ出したところで、また青龍の声に邪魔をされる。 妖狐は溜息をひとつ吐いて立ち上がった。
「おまえはそこに居ろ」
 海野に言い置いて扉の方へ歩きながら欠伸と伸びをする。
「死にはしない。 精気を時々吹き込んでいる。」
『酷なことを…』
 ぶっきらぼうに答えると、そんな風に評された。 知らぬが何とやらだ、と笑が漏れた。
『もちろん、精を注いでいるんだろうな?』
「当たり前だろう。」
 ニヤリと嗤って海野を振り返ると、海野は顔を真っ赤に染めていた。
『ずいぶん気に入ったようだが、死ぬまで置いてはおけないぞ。』
「何故だ。 俺は当分飽きないし、飽きたら喰う。」
 態と牙を剥き出して喰らい付くポーズをしてみせると、海野は口を両手で押さえ、クスクスと笑いを堪えて肩を揺すっている。 かわいい仕草に堪らなくなり、飛んで戻って抱き締めて、本当にそこらじゅうに噛み付いてやろうかと踵を返そうとした時、また青龍の声がした。
『それはできない。』
「俺の勝手だ。 お前がコイツをそのために俺によこしたんだろう。」
『イルカが何も食べない。』
 は?
 妖狐は首を捻った。 唐突な言葉だった。 なぜ海野が何も食べないのを知っているのだろう。 どこかに覗き窓でもあるかと、本気で思ったほどだった。 ずっと海野のことを”イルカ”と呼んでいたので、すっかり海野のことだと思った妖狐は、海野を振り返って間違いに気付かされた。 海野は顔を強張らせて青褪めていた。
『あの子に死なれるのは困るだろう?』
 ビクッと海野が体を揺すり、半身を起こして顔を顰める。 さっきまだ立てないと言っていた。 無理はさせたくない。 妖狐は手で海野を制すると、再び扉に向き直った。 最後に見た海野の顔は、父親の顔をしていた。
「…困る。」
 妖狐は扉を開けた。 青龍が沈痛な面持ちで立っていた。 そして妖狐の肩越しに海野を垣間見ると、眉を顰めて妖狐を睨んだ。

 外に出て扉を閉める。 海野に話を聞かせたくなかった。 庭を歩き出すと青龍が付いてきて頻りにいろいろと言い募った。 妖狐の精の毒抜きに時間が余計にかかるとか、人間は精神面が体調に影響する生き物だとか、だからイルカを生かすには早めに海野を帰さねばならないと言うことらしかった。 妖狐が、人間はそれ程弱くはない、と海野から得た感想を述べると、青龍は眉を吊り上げて信じられない者を見る目付きで妖狐を見た。
「あの男に情が湧いたか。」
「名前を訊いた。」
「愚かな…」
 頭を抱えんばかりに驚愕している青龍を尻目に、妖狐は妖狐なりに考えていた。 海野の体の衰弱はここに居ては直らないのかもしれない。 一旦帰すのが海野の為にも一番いいのだろう。 何より海野がイルカの事を放っておけるはずもない。 先程の心配そうな親の顔をした海野を思い出す。 彼は帰ると言うだろう。 だが、帰したらもう二度と此処へは戻って来ないのではないか。 例え海野自身が戻ることを望んでも、回りがそれを許さないのではないか。
「人間などに情を移すな。 人間は直ぐに死ぬ。 我々とはサイクルが違う。 無駄なことはやめろ。」
 側で得々と妖狐を説得していた青龍の言葉にハッとさせられる。 そんなことは判っている。 充分判っているとも、と苦く思っていると、追い討ちを掛ける様に青龍はまた言い募った。
「どうせ、黒髪と黒い目が気にいっただけなんだろう?」
 思わずカッとして青龍を睨む。 初代火影、千影の事をここで触れるとはいい度胸ではないか。 俺が奴に対してどんな感情を抱いていたかを知りもしないで、勝手に解釈するなと妖狐は怒りを露にした。 海野にそんな事を聞かせたら、またあのバカな男は自分を卑下して頑なになるだろう。 せっかく打ち解けて、体もいい具合に馴染んできたのにと思い、妖狐は青龍に釘を刺した。
「そのことをヤツの前で言ったら殺す。」
 低く唸るように脅しをかけると、青龍は益々眉を吊り上げた。
 その時、廟の扉がぎぃと開いた。

「帰ります。」
 姿を現した海野に、ああ、と溜息が漏れる。 やはり帰ると言うのだな、おまえは。 だが、よろりと扉に縋る海野を見て妖狐は何も考えずに海野の元へ駆け寄った。 その体を抱きかかえ、支持して扉の前の階段に座らせる。
「寝ていろと言ったろう。」
「でも…」
 顔を近づけ、その頬に手を宛がうと、若干だが発熱しているのが判った。 やはり帰さねばならないのか。 理性ではそう思っても、感情は嫌だと激しく拒絶していた。
「おまえは帰さない。 ずっとここにいてもらう。」
「でも、イルカが…」
 思った通り「帰る」と言う口を口で塞ぎ、その体を両腕で抱きしめた。 海野は弱々しくも抗った。 その事に苛つきを覚え、乱暴に口中を荒らし犯したが、頬を流れる一筋の涙を目にして、止めざるを得なかった。 口を離す時、海野の舌が一瞬だけ追ってきて、クチっといやらしい音を立てた。 そんな煽るような事をするな、と名残惜しく口元の唾液を舐め涙も舐めていると、感情が激してきて海野を掻き抱いていた。
「離さない。 おまえは俺のものだ。」
「必ず戻りますから」
「信じられるかっ」
「戻りますっ」
「まだ言うかっ 応と言うまで体に訊くぞっ」
「ワンクォー!」
 海野の体を抱き上げて、階段を登ったところで海野が悲痛な声で名を呼んだ。 廟の扉は目の前だった。 今海野の目を見たら俺は負ける。 このまま真っ直ぐ前だけを見て、海野を抱いたまま扉を潜ってしまえば、そうして海野を褥に連れ込んでしまいさえすれば…。 そう思った。 だが妖狐は、それがその場凌ぎの考えである事が充分すぎるほど判っていた。 海野の瞳は、哀しい光を湛えて妖狐の金の瞳を真っ直ぐ見つめていた。

≪ワンクォー!≫
 その時、愚かにも青龍が獣の声で自分の名を呼んだ。 案の定、腕の中で海野が目を丸くして顔を見上げていた。 違いが解ったのだろう。 妖狐は人間の学習能力がバカにならない事を、嘗て千影達との付き合いの中で学んでいた。 この聡い男が、僅かな経験からでさえも自分の知識・技能を修正し微調整して、本物に近づけていくのは目に見えている。 この男の口から正しく自分の名前が紡ぎ出されたなら、それは何と甘美な響きだろうかとも思ったが、危険な橋を渡らせることになるのも解っていた。 おまえはそのままでいい、と言おうとすると、海野が小さく首を傾げながら妖狐の名を呟いた。
「ワン…クォー?」
 全然上達していない。 妖狐は腹の底から笑いが込み上げてきて、海野を抱いたまま暫らく肩を震わせた。 すっかり気持ちが落ち着いていた。 海野を不思議な男だと、改めて思った。

 右からは青龍が、左からは海野が、とにかく一旦帰せと妖狐を頻りに説得していたが、妖狐はほとんど聞いていなかった。 既に腹が決まっていたからだ。 ただ海野と共に居られる時間を少しでも引き伸ばしたくて、海野の顔だけを見、海野の声だけ聞いて、その体にしっかり腕を巻きつけていた。
「戻ります。 戻りますから。 必ずあなたの元へ。」
 必死に言い募る海野の顔がかわいいと思った。
「きっと戻ります。 だって俺は…」
 そう言うと、海野は妖狐の肩口に顔を埋めてきた。 いつものように妖狐の首に両腕を回し、耳元で小さく続きを囁かれる。 海野は、ワンクォー、ワンクォーとただ妖狐の名を何度も呼んだ。 そして、俺はあなたのものです、と小さく小さく呟いた。 妖狐は強く抱きしめ返すと、同じく海野の首筋に顔を埋めて同じく小声で、イルカ、と二人だけの秘密の呼び名を呼んでそれに答えた。

 
 海野の去ったその狭い妖狐だけの為の空間に一人佇み、妖狐はしばし呆然と動くことができなかった。 これほどとは思わなかったのだ。 これほど寂しいとは。
 去り際、海野を捕まえてまた精気の玉を飲ませた。 海野は今度は逆らわず、それを熱そうに飲み下した。 手を離すと、しっかり立ってはいたものの、その表情が堪らなく頼りなさ気で思わず手を伸ばしそうになった。 青龍に肩を押されるように両開きの扉の向こうに消えた海野の背中が目に焼きついていた。
「必ず戻るって、いつだ?」
 妖狐は陽光に似せた薄明るい光を見上げて、誰にともなく問うてしまった。
「戻ったら今度こそ、ずっとここに居られるのか?」
 ふらふらと庭を歩きながら、ぶつぶつと呟き続ける。
「俺は待つだけか?」
 ここで、一人で、何日? 何週間? 何ヶ月?
 ここに封じられて六十年間、こんな気持ちになったことなど一度たりともなかった妖狐は、途方に暮れて歩き回った。





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