死がふたりを別つまで

- Until Death Do Us Part. -


9


               扉の前


 海野が一週間ぶりに御山の結界を潜った時、空気が山ごとざわめき揺れるほど辺り一面に妖狐の歓喜が満ちた。 青龍は苦笑を漏らしつつ海野を迎えに出た。
「意外に早かったですね」
「そうですか?」
 相変わらず小首を傾げて答える様が一週間前と変わらなかったので、青龍も思わず安堵の吐息を吐いた。
「もっと早く来たかったんですが、これが精一杯だったんです。」
 海野は歩を止める事無く、最初に来た時通った道をどんどんと自分から進んだ。 その後姿を眺めながら、青龍はふと海野が前より痩せていることに気づいた。 妖狐に貪られ衰弱しきっていた一週間前よりも更に海野はやつれていた。
「痩せました?」
「はぁ、ちょっと」
 海野は何でも無いように答えたが、否定もしない。
「揉めましたか?」
「はい」
 淡々と答えながらも歩は緩まない。 それどころか、海野の歩は心なしか早まっているようにさえ感じた。 この男も妖狐に会いたがっている。 青龍はどこか嫉妬のような感情を抱いている自分が可笑しくなった。
「妖狐に会いたかったですか?」
「はいっ」
 即答して海野は初めて青龍を少し振り返り、にこりと微笑んだ。 足の方はどんどんと地下への通路を下らせるがままに。

「それで、どうなったんです?」
 地下通路を海野と共に下りながら問うたが、実は青龍は海野の処遇を聞いていた。 三代目から連絡が来ていたのだ。 そうしてくれるよう約束させていた。 海野は週末だけ妖狐の元へ通うことになったらしい。 イルカは大分落ち着きを取り戻し、ほぼ元の生活に戻ったとのことだった。 あの子もあの子なりに、父の身に降り掛かった不幸が自分の所為だと思い込んでいたらしかった。 今となっては不幸かどうかも怪しいが、と青龍は妖狐の元へまっしぐらに向かうこの青年の背を見て思った。
「三代目には全てお話したんですが、他言無用と釘を刺されました。」
「それは…、そうでしょうね」
「でも妻には、本当の事を言わない訳にはいかなくて、それでかなりしんどい事になってしまって。」
「何も真実を伝えるばかりが思いやりじゃないと、私は思いますよ。」
「ええ、そうなんでしょうけど…。 俺はダメなんです、そういうの」
「まぁ、そんな感じですね」
「それに妻は俺の身に何が起きたかはあらかた聞かされていたようで、それだけでもかなりショックだったようなんですが、そこに俺がもう夫婦ではいられない、と追い討ちをかけるような事を言ってしまって。」
「あなたは、できないんですか?」
「…何が、ですか?」
「地上では今まで通り奥さんとイルカ君と夫婦なり家族なりの生活を送って、週末だけ任務だという事にでもして、ここで妖狐の相手をするというのは」
「………できません」
「何故ですか? 嘘を吐けと言っている訳では無いのですよ。 ただ言う必要のない事は黙っていればいいのでは、と言っているのです。」
「いえ、そういうことじゃなくて…」
「では、どういう?」
「いえ、それも多分俺には無理なんですけど、それよりも何よりも、俺自身が彼女の夫としていられなくなってしまって」
「と言うと、その、役に立たなくなったと?」
「はい」
 海野は言い辛いだろうことを澱みなく答えて、剰え少し微笑んだ。 地下空洞への扉の真前まで来ていた。
「ただ、イルカの事がありますからイルカの両親でいるという事だけは、今まで通り変わりなく続けていくことになりました。」
「それはイルカくんが成人するまで、ということですね?」
「はい、そうなりますね」
 扉の前で立ち止まったまま話は続いた。 中で妖狐が苛々して待っている気配が濃厚に伝わってきたが、青龍は尚海野に話を振った。
「里の中枢のご老人方はどうなんですか? あなたの事を認めたのですか?」
「さぁ、俺にはその辺の事は判りません。 三代目が何とか上手く取り計らってくださっていると思いますが、俺が妖狐の愛人になった事は伏せられていると思います。 多分、今までの人身御供の代わり、ぐらいの説明で済まされているんじゃないでしょうか。」
 海野は自分の事をさらっと”妖狐の愛人”という表現をした。 青龍は、海野自身がそんな風に考えていること事態に非常に驚いたが、海野がたったこの一週間の間に体験したであろう様々な非難や脅しや屈辱を思うと、彼が自身の立場を”妖狐の愛人”と卑下もせずに言えるように彼の中でなるまでの彼の怒りや葛藤や諦めをこの上なく尊く感じた。 海野の事はまだ調べさせている最中だったが、青龍はもうこの男の事を妖狐のパートナーとして信用し認めようと思っていた。
「あなたがこれ以上辛い立場にならないよう、私も出来る限り力を貸しますよ。 困ったらまず相談してみてください。」
「…」
 海野は吃驚したように青龍を見つめた。 そして少しの間、口をぱくぱくさせていたが、やっと小さく「ありがとうございます」と答えた。
「俺、別にそんな辛いこととか、ありません。 俺はただ、妖狐を一人にしないように、俺にできる事は何でもしたいと、思って…」
 海野がそこまで言って少し言葉に詰まった時、扉の隙間からにゅっと手が伸びて海野の腕を掴んだ。





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