死がふたりを別つまで

- Until Death Do Us Part. -


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               廟の前庭


「帰ります。」
 海野がきちんと服を付けて出てきた。 と言っても、ぼろぼろに引き裂かれた跡も生々しく、袖なども不自然に伸びきっていた。 拘束に使われたのかもしれない。 顔色は青白い。 扉にさりげなくだが明らかに縋っている。 立っていられるのが不思議なくらいなのだろう。
 妖狐が跳んで扉まで戻ったので、激昂して海野に無体を働くのではないかと危惧した青龍は、だが後を追う足を止めてふたりを見守った。 妖狐はさっと海野を支えると抱きかかえるようにして扉の前の階段に座らせた。
「寝ていろと言ったろう。」
「でも…」
 声に労りがある。 顔を近づけ互いに囁きあい、まるで恋人同士のようだ。 青龍は眩暈がした。
「おまえは帰さない。 ずっとここにいてもらう。」
「でも、イルカが…」
 否を告げる口を口で塞ぎ、妖狐は弱々しく抗う体を両腕で抱きしめた。 目を固く閉じ、顎を捕らえられて上向かされた海野の頬が波打ち、その口中が荒々しく犯されているのが窺われた。 肩口に縋りついた指先に力が込められて白く震えている。 目尻から涙がつうと零れて頬を伝った。
 妖狐がようやっと口を外すと、つい今しがたまで強く吸われていた証のように海野の赤い舌がちらと覗き、それが酷く扇情的だった。 妖狐は、指で濡れた頬を拭い、唇で眦の涙を吸い、口端の唾液も舐め取った。
「離さない。 おまえは俺のものだ。」
「必ず戻りますから」
「信じられるかっ」
「戻りますっ」
「まだ言うかっ 応と言うまで体に訊くぞっ」
 そう言い放つと妖狐は徐に海野の体を抱き上げて、再び廟の扉を潜ろうとした。 その時、
「ワンクォー!」
 海野の叫び声が上がった。

 青龍は、瞠目して二人を凝視した。 妖狐はぴたりと動きを止めて腕の中の震える眼差しを睨んでいる。
---今、海野はなんと言ったか?
 あのバカは、己の名前まで教えたのか?! 本名を教えると言うことがどんなに致命的か知らぬはずがないのに。
≪ワンクォー!≫
 思わず青龍は吼えていた。 それはもちろん、人間に発音できる音ではなかったが、多分に自分の方が興奮していたに違いなかった。
「なんだ。」
 だが、妖狐は青龍の本名を呼び返したりはしなかった。 馬鹿ではないのだ、基本的に。 狡猾を宗とする妖狐なのだから。 そして存外に落ち着いたその声音に、自分の方が馬鹿だったと気付かされる。
---しまった、真名の正しい発音を海野に聞かせてしまったか・・・
 聞き分けられないだろうとは思うが、これは後で確かめねばならなくなった。 とんだ藪蛇だ。
「とにかく、戻れ。」
 青龍は深く息を吐き、話をつけるべくふたりに歩み寄った。

          ・・・

「戻ります。 戻りますから。 必ずあなたの元へ。」
 縋って必死に訴える海野。
「とにかくイルカを生かさなければ」
 それには海野を一旦帰さねばならない、と説く青龍。
「きっと戻ります。 だって俺は…」
 海野は妖狐の肩口に顔を埋め、青龍には聞き取れない声で更に何か言い募った。
 妖狐は抱きしめる腕に力を込めると、海野の首筋に鼻先を埋めて同じく小声で何か囁いた。
 青龍はその二人の様に、もう何度漏らしたか分からない溜息をまたひとつ漏らし、海野を定期的にここへ来させる事を火影に認めさせよう、と約した。
 そして海野は帰されたのだった。

          ・・・

 青龍はやっと、海野だけを連れて上の社に戻ることができた。 海野にとっては5日ぶりに見る外界だった。
 海野を離す直前、妖狐はもう一度深く彼に接吻けた。 程なく妖狐の喉元から小さな光源が上がってゆき、海野に口移しで与えられる様が見て取れた。 海野はそれを熱そうに飲み下すと、しゃんと立って歩けるようになったが、自分を支えていた妖狐の手が離される時、体の回復とは裏腹に頼りなさそうに眉を寄せて妖狐を見たのだった。 最初はただ受け入れ難く忌まわしくさえあったそんな二人だったが、その時はもう、眩しく感じられるほどだった。
 社殿に着き、湯殿と着替えを用意させるために禰宜を呼ぶと、薬湯の処方を細かく指示されながら、その禰宜は信じられない物を見る目付きで海野を盗み見た。 地下の霊廟に連れて行かれた人間で、生きて戻った者は今まで一人としていなかった。 だが海野はそんな視線の中で泰然として、全く意に介さぬ様子でいる。 ここに来た時とは雲泥の差だと、どこかびくびくとしていた5日前の彼が随分と昔の事のように遠く思い出された。
「火影にも連絡を入れておかねば。 あの御方もさぞやもどかしくしておられるでしょう。」
 言い終わらぬうちにこそりと這い出す小さな影に、必要な言葉を念じ込める。 人と違い呪を唱える必要も無く遣えるその小さな蜥蜴は、彼ら人の言うところの式だった。
「里までは…歩けますまいな」
 取り敢えず正座をしてはいるが、どこか座りの悪そうな海野を横目でちらりと見遣り問うと、「いえ、大丈夫です」と即答が返ってきた。 だが、足を引きずりながら此処まで上がってきたのでしょうに、と再度問うように尚もじっとみつめると、居心地悪げにもじもじとした海野は「輿も用意させましょう」という青龍の申し出に、終には否やを唱えなかった。

「彼の名前についてなのですが」
 万事を言いつけ終わり禰宜を追い払ってしまってから、青龍は海野に対峙し、まず問うた。 これだけは確認しておかなければならなかった。
「彼が自分であなたに教えたのですね。」
「はい」
 まっすぐこちらを見つめる海野に、偽りの影は見つけられない。
「言ってみていただけませんか」
「・・・ワンクォー?」
 海野は小首を傾げて青龍を仰ぎ見た。 回答の正誤を師に問うが如くのその態度に青龍が頬を緩めると、海野も頬に朱を上らせて笑った。
「うまく発音できなくて」
「ヤツがそう言ったのですか?」
 恥ずかしげに頬を掻く海野に更に問う。
「はい。 違う、と何度も直されました。」
 そのような大事なことを、睦言にしたのか。 青龍は内心臍を噛む思いだったが表には出さずに、海野に殊更優しく諭した。
「それを誰にも言ってはなりませんよ。」
「はい。 解っております。」
 海野は「何故か」と問うこともなく、さも当たり前そうに、にこりと笑んで首肯したのだった。

 海野について調べなければならない。 青龍は密かに考えた。





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