嵐の夜に


20


 玄関の鍵は壊されてはいなかった。 あれほど言ったのに、自分以外の人間にドアを開けたのだろうか。 土足の足跡が廊下にくっきりと続いている。 家中の灯りが煌々と灯されていた。

「ヨウスケ!」

 返事は無かった。 屋内はシンと静まり返り、外の風雨の音のみが耳に入ってくる物音だった。 足跡を辿って自分も土足のまま上がる。 湿気を含んだ泥の足跡は途中で途切れていたが、まっすぐ寝室に向かっている事が判った。 この家の間取りを知っている。 やはり間島なのか。 一応寝室を改めるが、ヨウスケがベッドを使った形跡がなかった。 寝ずに自分を待っていたに違いない彼の姿を思い浮かべ、後悔に奥歯を噛み締める。 やはり連れて行くべきだった。 川の中に一緒に入らなくても、安全で視界の内に入る場所などいくらでもあったろうに。 否、今回は何事も無かったが、一旦何か事故でも起きれば自分の注意はヨウスケから離れてしまう。 レインコートだらけの人の集団の中で、近寄ってくる者が誰かなど容易には判別できないだろう。 否、だがそれは相手だとて同じ条件だ。 それがヨウスケなのかは判るはずが…、否々、識別する方法などいくらでもある。 誰かに電話して呼び出してもらえば一発だ。 否…。 堂々巡りする後悔と言い訳。 だがそれも、店の厨房に足を踏み入れて全部吹き飛んだ。 前にヨウスケと使い方について揉めた冷蔵庫と壁の間の隙間。 そこには置いてはいないはずの掃除機と箒類がバラバラと倒れていた。 ヨウスケ、ここに一旦潜んだのか。 それから機を見計らって逃げた? そうだ、逃げたんだ。 外へ? この豪雨の中へ…。 刈谷は慌てて玄関にとって返した。 間島がどうやったのかは知らないが玄関を開けた。 他の出入り口になりそうな部分は、自分が厳重に締めてしまった。 ヨウスケに簡単に開けられるとは思えない。 とすれば、逃げ出せるのは玄関だけだ。 ヨウスケの靴。 無くなっている靴…。 全部有る。 裸足で逃げ出したのか…! こんな嵐の中、視界も悪い、足元に何が有るかなど気にしている余裕はないだろう。 足が切れる。 元々立てないほど覚束なかった足元。 すぐに追いつかれるに違いない。
 刈谷は外に飛び出した。

               ・・・

 刈谷が自分を置いて出ていってからずっと、灯りも点けずに玄関先に座り込んで待った。 よくペットの犬がそうして主人を待つことがあると聞いた事がある。 犬でも何でもよかった。 他に何もする気になれない。 出掛けにちょっと喧嘩めいた雰囲気になってしまったので、それも気になった。 3時間で交代が来ると言っていた。 やっと2時間経った。 あと1時間。
 1階の窓という窓、サッシの嵌っている縁側のある方の出入り口には、刈谷が厳重に雨戸を引いていってくれた。 だから、激しい雨音は聞こえても、いつものように窓ガラスを滝のように流れる雫は見えなかった。 時折、轟と風音が轟き、家がガタガタと鳴った。 膝を抱き、顔を埋め、少しウトウトとしだした時、玄関を誰かが叩いた。

 心臓が飛び出るほど吃驚した。 ドキドキしながらそっとドアに近付き、覗き穴から外を覗くが、湿気で結露していて見えなかった。

 ドンドンッ

 また乱暴にドアが叩かれる。 刈谷なら鍵をもっているはずだ。 決して中から戸を開けるなと言われた。 自分は鍵で開けられるから開ける必要はない、だから誰が来ても無視していろ、と。 刈谷ではないのだろうか? 鍵を失くしたりはしないよな。 そう思って様子を窺っていると声がした。

「開けて、ヨウスケ」
「ッ」

 思わず漏れそうになった悲鳴を、両手で口を押さえて止めた。 間島の声に似ているような気がした。 口を押さえたまま後退り、三和土をゆっくり音を立てないように上がる。 大丈夫、鍵がかかってるんだ。 俺が開けない限り入れない。 そう思って、少し離れた三和土の上からじっと様子を窺っていると、ガチっと鍵穴に何か差し込む音がした。

「刈谷さん?」

 思わず声をかけてドアに駆け寄る。 外から鍵を開けられるのは刈谷だけだ。 そう信じていたので、こちらから鍵を開けて一刻も早く刈谷の顔を見たいと思った。 今までの恐さに緊張した身体から、一気に力が抜けていく。 だが、その後一瞬音が止み、それからした声に震え上がった。

「そうです、俺です。 刈谷です。 ヨウスケ、ここを開けて」
「ひっ」

 ドアノブに半分かかっていた手がビクンと跳ねるほど震えた。 それは間違いなく間島の声だった。

「開けて、ヨウスケ」

 再びガチャガチャと鍵穴を何かで掻き回す音がしだす。 ピッキング? そうだ、鍵ならこんなに時間がかかるはずが無い。 ガチっと一つ何か金属的な回転音がした。 一つシリンダーが外れたのだ。 シリンダーはいったい全部で幾つあるのだろう。 3つか? 4つか? ヨウスケは走り出した。 今ならまだ逃げられる。 店の方の玄関から…。 店に走り込んで玄関に取り付いてからハッとなった。 そうだ、刈谷が外からシャッターを下ろしていた。 ダメだ、ここからは出られない。 他の窓もサッシも、全てに雨戸が引いてある。 どれか一枚だけでも雨戸を開けられないだろうか。 否、あの雨戸はかなり錆付いていて自分では中々開けられなかったのだ。 かなり音も出る。 気が付かれて回り込まれれば返って中に招き入れてしまう。 どうする? どこかに隠れる所は無いか? 間島に絶対見付からないどこかに…。 ヨウスケは必死で頭を巡らせた。 いや、袋の鼠になってしまう可能性の方が高いのではないか。 取り敢えずやり過ごし、隙をみて間島が開けた玄関から外へ…。 そこまで考えた時、ついにガチャリとドアの開く音がした。

               ・・・

「ヨウスケ!」

 玄関から出たら、まっすぐ車道が続いている。 そこを走ってなるべく人の居る方へ…。 いや、無理だ。 人の居るところまで車でも10分ほどかかるのだ。 見晴らしのいい車道を走っていては、追いつかれて掴まるほうが速いだろう。 刈谷は道路脇に続く藪を見た。 今日の午後、ヨウスケを連れ込んだ藪だ。 ただの勘でしかなかったが、そこへ足を踏み入れた。 だが直ぐに疑問が湧く。 裸足でこんな所に入るだろうか? 足元を見ると、赤いモノが点々と雨に滲みながらも続いているのが見えた。 それに被るように新しい靴底の足跡が続く。 刈谷はくっと歯を食い縛り、足跡を辿って駆け出した。

               ・・・

 掃除機と箒を数本掴むと、冷蔵庫と壁の間の空間に飛び込み蹲る。 掃除機を前に立て、箒を自分の身体に立てかけるように握った。 はっはっと胸が荒く上下する。 息が切れたのと恐さとで、呼吸が収まらなかった。

「ヨウスケ〜」

 廊下に間島の声が響きながら近付いてきた。 カタカタと握った箒が自分の震えと共に鳴る。 ヨウスケは深呼吸を数回すると、なんとか身体から力を抜いた。

「ヨウスケ〜 迎えにきたよ〜」

 間島の声と足音は、だが廊下をそのまま寝室の方へまっすぐ進んでいった。 今出た方がいいだろうか? 否、廊下をまっすぐ走られたら今の自分ではとても敵わない。 覚束なかった足腰は大分落ち着いてはいたが、それでも充分走れるとは思えなかった。 家の中の間取りを熟知している自分に利が出るまで待とう。 間島が何回か廊下を曲がったり扉を潜ったりすれば、いつか機が生まれるに違いない。 それを信じよう。 真っ暗だった室内が、徐々にぼんやり明るくなりだした。 間島が一部屋一部屋灯りを点けて見て回っているのだ。 灯りを付けられたら、ここに居る自分など一発で見付かってしまわないだろうか。 恐さに再び震えが止まらなくなった。

「ヨウスケ〜 どこだ〜い」

 間延びした間島の声が段々と近付いてきた。 そして終に厨房全体がパッと明るくなった。

「っ」

 息を止め、なるべく小さく丸まって蹲り、耳を澄ませた。 コツ、コツっと靴で床を踏む足音が室内に響く。 間島は土足のまま上がってきているらしかった。 自分が外に逃げ出すとき、靴を履いている暇など有り様はずも無く、やはり外で追いかけられたら圧倒的に不利だと判る。 だがそれ以外どうしようもなかった。

「ヨウスケ」

 すぐ間近で間島の、あの間島の声がした。 右に左に顔を巡らしているのか、声が揺れる。

 どうか見つからないで!

 恐くてどうにかなりそうだった。 間島は一回自分の前を通り過ぎ、店の中を玄関に向かっていくのが判った。 よかった! 気付かれなかった! そう思った時、2階からゴトっと何かが倒れるような音がし、間島が足早に取って返してきた。 ヨウスケは自分の口を片手で押さえ、もう片方の手で必死で箒を掲げた。 間島が前を通り過ぎ、階段を捜しているのだろう、厨房のすぐ隣の辺りをウロウロと歩き回っている気配がする。 もう少しだ、階段を上って行ったら飛び出る、もう少し…。 今音を立てれば、直ぐに戻ってくるだろう。 ヨウスケはぎりぎりまでそのままの体勢で耐えた。 ゴツッゴツッと階段を一段一段登るゆっくりとした足音。 それを7段まで数えて、ヨウスケは飛び出した。 掃除機ごと箒を全て前に跳ね飛ばし、玄関への最短コースを突き進む。 開いていてくれ、と祈る。 間島がまた鍵をかけていませんように。 できればドアが開け放たれたままでありますように。 だがドアはしっかり閉じられ、鍵もかかっていた。

「ヨウスケーっ」

 震える手。 家の奥から迫ってくる声と足音。

 開かないっ どうして?!

 泣きそうになるのを、くっと唇を食い縛って堪えるが、恐怖と焦燥に気が遠くなりそうだった。

               ・・・

 草叢のひとつに揉み合った跡があった。 だがそこに二人の姿は無く、また足跡と這ったような筋が続いていた。

「ヨウスケ! どこです!」

 刈谷はできるだけ大声を上げながらまた足跡を辿った。 ヨウスケが、あのヨウスケが出来うる限りの抵抗をしている。 あの、直ぐに諦めていたヨウスケが…。 じわっと涙が滲み視界をぼやかした。 それをグイと手の甲で拭うと、またヨウスケの名を呼びながら跡を追う。 早く見つけてあげなければ、きっと恐い思いをしている。 それでもこんなに頑張って、一人でこんなに抵抗して…。 ヨウスケ!

               ・・・

 足が焼けるように熱かった。 腰が鈍くて重い。 思うように走れない。 もどかしい。

「ヨウスケ!」

 振り返ると、開け放たれた玄関の光の中に黒い人影が見えた。 間島が意外と屋内で迷ってくれたお陰でここまで先行できたが、このままこの道を走っていたら追いつかれる。 脇を見、何も考えずに飛び込んだ。 顔を滝のように雨が流れていく。 足が熱かった。

 刈谷さん

 心の中で、その名前だけを呼んで、唯ひたすら走った。 昼間、ここで刈谷と愛し合った。 そうだ、あそこに木陰がある、あそこに身を潜ませれば…。 そう思った時、すぐ後ろに足音が迫ってきた。 濡れた草に素足が滑った。 何度も転びながら、もう立ち上がるのももどかしく這い進んだ。 その足首を、終にガシッと掴まれ、ズルズルっと身体ごと引き戻される。 必死で手元の草を掴むが、両足を掴まれるともう為す術が無かった。

「ヨウスケ! やっと捕まえた!」

 間島の顔に狂気が見えた。

「嫌だっ 離せっ」

 身体を捩り、力の限り暴れる。

「ヨウスケ、どうしたんだ? 私だよ、ほら、君をあんなに愛したじゃないか」

 掴んだ足に、間島はスリスリと頬を擦りつけた。 自分の足の裏に傷があるのだろう。 間島の頬に真紅の筋が引かれる。 おぞましい光景だった。

    ”嫌なら蹴倒す勢いで拒まなきゃ”

 昼間言われた刈谷の声が突然蘇ってきて、ヨウスケは無我夢中で間島の顔を蹴りつけた。 間島は、まさか自分がそんな事をするとは思っていなかったのか、右顎にまともに踵がヒットした。 仰け反って顔を覆う間島。 手が離れた隙に、ヨウスケはまた這い登った。

「ヨウスケーっ!」

 怒りに震えた間島の叫び声が直ぐに追ってきたが、ヨウスケはもう不思議と恐いとは思わなかった。 抵抗してやる。 抵抗して抵抗して、最後に結局犯されても、ただで俺の身体に触れられるとは思うなよ! もう、何も持たなかった去年のあの嵐の夜とは違う。 俺には刈谷が居るんだ。 絶対に諦めない。 両手で草を掻き毟り、両足で地面を蹴り、少しでも前へ進もうと必死で力を振り絞った。

「ヨウスケェッ」

 だがまた足首を掴まれ、引き戻される。 今度は間島は直ぐに自分の身体に圧し掛かってきた。 もうビクとも動けなかった。

「ヨウスケ、抵抗するな。 痛い目に遭いたくないだろう?」

 震えているのにどこか凄みの入った間島の声がし、めちゃくちゃに引っ掻き回している両腕を掴まれる。 そのまま両脇に押さえつけられ、間島の顔が自分の顔の直ぐ側まで寄ってきた。

「ヨウスケ、ああ、私のヨウスケだ」
「離せッ」

 押さえつけられたままだったが、それでも身体を捩って抵抗を示すと、間島は片方の手を離して振り上げた。

 ぶたれるッ

 片手で顔を庇おうとしたが遅く、間島の容赦のない平手が頬を打った。

「ほら、痛いのやだろう? おとなしくしなさい」
「嫌だッ」

 ぎりっと歯を食い縛り間島を睨むと、間島が上げた手をまた振り下ろしてきた。 そのまま往復で何回も頬を打ち据えられる。 あの夜と同じだ。 あの時は屈したが、今度は負けないッ ヨウスケは歯を食い縛ったまま衝撃に耐えた。 唇が切れ、血が流れたが、ヨウスケは目を閉じず間島を睨み続けた。

「なんだ、その目は!」

 間島が切れたように叫び、今度は握った拳が左頬にめり込んできた。

「あぐッ」

 一瞬気が遠くなった。 さすがに身体に力が入らずグッタリと手足を投げ出すと、間島の手が自分の股間を探ってきた。

「ちッ」

 幾ら弄られても反応の無い自分に焦れて、何とか服を脱がそうとしているらしく、肩や腰の辺りを頻りに引っ張られる。 だが雨に濡れたジーンズ生地のオーバーオールが硬く引き裂こうとする手を拒んだのか、オーバーオールなど着たことがなく脱がせ方が判らなかったのか、間島は一向に肌を露出させられない事に焦れ、四つん這いになって肩口のバックルに屈みこんで指をかけている。

    ”嫌なら蹴倒す勢いで…”

 刈谷に言われた言葉だけを念じ、ヨウスケは浮いた間島の股間目掛けて、渾身の膝蹴りを繰り出した。

               ・・・





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