春雪
15
九.開封
イルカ
暫らく俺から離れるな
あの男が自分の国に帰ったと確認できるまで
閨以外では”先生”と敬称し、おかしなほど敬語を使うカカシが、上がったままのテンションで自分を呼び捨てる。 里の中枢に不審を抱き、忍犬を以ってして得た情報以外を信じず、山城の同行を窺うことを続けながらカカシは、新たな技を獲得すべく研究と試行を繰り返していた。 自分は山城に敵わないかもしれないと自覚し、ピリピリと張り詰め続けるカカシ。 疲弊する体力と精神。 イルカは、そんなカカシを少しでも、少しでも支えたいと心から望み、封じられた幼い記憶と力の一部を、自分でもそれと気付かぬままにカカシに対してだけ、解放していた。
その時はまだ誰も、イルカ自身でさえも気付かなかったが、それは中和の能力だった。 イルカは自覚せぬまま、自分の体力と精神の安定を、疲弊したカカシのそれと併せて均一化させた。 接吻け、抱かれ、或いは身体を繋げて、それを実現した。 アカデミーの一室で、植え込みの影で、イルカはカカシに体を投げ出した。 カカシに余裕が無い時などは、回りに人が居ようとも抱擁と接吻けを自ら行なった。 「イルカ」とカカシが自分を呼び捨て、よろよろと自分を求めてやってくると、何もかも放り出してカカシを支えるために走り寄った。
だから、山城が開封をするまでもなく、彼の目的は達せられていたのだ。 だが、山城にそんな事が判ろうはずもなく、ある日カカシの隙を突いてイルカは連れ攫われた。
***
そこは、宇宙かと見紛うほど暗く、星々の輝きに満ち、天上と地上の区別がつかなかった。 イルカは知覚の殆どを失っていた。 上下左右の感覚、痛覚、触覚が無く、筋肉も弛緩したまま力が入らなかった。 辛うじて目は星らしき光を映していたが、それとて実か虚か解らなかった。 音が感じられるのかどうかは、その世界に音があるかどうかが判らないのでそれも解らない。 自分の息遣いだけが聞こえていたが、はたしてそれは空気の振動を鼓膜が捉えているのか、自身の体を伝わってくるのか。 唯々苦しく、喘ぐように忙しく呼吸を繰り返す。 なぜこんなに苦しいのか、それも解らなかった。
「イルカさん」
撓んだような声が世界に響いた。 天上がぐるぐると回りだし、ひとつの紋様が浮かんでくる。 あれは何だろう。 誰の声だろう。
「イルカさん、大丈夫ですか?」
声が反響しながら耳を襲った。 頭が割れそうだ。
「アナタが薬に強いという報告を受けていたんですが、やはり中忍には強すぎましたね。 苦しいですか?」
天上の紋様が青い龍になった。
「り…う…」
搾り出すような声が自分の喉から漏れた。 だが言葉は紡げなかった。 唇も痺れていた。
「龍? ああ… 私の部屋の天井ですね。 覚えていてくれましたか。」
声に嬉しそうな響きが混じり、下からの振動が激しくなった。
「あ… あ、あ…」
「すみませんね、あの時初めからこうして男のアナタを抱けていれば、何の問題もなく帰れたんですが」
龍の目がギョロリとこちらを見ている。
見ないで、見ないで…
「あのまま帰っていたら、私の覚えも多少めでたいままアナタの記憶に残れたでしょうに。 残念ですよ。」
トグロがするすると解れてきて、青い龍は鎌首をこちらに伸ばしてきた。 イルカの直ぐ前までその目玉が迫ってくる。 自分の顔ほどもある目玉。 その瞳にはだが、自分は映ってはいなかった。 その事に安堵する。 今、自分の姿を見たくなかった。
「封じをした時と同じ状況でなければ解けないなんて、私も面倒な戒めをしてしまったものですよ。 でも、あの時は…、アナタにあんな記憶、二度と戻すことなど無いと、本当に思っていたんです。」
足、俺の脚が見える。 右と左に。 誰かの手…、手が腿を掴んでいる。 でも感じない。 掴まれている感覚が感じられない。 上下に揺れる自分の腿をぼんやり見つめ、イルカは喘ぎ続けた。 息が苦しい。
「どうしてもあの時の記憶を戻せとね、国が煩いんですよ。 あんな記憶をアナタに取り戻させたところで、必要な結果が得られる可能性があるかどうか判らないのにね。 No.2だなんて言われていても所詮忍に過ぎません。 唯の道具なんですよ、許してください。」
手が、肩から覆い被さるように前に伸ばされてきた。
「あ、いっ ううん」
「感じることは感じられると思うんですが、どうですか? 気持ちいい?」
気持ちイイって何?
熱い…
「ああ… は…」
「イルカさん…」
首筋でする声に震えが走った。 荒い息遣いが天空に反響する。 ゴウゴウとそれは嵐のように鳴り響き、イルカを取り巻いて止もうとしない。 また頭が割れそうに痛み、吐き気に襲われ体が痙攣した。 冷や汗が滲み出る時の感覚が全身を覆っていく。 ピリピリと肌が痺れ、血流が下がり、頭が白み始めた。
「だめ、落ちないで、達って」
「あっ ああっ」
前に回された腕の動きが激しくなり、視界がぶれるほど体が上下に揺れ出した。 血の気の引いた頭とは逆に、腹から下が燃えるように熱い。 喘ぐ自分の息が、後ろの荒い吐息と混じりあい、渦を成して眼前の龍を吹き飛ばした。 龍の目が一瞬だけ赤く光り、きゅうと眇められた。
「イルカ」
龍が自分を呼び捨てた。
イルカは、男と共に達した。
***
はぁはぁと荒く上下するイルカの胸の前で、山城は両手で定印した。 低い詠唱が肩口で紡がれる。
「い…やだ…」
頬を伝う熱い雫を感じることができた。 知覚が戻ってきていた。
「泣かないで、お願いです。 俺はアナタの泣き顔しか知らない。」
山城の声は、あの楼閣の離れで聞いた時と同じ響きに戻っていた。 だがまだ辺りは暗く、瞬く星影に囲まれていた。 天上の龍はいつの間にか居なくなっていた。
「カカシ…さん」
よろよろと片手を前に伸ばすが、自分の腕の重さに呆気なくパタリと落ちる。 イルカは山城の肩に頭を預けて唯荒く息を吐いた。
「アナタが最後に呼ぶのは、結局その名前なんですね」
溜息と共にそう呟かれ、山城の両手は最後の印をゆっくりと結んだ。
「ごめんなさい、イルカさん。 こんな記憶を…」
「解」と山城が唱える。 一瞬、何が起こるのだろうとイルカは身構えたが、これといって何も起こらず拍子抜けしていると、頭の中を何かが擦りながら多くの映像を焼き付けていくような衝撃が走りぬけた。
「ああっ」
「イルカさん」
山城が後ろから痙攣する体を抱き締め、押さえつける。 ビクビクっと跳ねる体が山城の腕の中で踊った。 そしてカクカクっと糸が切れたように弛緩して、イルカは瞠目したまま動かなくなった。
「ごめんなさい…」
山城が泣いていた。
それは、男に抱かれる記憶だった。 土牢で、拷問部屋で、龍の天井の部屋で、イルカは何人もの男達に犯されていた。 唯人形のように、何の感情も無いまま男に犯され続け、来る日も来る日も嬲られ続けた。 それだけの記憶だった。 龍の部屋には山城が居た。 若い顔をしていた。 今と同じように、山城に背中から抱え込まれて大きく広げた両足を抱えれられ、イルカが達くと山城がイルカの目を塞いで、忘れてしまえ、と囁いた。 それが最後だった。
「これ…だけ?」
「え?」
これだけなのか? こんな記憶、取り戻そうが戻らなかろうが、自分の有り様に何も影響を及ぼさないではないか。 だって俺は、これよりもずっと酷い扱いを、自分の里から受けてきたのに…。
「これだけ…って?」
だが、後ろの山城は訝しそうに重ねて問うてきた。 その時、ドーンという轟音と共に星々の天井の一角が割れた。
「…!」
息を呑む山城。 イルカは弾き飛ばされるように前へ落とされ、自分の中から勢いよく抜けていくモノの感触に一瞬身体を震わせた。 だが、必死で手を付き、粉々になった天井を見上げる。 暗い星の海が割れた向こうに、緑の樹影が見え隠れしていた。 その手前で渦巻く黒い渦。 星と星が衝突したかのような爆発の後、その爆煙がぎゅっと拳を握るように渦になっているのだった。 それが次第に球形に固まり、徐々に小さく萎み、そしてパチンと消えた。 途端に周囲の空気がその渦のあった場所に向かって激流となって流れ込み出した。 暗い星々の部屋は、バラバラと砕けていった。 後に残ったのは、あの楼閣の亭の天井半分が吹き飛んだ無惨な姿だった。
「イルカッ」
カカシの声がした。 山城の姿は既にどこにも無かった。 イルカは全裸で横たわり、天井を見つめていた。 カカシに掻き抱かれて揺さぶられても、イルカは大きく目を見開いたまま、いつまでもいつまでも、その暗黒の渦があった場所を見つめ続けていた。 規模は遥かに小さかったもののそれは、あの巴の国の辺境でイルカが見た、仲間諸共全てを飲み込んで時空の果てに消え失せた、あの爆縮球そのものだった。
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