春雪


11


          六.カカシ


「カカシ、よく聞けカカシ」
 イルカを縁に置いた山城との間合いを計りながらじりじりとイルカに近づこうとしていた時、調度お互いがイルカとの距離を等しくした頃合を見計らったように山城が囁いた。 カカシにだけ聞こえるような、数歩先のイルカにも届かぬ微かな声だった。
「俺がここに来た個人的目的と、国の思惑は違う。」
 カカシは歩を緩めると、口を挟まずに目だけで山城を促した。
「彼の記憶喪失は本物のようだ」
 イルカの記憶喪失の真贋を見極めに来たと言いたいのか? そのためにこんな回りくどい遣り方をして、イルカを抱いて確かめたと?
「時間が無い」
 山城はそこで一旦言葉を切ると、カカシを見る目に僅かだが憐憫の色を混ぜた。
「気をつけろ。 木の葉も内部的に色々あるようだからな。」


               ***


 イルカを抱いて屋根に飛び上がるとくノ一が一人待機していて無言で先導を始めた。 着いた先は、件の亭とは楼閣の正対する位置にある一般客用の個室のひとつだった。 広さも贅沢さも比べるべきものが何も無い質素な部屋だったが、小奇麗でちゃんと内湯が備わっていた。 そこに二人きりになると、イルカをベッドに降ろし、中から厳重に結界を張る。 薄絹を被せられただけのイルカの体をざっと検分すると、鬱血の跡が体中にあるもののやはり怪我はどこにもなかった。 だが、太腿にこびりついた血痕や男の精の臭いが濃厚に香っている。 カカシは自分も衣服を脱ぎ捨てると、イルカを抱いて浴室に運んだ。 既に湯が適温に張られていた。 細やかな葎の配慮に頭が下がる。
 浴室は、薬湯の香と煙る湯気で満ちていた。 成人二人が入ってもゆとりがある造りの湯船がそういう目的のためにあることを語る。 イルカを胸に前向きに抱き、二人して肩まで湯に浸かりながら、イルカの体にハーブの香る湯を掛けては撫で擦って清めた。 太腿を真っ先に洗ったことは言うまでもない。 イルカはなかなか目覚めなかった。
 いつもより細い体。 いつもより短い手足。 小さな頭。 軽い感触。 自分の肩に乗せられ軽く仰け反って凭れるイルカの頭を湯に浸けないように気を配り、半開きの口から漏れる微かな吐息に耳をすませる。 胸に乗っている胴はくびれており、その上のふっくらとした膨らみが湯から僅かに突き出していた。 ずっとこのまま眠っていればよい。 そんな想いに囚われる。 ずっとこのまま女体のままで、忍を引かせ、俺の子を産ませ、どこにも行かせず、誰にも会わせず、記憶など戻らなくていい、ずっとこの手の中で…。

 知らず涙が頬を伝った。
 男のイルカを愛している。
 男で忍のイルカ。
 そして自分達にそんな選択肢が無いことも知っている。

 山城は、恐らく本当にイルカをただ抱きたかったのだろう。 イルカに関する何らかの情報が彼を焦らせ敢えて今この時に、木の葉にやって来る事を急がせた。 彼の国も何かに焦っている。 そして彼の個人的な要求を飲む代わりにイルカの身柄か、できなければイルカの状態を探りに来させた、と言ったところか。 それともイルカの記憶を取り戻させて、何らかの情報を得たかったのか。 山城にそれができるのか? イルカの記憶の一部を奴が封じているのかもしれない、という事か。
 何が迫っているのだろうか? 今回のこの茶番劇に仕立て上げられた任務の裏で、国境の諍い事の処理とイルカの体だけではなく違う何かが、情報か物品が彼の国と木の葉との間で交換され、何か密約が結ばれたのではないか。 自分はもちろん葎や山城自身も、ただ国や里に利用されているだけなのか。 否、少なくとも山城は裏を知っている。 同等の場所に立ちたかったら自分もそれを知る必要がある。

---それとも、今回の事を契機に俺が自分で動く事を狙っているのか?

 判らない。

 だが、こういう時は静観するに限る。
 山城や里の思惑に乗ってほいほいと動いて堪るものか。
 カカシは湯気で煙る浴室の天井を仰いだ。
 思わず力が入ってしまったのか、腕の中のイルカが小さく呻いて身じろいだ。




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