春雪


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          二.山城


 突然体が浮き上がり、イルカはびくりと竦んで体を強張らせた。 イルカを抱き上げた男は、その大袈裟な反応に些か面食らったような顔をして見せたが、すぐに優しく微笑みかけた。
「この部屋には居たくないでしょう? 美雪さん」
「お…下ろしてください」
 イルカは今、他の男に触られたくなかった。 暴行を受けた女性が男に対して異常に過敏になるのが解る気がした。 カカシが乱暴をしたとは思わなかったが---実際はしていたのだけれども---、カカシ以外の男に触れられるのが切実に嫌だった。
「自分で歩けますから」
 硬い声が震える。 肌蹴たままの襟元を引き寄せ、お願いです、と更に請う。 体の強張りは解けなかった。
「すぐそこですから」
 だが、その男”山城”は、素知らぬ顔で歩き続けた。 実際は、回廊を幾つも巡り、渡り廊下を渡った先の裏庭の飛び石を歩いてやっと辿り着く、かなり離れた亭まで抱かれていなければならなかった。 葎以下、禿と仲居が二人ほど付いて歩いた。 イルカが黙り込むと誰も一言も喋らなかった。
 亭は一戸の独立した家の体裁を持っており、玄関を開けて三和土を上がり、縁を歩いてやっと座敷の障子の前に着いた。 葎がさっと障子を引き開けると、山城は慣れた様子で低い鴨居を潜った。 中には既に宴席が用意されており、つい先程まで酒宴が開かれていた様子が窺えた。
「下ろしてっ」
 イルカはずっと我慢していたので、少々声がきつくなってしまったが、どうしてもどうしても嫌だった。
 山城は苦笑を漏らすと、イルカをその場にそっと下ろし、部屋の隅に駆け込んで座り込むイルカを腕を組んで見送った。 それからくるりと振り返り、付いて来た葎達に帰るように言い付けた。
「もういいですから、ちょっと二人にしてもらえませんか。」
「えっ でも…」
 葎がイルカを窺う気配が伝わってくる。 できればこの男と二人きりにはして欲しくない。 せめてもう暫らくの間だけでも。 だが、葎の前に立ちはだかる男の有無を言わせぬ態度に、聞こえてきたのは溜息がひとつ。
「では、何かありましたらお呼びください。」
「呼ぶまで誰も近づかないでください。」
 かちあう言葉と言葉に、葎と山城が一瞬だけ睨み合う。
 だが、引き下がったのは当然ながら、葎の方だった。

 イルカは肌蹴た裾と襟元を、先程からずっとなんとか直そうとひっぱったり押し込んだりしていたのだが、いずれも失敗に終わって焦っていた。 障子は開け放たれたままで、裏庭の鄙びた様が見えていた。 雪はまだ降っている。 そちらに背を向け必死で襟元をひっぱっていたイルカの肩を、男がいきなり掴んで向きを変えさせたので、イルカは声を上げて跳び退った。
「い…今、触られたく、ないんです…」
 正直に言う。
 だが、山城はふぅと溜息を吐いて更にイルカに手を伸ばしてきた。
「いやですっ」
「直すだけですから」
 イルカの泣き声にも動じずイルカの襟を両手で掴むと、きゅっとひっぱって前を併せ帯に差し込んでパンと叩く。 そして、これ以上何もしない意思表示のつもりか、ぱっと両手を離して肩の高さで広げて見せた。
 怖かった。
 先程カカシに襟を広げられた時のことが思い出されて、知らず涙がぱらぱらっと零れた。 あの時は別に怖くなかった。 困ったなぁと困惑しただけだった。 でも今は、男がこちらに手を伸ばしただけで体が竦む。 女体になっただけで、こんなにも心細い。 しかも今は、自分の意思で変化を解くことができない状態だ。

---こんなことでどうする。
  これからこの男に身を任せるんだぞ。

 涙がまたほろりと零れた。
「意外と泣き虫ですね。」
 男は微笑むと、さっさと上座に座りイルカにも、お座りなさい、とすぐ右横の手付かずの膳を指して促した。 イルカは足元の座布団を拾うと、わざとらしく遠くに席を取って座り、そこにあった誰かの手の付いた酒の猪口を呷った。 男は面白そうにくつくつ嗤うと、自分も手酌で酒を注ぎながらイルカに話しかけてきた。
「そんなに怖かったですか?」
 イルカも猪口に酒を足しながら、黙ってうんうんと頷いた。 本当のことだ。
「あの男が? それとも私が?」
「あなたですっ」
 即答する。 男は嗤い転げた。 イルカはむっとしてまた酒を呷った。

---飲まずにいられるかっ

「正直な人だなぁ」
 イルカはふんっと横を向いた。 口の中では酒が仄かに甘く香る。 さすがに高級楼閣の酒は旨い。 もったいなくなってちびりと啜って唇を舐めると、すかさず男が突っ込んでくる。
「色っぽい」

---なにをぉっ

 顔が赤くなるのが自分でも判って悔しい。 態とくいっと漢らしく残りを呷って見せると、然もおかしいと言わんばかりに腹を抱えて嗤われる。 イルカははっきり言ってげんなりした。 このまま怒ったポーズを取り続けていても拉致が開かない。
「あの、今日はこんなことになってしまって…、また日を改めさせてもらえませんか?」
「それは困ります。」
 意を決して提案したのに即却下されて項垂れる。

---やっぱだめだよね

「さっきの男がもう二度とあなたを此処へは近付けないだろうし、私も明日には国へ帰らなければ。」
 えっと顔を上げて男をまじまじ見ると、男はにやっといやらしく嗤った。
「だから今日、必ずあなたを抱きますよ。」


               ***


 山城の宣告を最後にお互いにじっと沈黙し、唯ひたすら杯を傾けた。 どのくらい時が経ったのか、外は既に陽が落ち、夜の帳が垂れ込めてきていた。
「少しは落ち着きましたか?」
 沈黙を破って山城が立ち上がった。 裏庭に面した障子とは反対側に閉じられた襖があり、奥の間があることが窺われた。 そちらに回って襖に手を掛けると、するりと開けてイルカを振り返る。 幅広の布団が一組敷かれていた。 何かの香が焚き染められていたらしく、ぷんと麝香の香りが流れ出てきた。 山城がイルカに向かって黙って手を差し延べる。 イルカは最後の酒を呷った。
 山城の手は取らずに、自分で奥の間に入る。 後ろでぱたんと襖が閉てられる音がしたので、びくっとして振り返ると、開いていた方がよかったですか? と山城が微笑んで問うた。 イルカはふるふると首を振った。 ふたつ並んで置かれている枕を見下ろして立ち尽くすイルカを後ろから抱き竦めようとした山城は、だが花魁の大きな帯が邪魔だったのか一回離れて帯に手を掛けてきた。
「自分で」
 イルカは案外落ち着いた自分の声が、どこから聞こえてきたのか判らなかった。
「できるんですか?」
 面白そうに山城が問う。 なんでも面白がる人だ。
「できます。」
 イルカは後ろ手に帯を掴んだ。 さっき練習したのだ、二回も。
「やってあげるのに」
 くつくつとした笑い声が後ろから聞こえてくる。
「って言うか、やりたいんですけど。」
 もたもたしているのに焦れたのか、更に男が言い募る。
「覚悟を決めてるんです。 手を出さないで。」
 一生懸命な上に苦しくて、イルカは多少喘ぎながらもびしっと制した。 つもりだった。 だが山城は、あはははと座り込んで嗤う。
「あなたは笑い過ぎですっ」
 思わず詰ってしまった。 そんなことを言えば尚更この男を面白がらせるだけなのに。

---悔しい

 イルカは口を引き結んで帯を解くことに集中した。 きゅっきゅっと帯の擦れ合う音だけが響く。 やがて帯が全て解けてしまってから、イルカは自分に全然覚悟ができていない事実にはたと気付いた。 帯を解くのに専心しすぎてしまったのだ。

---俺ってアホかも

 山城に後ろからいきなり抱き寄せられて、ぎくっと体が跳ねる。
「覚悟、決めたんじゃなかったんですか?」
 また嗤っている。 首筋に山城の吐息が掛かり、ゾワリと悪寒が走った。
「お、帯がなかなか解けなくて、うっかり忘れました。」
 うくくくく、とイルカの背中に顔を押し付けて山城は嗤った。
「だから帯は男が解くものなんですよ。 その方が覚悟が決まる。」
 声は優しい。
 腹に回され緩く抱き締めてくる手も優しかった。
 酷くしてくれ、とイルカは心の中で請うた。




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