真言使い
- From Dusk Till Dawn -
4
「命が惜しければ逃げろ」
男はそう言った。
「取り戻したければ追って来い」
イルカは泣きそうになりながら男を追った。
両親の形見はアレひとつきりだ。
他には何もない。
失くしたくない唯一の遺品。
自分の心の支え。
既に気配さえも隠さない男の背を追いながら、イルカは元来た道を駆け戻っていた。
先程イルカが妖魔達を焼き尽くした空き地に戻ると、男は不意に立ち止まった。
「か、返して、ください」
荒く息を吐きながら繰り返す。
「だから、取ってみなよ」
男は少しの息も乱さず、涼しい顔をしてイルカに玉を翳してみせた。
「これ取れたら、鈴を取った事にしてあげる。」
イルカははっとした。
自分が鈴を取ろうとせずに逃げ回ったからなのか。
そんな自分の考えが表情に出ていたのだろうか、男は玉を弄びながら言い募った。
「そう、あんたが逃げてばかりいるからこれを取った。 別にあんたがあのまま朝まで逃げてても俺は構わないよ。 俺はあんたを上忍に推挙しないし、これも貰っとく。 でももし、あんたが朝までに実力で俺からこれを取れたら、上忍に推挙もするしあんたのいう事なんでもきいてあげる。 その代わり、あんたがこれを取る前に俺に降参したら、あんたが俺の言う事きくこと。 いい?」
両膝に手を付いて腰を折り曲げ荒く胸を喘がせている間、男はそんなイルカに時間を割くかのように長く喋った。
---この人が玉を取ったのは、消極的になってた俺が気に喰わなかったからなのかな
次第に整い出した呼吸に体を起こし、イルカは男を見遣った。
「もし俺が、どんなに頑張っても朝までにそれを取れなかったら、やっぱり返してもらえませんか?」
---だって、取れそうもないじゃないか
やや冷静になれた頭で考える。 どう頑張ったところで自分はこの人には敵わない。 逃げても返して貰えない。 途中でチャクラ切れや体力切れを起こして闘えなくなっても返して貰えない。 では、どうしたらいい?
---でもこの人は、玉が目的じゃなくて俺の積極性を引き出したかっただけなのだったとしたら
イルカは一縷の希を抱えて男に問うた。
「うーん、それはその時の俺の気分かな」
だがしかし、男の答えは曖昧なもので、返すという確約を得られないままイルカは戦うことを決意した。
---他にどうしようもないものな
ふぅーと静かに長く息を吐き出し、イルカは腹の底に気を集めて神経を集中させた。
---体力・チャクラはもう無駄に使えない。 ならやはり真言で…
「お相手、お願いいたします。」
イルカは男に向かってひとつ頭を下げると、トンッと一飛び男から距離を取った。 右手で刀印を組み、左手で護法九字の印を切ながら詠唱する。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
体に気が漲り、意識が神々の威を以て発される真の言葉を紡ぐために集中していく。
「タリツ・タボリツ・パラボリツ・シャキンメイ・シャキンメイ・タタラサンタン・オエンビ・ソワカ」
太元帥明王の加護により、邪なるものの侵入を防ぐ結界を張る。 一対一でも敵いそうもないのに、先程のように何か口寄せでもされては手も足も出ないばかりか余計な体力・チャクラを消費させられてしまう。 それだけは避けなくてはならなかった。
---とにかく、朝まで持ち堪えなくちゃ
イルカは男の様子を窺いつつ、肉弾戦をするのに必要な真言を次々と詠唱していった。 玉を取り返そうと思ったら、直に組み合わなければならない。 今の自分では、恐らく体術でも到底敵わないだろう相手だが、素早さと威力を高められればもしかして勝てないまでも対等くらいには渡り合えるかもしれない。
「オン・マリシエイ・ソワカ」
摩利支天の加護を以て、神速の動きを得る。
「ナウマク・サマンダボダナン・ベイシラマンダヤ・ソワカ」
毘沙門天の加護を以て、武の神力を得る。
「参ります!」
イルカは叫んで男に突進した。
・・・
真言で来るとは思ったが、予想に反し男は肉弾戦を挑んできた。
「あれー、さっきみたいに炎で焼いたりとかしないのー?」
カカシは体術でこの男に負ける気がしなかったので、少しばかりがっかりしながら気の抜けた声を出した。
「玉を、返していただきますっ」
男は、はっと気合と共に蹴りや突きをカカシに向けて繰り出してきたが、カカシはそれをやんわりと受け流すように交わしながらつまらないなぁと些かヤル気を失いかけた。 だが、中忍の蹴りなど見なくても交わせると、余所見をした瞬間にそれはやってきた。
「うぐっ」
回避動作が間に合わなかった。
---速いっ それに重い?
予想より速く強い蹴りの回転と威力に、受身さえも足りず吹っ飛ばされる。 男の踵が基本に忠実に首筋の急所に入っていて、地面を転がりながらカカシは一瞬眩暈さえも覚えた。 如何にも軽そうな小柄な男。 例え攻撃を受けたとしても、そこまでダメージを被るとは思いもよらなかった。 目から星が出るとはこのことか、とチカチカする視界を頭を一振りして取り戻す。 直ぐにでも畳み掛けるように止めの第二派が来るかと思い態勢を立て直して防御姿勢を取るが、男は離れた場所でただカカシを見て待っていた。
---甘いなぁ
自分に蹴りを入れた事は褒めてやろうと思ったが、戦場でそんな悠長なことやってたら、殺れるものも殺れないし、そうこうしている裡に自分が殺られちゃうよ、と唇から滲む血を手の甲で拭いながら男を見遣った。
「なんで止め刺しに来ないの? 俺、もう油断しないよ? あんたなかなか体術もやるね」
先程は、カカシに付いて走っただけで息を乱していたのに、今は全く呼吸も気も乱れていなかった。 格闘戦に入る前に唱えていた真言が、何か体術に関係するステイタスを上げるものだったのかもしれないと思い出し、やはりこの男は侮れない、と気を引き締める。
---まだ何か仕掛けてくるに違いない、唯の肉弾戦だけだと思わない事だ。
カカシは男と距離を取りつつ、こちらは有り余るチャクラで対抗するのが常道と手印を結んで忍術戦に切り替えた。
「火遁業火球の術!」
車輪眼持ちならではの荒業を最初から繰り出す。 命を取りたい訳ではない。 牽制の意味だと、態と発した威力の強い術だった。 だが、男は炎を避けもせず真っ直ぐ突進してきた。
「ばっ よけろ!」
思わず声が出る。 だが次の瞬間見たものは、火遁の炎とは異種の焔を纏い、業火球の火柱の中を前傾姿勢でカカシに突っ込んでくる中忍の姿だった。
---炎を炎で打ち消している!
その逆転の発想と大胆な決断力に感嘆さえしている裡に、あっという間に間合いを詰めらて更に格闘を挑まれる。 しばし手で手刀を受け、蹴りを交わし、男の隙を見てこちらからも攻撃を打ち込もうと幾度か試したが、小柄な男の素早さは先程目前を逃げていた時以上に上がっており、男からの攻撃を交わすので精一杯の状態に追い込まれた。 それではと体格差を逆手に取った力技に持ち込もうと、打ち込まれてくる掌底を喰らわされる寸前に身を引いて交わし、男の手首を逆に掴もうとして手を伸ばしたと思った瞬間、鳩尾に衝撃を受けて体は再び後ろへと飛ばされた。
---唯の突きではないのか
確かに突きは自分には届いておらず、彼の掌を聢とこの目で見たはずだったのに、衝撃だけが体を襲った。 鳩尾から胃の辺りを中心とした内臓に強かに掌底によるダメージを負う。 くっと体を折り、痛みに面の下で顔を歪ませカカシは片膝を付いた。 掌から衝撃波を出したのか。 印も結ばず詠唱も無しで人外の技を繰り出せる、今のこの男のステイタスが常態であるとは思えなかったが、現に自分は今こうして苦戦を強いられている。 一度ならず二度までも中忍相手に地に膝を付かされた屈辱にカカシは唇を噛んだ。
---神力か、それと神速…
やっかいだ、とカカシは唸らされた。 忍術ならばコピーできる。 だが、真言は唯コピーして唱えただけでは発動しない。 ”真言”とは、正しくその意味を理解し唱えないと”力”として発現しない、カカシにとっては厄介な代物だった。
---仕方ない、これを遣ると俺もチャクラの消費が激しくってヤなんだけど
カカシは、瞳術を使うべく仮面をかなぐり捨てて左目を開いた。
・・・
暗部の者が仮面を捨てたので、イルカは内心動揺した。
---見ても…いいのか?
暗部の仮面の下に関する噂は眉唾なものも入れれば数限りなくあった。 どれも不吉なものばかりだったが、自分には関係ないと真面目に考えた事すらなかったイルカだった。
---えーと、見たらどうなるんだっけ、殺される?
うわー、とビビるも然りとてどうにもならず、イルカは男の動向を見守った。
イルカはというと、先程男に言われたような、ダメージを与えた上に畳み掛けるように第二派、第三派と攻撃を仕掛けて男を行動不能にするような戦略は最初から頭になかった。 悠長と言われようと、甘いと言われようと、イルカにはイルカの遣り方があり、自分の道議に反して勝つための遣り方を選んでも、結局うまくいかないと判っていたのだ。 それは、未熟ながらも経験がそうと教えた、イルカにとっては代え難い指標だった。
---とにかく、あの人だって人間だ、いつかチャクラも切れるはず
イルカは、男がチャクラを大量消費する大技を繰り出すように仕向けていたのだった。 そうして動きの鈍った処で縛する術なら幾つかある。 今はただ、男の出方を見てそれに対処するのみだった。
---でも、あれってもしかして幻術?
バカだ俺!
男の左目が右目と明らかに違う色をしているのに気付いたイルカは、思わずそれに見入ってしまっていた自分を詰りながら大分開いていた男との間合いを更に広げようとしたのだが、もうそこは男の幻術の中だと知った後だった。
「う、うぁっ」
足元から動物的な動きでスルスルと伸び巻き付いてくる蔓状の植物の群れに、足先から下半身全体を既に雁字搦めにされていた。 そして尚も蔓は伸び絡んで、上半身を締め上げてくる。
「ア…、アボキャベエロ・シャノナカモ・ダラマニ・ハンドモ・ジンバラ・ハラハリタヤ!」
考えるより先に光明真言が口を吐いて出た。 途端に眩い光が辺りに満ち、視界が戻った時には心臓の辺りまで締め上げられていた蔓も枝も、何もかもなくなっていた。 幻術・幻影を破壊する真言だ。 それでも精神的ダメージが大きく、がくりとその場に膝を付く。 額からはひたひたと冷や汗が滴り、はっはっと息も乱れた。
「ナウマクサンマンダ・バザラダセン・ダカロシャナソワタヤ・ウンタラ」
まず自分の身の周りだけを囲む不動行者加護の炎の壁を築き、その上で回復を図る。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ…」
息苦しさは無くなったが、精神痕はおいそれと無くなる物ではなかった。 胎蔵大日如来真言を唱えれば、或いはこの精神的ダメージも回復できたかもしれないが、イルカには大日如来様の真言を詠唱できるほどの度胸も覚悟も無かった。 それは己の命運を確実にひとつ減じることになる、”人”として遣える真言の最上級の限界に近い真言だった。
---とにかく、あの目を見ちゃだめだ
はっはっと未だ整わぬ息を吐きながらイルカは業火壁の外側の様子を窺おうと顔を巡らすと、思いがけない程近くに男がおり、片手の掌を地面に向けて光の束を集めている様が目に飛び込んできた。 チチチっと鳥の鳴くような音が不気味に響いている。
---千鳥?!
その、名前だけしか聞いたことのない技の名は、疎いイルカでも知っている有名な雷撃系の術だ。
男の掌の稲妻は、既に一束に収斂しつつあった。
まちがいない。
「ナウマクサマンダボダナン・インダラヤ・ソワカ!」
咄嗟に同じ雷撃系の帝釈天雷霆真言を唱える。 帝釈天の加護により、雷霆を借り受け敵へと放つその真言は余りに効果が強烈で、イルカも人間相手に繰り出したのは初めてだった。 放った瞬間にイルカと男の丁度中間で雷撃がぶつかり合い、不動行者加護の業火壁もろとも空中で砕け散った。 イルカは衝撃で後方数メートルまで吹き飛ばされ、強かに地面に打ちつけられた。 体中を襲う打撲の痛みに呻きながら、男はどうかと未だ煙る元居た場所の反対側を透かし見る。 試験管の男もイルカと同様に地面に伏して呻いていた。 自分の方が雷撃を喰らう覚悟があっただけまだ余裕があるらしかった。
「ナウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタヤ・ウンタラタカンマン」
捕縛術を掛けるなら今しかない。 イルカはふらつく足を叱咤して立ち上がり第一真言を詠唱した。
「オン・キリキリ・オン・キリキリ…」
男に近付きながら、不動明王の持つ縛妖の索の力を以て敵を縛るマントラを唱え続ける。 第二詠唱を幾度も口しながら片足を引き摺り、一歩また一歩と男に近付いていった。 既に見えない縄が、男の体に巻き付き締め上げ始めているはずだ。
「ナウマクサラバタタ・ギャテイヤクサラバ・ボケイヤクサラバ・タタラセンダ・マカロシャケン・ギャキサラバ・ビキナン・ウンタラタカンマン」
最後の第三詠唱を唱えて初めて、この不動金縛りの法は成る。 イルカは気を緩めずに最後まで唱え切って手印を結んだ。
「縛!」
「ぐうっ」
男の呻き声が一際大きく聞こえたと同時に、ドサリとその体が地に倒れ伏して動かなくなる。 それを確かめてからやっと、イルカも男の体の脇で両手両膝を地に付いて肩で息をした。 神力を借りたと言っても体は自分の物に変わりはなく、正直これ以上このステイタスを維持し続けることは無理だった。
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