真言使い
- From Dusk Till Dawn -
3
「ナウマクサンマンダ・バザラダン・カン!」
不動明王の破邪の炎を以て、妖魔を焼き尽くす。 燃えさかる炎は幾重にも分かれて、前方十数体の小妖魔達を一気に薙ぎ払っていった。 当座の急場は凌げたが、上がった息は整わず体力も限界だった。
「タリツ・タボリツ・パラボリツ・シャキンメイ・シャキンメイ・タタラサンタン・オエンビ・ソワカ」
太元帥明王の加護により、邪なるものの侵入を防ぐ結界を張る。 イルカはそこでやっと足を止め、膝を付いた。 はっはっと喘ぐように息を吐き、滴る汗を拭いながら手印を結ぶ。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」
薬師如来のお力に由り、死亡以外のコンディションが回復する真言を唱えると、体が少し楽になった。
---これからどうしよう
漸く落ち着いて作戦を練り直す事ができるようになったはいいが、やはり試験管に近づけなければ話にならないと言う結論に行き着くばかりだった。
---このまま逃げ回って朝まで持ち堪えるってのはどうかな
消極的な逃げ道に自然と思考が傾いてしまう。 どうしても上忍になりたい訳ではないのだし、死にさえしなければいいじゃないか、と思えてくるのだ。
---イカンイカン
ふるふるっと頭を振って前向きになろうと考えを切り替える。
「取り敢えず、このクナイをなんとかしなくちゃなぁ」
先程、見たことも無いような黒い靄状の妖魔に突き刺した直後からズシリと重くなってしまったクナイを見下ろす。 何か悪霊系の妖魔だったに違いない。 この森の妖魔は、殆どが精霊系の妖魔なので、そのような呪いの力がある妖魔に対応するのは初めてだった。
「オン・シュリ・マリ・ママリ・マリ・シュリ・ソワカ」
烏枢沙摩明王の力を以て、呪いを払う。 クナイは元の重さに戻り、すっと手に馴染んだ。
「さて、と」
立ち上がって辺りを見回す。 森の妖魔の気配はまだまだ多かったが、心なしか自分が倒した数より減り方が早い気がする。
「コウさん達、手を出さないでって言っといたのに…」
試験管以外ならいいと思っちゃってるのかなぁ、とイルカは頭を掻いた。
「ま、いいか」
それで試験に落ちても構わない訳だし、とコウ達の所業に関する対応は早々に諦める。
「とにかく、試験管さんを誘き出すには妖魔さん達に退場ねがわなくちゃ、ね」
イルカは一気に片を付けるべく広く開けた場所を目指すことにした。
・・・
カカシは目前に繰り広げられる”真言”戦に瞠目して息を呑んでいた。
「す…ごいよ、あの人。 びっくりだ!」
次々と繰り出される真言の数々。
あと一歩で降参すると思われた中忍は、チャクラも切れ掛かり体力も限界で今にも倒れそうに見えたのに、不意に戦術を変えてカカシを驚かせた。 中忍が真言を遣えると言うだけでも充分驚愕に値するのだが、その適宜な使い方と数の多さに更に驚かされる。 仕事上、真言使いと遣り合わなければならない場面にも幾度か出くわし、その対応策にも抜かりはなかったが、ここまで見事な使い手は初めてだった。 それも相手は、小柄でチャクラも微々たる中忍なのだ。 今まで、彼とは比べ物にならないほど腕力もチャクラもある忍達と渡り合ってきたカカシだったが、今夜ほどゾクゾクと背筋を期待が這い登る感覚を味わう事は稀だった。 森の入り口で会った時、小首を傾げ小動物のようだと感じた彼の印象が刻々と変わっていく。
---直に手合わせしたい
その欲求が膨れ上がるのに時間は掛からなかった。 何時もなら、引導を渡す瞬間しか姿を表さないようにしているのだが、今回はなるべくこの男との闘いを長引かせ、楽しみたい欲求にかられている自分が面映ゆい。 体力が無さそうなので持久戦には弱そうだが、体術もそこそこ遣るようだった。 彼と直に遣り合うにはカカシ自身が召喚した妖魔どもが邪魔だったが、森の妖魔達との間で小競り合いのような数減らしが行なわれているようで、その数は急速に減りつつある。
---妖魔さえも味方する男
口端に知らず笑みが浮かぶ。
---楽しい、楽しいぞ!
残りの妖魔数十体を引き連れて森を移動し始めた男の後を追いながら、カカシはこの男と最高に楽しめるシチュエイションは何かと、昂揚した頭を期待でいっぱいにして体を震わせた。
・・・
「オンキリ・ウンキヤクン」
ぽっかりと開けた森の中の異空間とでも呼べるその場所で、イルカは自分の回りに妖魔二三十体を群がらせた挙句、更にその周りから諸天の神威を以て包囲する結界を張り巡らせ、一匹たりとも逃がさない構えを見せた。
「ナウマクサンマンダ・バザラダセン・ダカロシャナソワタヤ・ウンタラ」
自分の回りには、不動明王の加護を以て火炎の護りを成す半径1メートル程の結界を張り、妖魔達をドーナッツ状の結界の壁に閉じ込める。 後は一気に片付けるのみ。
「ナウマク サマンダバザラダン センダマカロシャダ ソワタヤウン タラタ カン マン! 遍満する金剛部諸尊に礼し奉る。 暴悪なる大忿怒尊よ。 砕破し給え。 忿怒し給え。 害障を破摧し給え。」
妖魔達は悲痛な雄叫びを上げながら不動明王の炎に焼かれて転げまわった。
「ナウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ サラバビキンナンウン タラタ カンマン! 全方位の一切如来に礼し奉る。 一切時一切処に残害破障し給え。 最悪大忿怒尊よ。 一切障難を滅尽に滅尽し給え。 残害破障し給え。」
容赦なく追い討ちを掛ける炎に焼き尽くされて、妖魔は跡形も無く消え去った。
「ふぅ」
思わず吐息を漏らしてイルカは体の緊張を緩ませた。
その時、
「あんた、遣るねぇ」
真後ろの、首筋のすぐ側でふわっと擽るような息と言葉を感じてイルカは瞬間硬直した。
呼吸ができずにヒクっと喉が鳴る。
ピリッと痛みを感じると共にタラリと一滴何かが首筋を伝って流れて行く。
体がカタカタと震えていた。
---な、なに? 誰?
全くなんの気配も感じられなかったイルカは、震えて儘ならない腕を叱咤して首を拭い顔の前に掌を翳してそれが自分の血だと知った。
---遊ばれている…!
だが、振って湧いた感情は怒りより恐怖だった。
---に、逃げなくちゃっ
考えるより先に体が反応して足が地を蹴っていた。
・・・
---あ、あれ、逃げちゃった…
脱兎の如く逃げ去る中忍の背を眺めながら、その拍子抜けするような展開にカカシは一瞬呆気に取られた。
---ま、狩りも一興か
追忍家業も少なくない暗部の任務で、狩りには慣れていた。 ただ、相手を殺してしまう訳にいかないのが加減が難しい処だったが、直ぐに捕まえられると高をくくっていた。 だがそれも間違いだったと直ぐに気付かされた。
---なんで捕まらないんだ!
追跡は直ぐに開始したはずだったがその逃げ足は物凄く速く、ちょこまかとすばしこく逃げ回り、撒かれはしなかったものの一向に白兵戦に持ち込めない。 仕掛けてあるトラップや投げ物系、果ては威力は抑えはしたが攻撃系の忍術も幾つか放ったが、その足を止めることができなかった。 男の足は、澱みなく森を駆け枝を潜り谷を避けて越えていく。
---この森を知っているな
地の利は相手にあると知り、カカシは戦略を変える必要性を感じ出していた。
---なんとか向こうからこちらに挑んでくるように仕向けられないかなぁ
そんな風にぼんやり考えていた時、男の懐からチラリと何かが零れて後ろにたなびくのが目に止まった。 紐で結ばれた小さな袋状の物が首に掛かっている。
---なんだアレ、お守り?
首を貫いてしまわないように注意深く千本を投げる。 ヒラリヒラリとかわして逃げる男の軌道を読んで、ほんの少しだけ後ろを狙った。 何本か投げた内の一本が紐を切り裂き、次の瞬間にはカカシの手の中にその袋が納まっていた。
「あっ」
男が小さく叫んで、そして立ち止まった。
---やっとこっち向かせた
カカシがにんまり笑ってその小袋を男に掲げてみせると、男は黒い目を一杯に見開いてカカシを見た。
「返してください。」
---か細い声だな
上がった息に胸を大きく喘がせながら、男は一歩足をカカシに向けて踏み出し、片手を差し出した。 怯えている。 気配は最初に感じた通り、小動物のそれだった。
---怖くて怖くて仕方がないのに、捨てて逃げられない程大事な物なんだ
袋の中を検めると、男の瞳のように真っ黒な玉がひとつ、コロリと出てきた。
「なんだこれ」
人差し指と親指で摘まんで目の前に翳して見る。 透明度の無い黒光りするその玉は大きめの飴玉ほどで、今この夜の森に落としたなら二度と見つからないと思われた。
「おっと」
「あっ!」
態と落としそうになった振りをしてみせると、男はあからさまに動揺した。
「返してっ 返してください、お願いですっ」
十数歩はあったカカシとの距離を自ら縮めて、それでも後二三歩の所で立ち止まり、ふるふると震えながら右手を差し出す。
「両親の形見なんです、それしか無いんです。 お願いです、返してください。」
---二親とも居ないんだ
俺と同じだなと、目を潤ませ震える足を叱咤してカカシと対峙している男を見ながらカカシは男に少し同情したが、益々男への興味が募った。 もっと俺に実力を見せてみろ、俺に参ったと言わせてみろ、と言いたくなる。 目の前で恐怖に震える男は、だがしかし、例え両親の形見でも高が玉ひとつの為にカカシの向かってきたのだ。 命の危険を感じて逃げたのだろうに、大切な物のためには体を張る覚悟がある、と見た。 大切なもの、それに”仲間”が当て嵌まるなら、この男はどんな状況でも仲間を見捨てない男なのだ。 それが知りたい。 それが”上忍”に欠かせない資質のひとつだと、カカシは固く信じていた。
「この玉を取り戻したければ、俺に向かって来い。 命が惜しければ逃げろ。」
カカシはそう言うと、男に見えるようにべろりと玉を口に含んだ。
「やめっ」
男が泣きそうな声を上げた。 それを見ながら指をクイクイっと誘うように折ってみせる。
---さぁ来い
今度はおまえが俺を追う番だ。
・・・
破邪封印結界は対妖魔用のものだ。 人間は通れる。 確かに通れはするが、中は妖魔でいっぱいのはずだった。
---それに!
と、イルカは逃げながらも戦慄に背筋が震えて止められなかった。 自分の周りには、不動明王業火壁を張り巡らせていた。 いくら上忍でもアレは早々簡単には破れない。 無理に破れば相当なダメージを負うはずだ。 剰えイルカは、不動明王慈救呪と不動明王火界呪を放ち数十体の妖魔を一時に焼き尽くしている。 とても人間に耐えられる炎ではない。 とすると、自分が結界を張る前から自分の直ぐ側に潜んでいたというのか? 不動明王業火壁は半径1メートルも無かったのに、自分は何も気付かなかった。
---恐ろしい…
イルカは、妖魔に対するよりも余程の恐怖をヒリヒリと皮膚に感じて唯ひたすら逃げ続けた。 今まで中忍として任務に就いていた時にも数度、今と同質の恐怖を感じた事がある。 どうしようもない絶対的な力の差。 本能が、唯逃げろと告げる危険な存在。 そんな者に対峙した時、イルカは何も考えずに逃げる事を選択していた。 それが生きるために残された唯ひとつの道だった。 そして運よく生き延びられた後で強く思うのだ。 自分は上忍には成れない、と。
追ってくる上忍で暗部の男は、予め仕掛けてあったと思しきトラップを発動させつつ手裏剣や千本などで攻撃してきた。 それはイルカ自身を狙ったものではなく、明らかに自分の足元や行く手を塞ごうとする意思が窺われ、命までをも奪おうとするつもりは無いらしいと知れたが、イルカの恐怖は収まらなかった。
---掴まったら、どうなるんだろう
恐怖というより頼りない不安とでも言うのだろうか、何か今まで感じた事も無いような未知の物への怯えが心を埋め尽くしていく。
---怖い、こわい、コワイ
逃げなくちゃ
ただそれ一心でイルカは逃げた。 足は何も考えずとも自然に動く。 勝手知ったる森の中だったことが味方だった。 男の気配が自分には感知できない事はさっき嫌と言う程判ったので、最早探ることに気を割くことさえ止めてただ逃げた。 だが、森の妖魔や猛獣たちが男の行動に反射するように反応し、イルカに教えてきてくれる。 イルカは横目でそれを見ながらある程度の予想をし、トラップの発動音や投げ物の唸り音を拠り所に、最後で最後のほんのちょっとの動きでそれらを避けながら逃げ回った。 枝から枝に飛び、潜り、駆けている裡に、自分の首元からお守りにしていた両親の形見の玉を入れた袋が零れたことに気付いたのはつい先程だ。 枝に引っ掛けないようにしなくては、そう思った途端の事だった。 ヒュッと千本の飛んでくる音に身を翻らせ何本かが行く手の木の幹に突き刺さったのを見た瞬間後に、首で揺れていた紐が無くなった。
「あっ」
胸元を探り、思わず足が止まる。
振り返ると、試験管の男がイルカに向けて片手を高く翳していた。
嗤っている。
仮面で見えないはずの男の表情が何故か判った。
---やられた
懐から零れ出していたのは、ほんの一瞬だったのに。
イルカは絶望的になりながらも、逃げ続けることができなくなっていた。
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