聖域

-SANTI-U-


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 イルカ先生
 イルカ
 俺の、イルカ

 うみのイルカは、もうぼろぼろになったその式鳥の紙を丁寧に畳んで額宛に仕舞った。
 あと一回聞ければいい。
 何回も何回も聞いた彼の人の声。
 何があっても どんな目に遭っても
 必ず還れと、あの人は言った。
 必ず生きて俺の元へ。
 手印を結んでチャクラを練り、人差し指を額に当てる。
 おまえは走る獣。
 あの人の元へ
 ただ走れ。



 イルカ先生
 イルカ
 俺の、イルカ

 鳥に乗せた彼の人の名を、今日も唇に乗せて彼方の空を仰ぐ。
 早く、早く還っておいで
 あなたに逢いたくて、唯もう一度逢いたくて
 それだけで俺は生き残れる。
 あの人はそう言って泣いた。
 この腕の中で。
 火影五代目綱手姫、その執務室で立ち尽くす。
 はたけカカシ、おまえの妻がおまえ目掛けて今まっしぐらに駆け戻っている
 行く手を塞ぐ物全てを薙ぎ払い、唯ひたすらおまえの元へ還って来ようと走っている
 妻を迎えに行ってこい。






帰還

-SANTI-U after, SAUDADE-


 火影五代目、現在の私の師、綱手様の執務室に呼び出されたのは、残暑も和らぎ秋の気配が漂い始めた日の午後。 ノックして入ると先客がいた。 嘗ての師、あの懐かしいスリーマンセル時代の恩師であり里にこの人有りと謳われる車輪眼のカカシ。 カカシ先生の背中は、幾分痩せて見えた。 イルカ先生が忍の足でも十日は掛かる遠地に赴いてから三ヶ月が経過していた。
 戸口に立ち尽くしていると、後ろから押されて自分が我を失っていたことを知る。 私はカカシ先生の憔悴振りと殺気立った気配に一歩も動けずにいたのだ。 後から入ってきた嘗ての十班の上忍師アスマ先生は、相変わらず口に煙草を咥え鷹揚な態度で扉を閉めて私を部屋の中央、火影様の執務机の前まで押し遣りながら自身も歩を進めた。 五代目がやっと私を見、良く来てくれた、と言って少し微笑んだ。

「カカシ、サクラが怯えてるだろう。 少し落ち着け。」
 アスマ先生がカカシ先生をソファに無理矢理座らせ、自分も横にどかりと腰を据えた。 私は恐々師匠の横に歩み寄ると、師匠が態々席を立って私の為に椅子を用意してくれて焦る。 普段、絶対にこんな事をするような人ではない。 だが、師匠は私の腕を取り、いいから座れ、と言って宥めるように私の肩を軽く叩いた。 私はなるべく師匠の側に椅子を寄せると、やっと少し落ち着いた気分になることができた。
「各国から苦情が殺到している。」
 師匠が自分の椅子に座り直すと、やおら話し始めた。
「うみのイルカは、各国国境の警備隊を薙ぎ払いながらほぼ一直線にこちらに向かっている。 迅駆けをしているのだ。」
 何の話なのか。
 説明のないまま始まった話に一心に耳を傾ける。
 イルカ先生の任務の話には違いないらしいが、あのイルカ先生が国境警備隊を薙ぎ払っているなど、想像だにできなかった。
「確かにイルカなんですか」
 アスマ先生が本題に入ろうとする五代目を遮って問うた。
「確認した。 確かに木の葉の額宛をしていること、人相は」
 とそこで師匠は言葉を区切り、左手を頭上に上げて髪を括る仕草をし、右手の人差し指で鼻梁を横にゆっくり刷いて見せた。
「迅駈けと言ってもただの迅駆けではない。 巴の国北の国境からの報と南の国境からの報の時間差はたったの一日。 忍が全力で駆けても三日掛かる距離を一日で駆けているのだ。」
「どうやってそんな…」
 私は思わず口を挟んでしまった。
 納得できない事をそのままにしておけない性分が出てしまった。
 言ってからびくついて師匠を見ると、彼女は私の方は見ずにカカシ先生に向かって言葉を発した。
「飲まず食わず、眠らずで走っている、そういうことだ。」
 カカシ先生はぴくっと始めて体を動かした。
 だけれども何か喋るでもなく、膝の上で両手を組み合わせただ俯いているカカシ先生に、師匠は少し溜息を漏らし、話を続けた。
「任務終了報告は昨日私の元に式鳥が知らせてきた。 隊全体がこれから帰還する、という事だった。 その時には別段何か不測の事態が起きたような情報は何も無かった。 だが、その日の午後辺りから時々刻々と各国から苦情が届き出した。 木の葉の忍が許可なく迅駆けをしている、とな。 制止に入った国境の忍を悉く力で退けたそうだ。 あの、うみのイルカがだ。 おまえ、何か連絡はなかったのか。」
 五代目のきつい問いかけに、カカシ先生はやっと顔を上げた。
「私のところにも、一昨日の夜遅く式鳥が来ました。 今から還る、と。」
 カカシ先生の声は掠れて何日も誰とも喋っていない人のようだった。
「その前には何か任務状況を伝えるような連絡はなかったのか」
 火影五代目は畳み掛けるように問うた。
「一月程前に、一回式が来ました。」
「何と言ってきた」
「何か、なんでもいいからその式鳥に言葉を載せて返して欲しい、と」
「それだけか」
「はい」
「…」
 腕を組み、眉間に皺を寄せて綱手様がカカシ先生を睨んでいる。
 私は息を潜めて二人を見比べた。
「それで、なんと言ってやったのだ」
「二言三言しか載せられなかったので、ただ名前を呼んで、それだけです。」
 カカシ先生がぼそぼそと話す。
 こんなカカシ先生を初めて見た。
「二言三言? もっと載せられるだろう普通」
 アスマ先生が口を挟んだ。
 私もそう思ったので、口を挟まずに済んだことに胸を撫で下ろす。
「音声データでほしい、ということだったので」
 カカシ先生は膝に両肘を立て、掌の中に顔を埋めて呻くように話し出した。
「あの人、意外と不精で、どんなに長期任務でも今から還るという連絡以外してきたことなんかなかった。 それが今回、途中であの人の鳥が来た。 なんでもいいから言葉がほしい、どうしてもあなたの声で送ってほしい、そう言ってきた。 その鳥には二言三言しか載せられなかったので、俺の鳥をその鳥に付けて飛ばしました。 こんな事今までなかったから、何かあったのかと心配になって。」
 カカシ先生は一旦そこで言葉を切ると、髪を掻き毟るように頭を両手で抱え込んだ。
「でも、俺の鳥だけ返ってきてしまった。 俺は、その後も何回も式を飛ばしました。 イルカ先生だけでなく正式に部隊長に宛てても問い合わせをしてみました。 でも悉く返ってきた。 俺は心配で心配で…」
「それが先日出してきた上申書の理由か」
「そうです」
 カカシ先生の上申書。
 私にも思い当たる事があった。
「サクラ、この前にこいつが出してきた上申書があったろう? あれを出してきてくれ。」
 師匠が隣の資料室を顎で杓って示す。
 私は駆け出した。
 師匠に就いて二年。
 この事務処理に疎い里長の秘所的な仕事はシズネさんが一手に担ってきていたが、最近私にも仕事が任されるようになっていた。
 カカシ先生の上申書は、イルカ先生の任地に正式な状況報告を至急要請するものだった。
 自分の式鳥だけが拒否されたのか、里からの正式な鳥も拒否されるのか、それが知りたかったのかと今解る。
 里の式鳥への返答は、程なく部隊長からの式鳥としてやってきた。
「背景に何かある事は判った。 だが、今問題なのはイルカが迅駆けを止めないということだ。 イルカを止めなければ国交問題になる。 あと一日半程で雪の国に入るだろう。 イルカは今のところ殺しは犯していないが、それは相手が直ぐに引いたからだ。 だが雪の国の忍は容赦しないだろう。 イルカがそこで殺しを犯せば最悪戦が再燃する。 イルカも唯では置かれないだろう。」
「では今すぐ」
 アスマ先生が立ち上がりかけると、綱手様がまだだと制した。
「この子を連れて行ってもらう。」
 師匠が横の私をまた顎で杓る。
 アスマ先生が苦い顔をした。
 もちろん、足手纏いは明らかだった。
「奴は十日の距離を三日半で駆けようとしている。 普通そんなことはできない。 何か奴にその手の特別な能力があるとか言う話はないのか?」
 カカシ先生は無言で首を横に振った。
「ではやはりあれだな…」
 師匠の呟きに今度はカカシ先生が身を乗り出した。
「何がっ 何なんです?!」
「私が昔な、考案した迅駆け法があるんだよ。 実際試したことは無いんだが。 余りにも無謀だと言われてな。」
「そ、それを何か文献に残したんですか?」
 カカシ先生が必死になっている。
「残した、はずだ。 どこにあるか私にも解らんが」
 カカシ先生はまた顔を両手で覆った。
「あの人、きっとそれを読んだんだ。 あの人書庫のことなら知らない事無い人だし…。 それで、それはどういう方法なんですか?」
 直ぐ顔を上げてカカシ先生は綱手様に喰いついた。
「座れ」
 彼女は先ずカカシ先生を制すると、立ち上がって机を回り、ソファの二人の前まで行った。
「呼吸と心拍を抑えて自分に暗示を掛ける方法なんだよ。 意識レベルも通常の半分以下になるはずだ。 ただ駆けるだけの人形のようになる。 進路を阻む者が現れれば敵と見なし、オートマティックに攻撃するようにもできる。 飲まず食わず眠らずでも何日も走れる。 ま、実際は半分眠ったまま走っているようなもんだがな。」
「どうやれば止められるんです?」
 カカシ先生が必死の形相で綱手様に問う。
「基本は自己暗示だ。 だから何か暗示を解くキーワードのようなものが在るはずだ。 それにな、半分冬眠したような状態になっているから蘇生方法を誤ると取り返しのつかないことになる。 イルカを失いたくなかったら慎重になれ。 私が行ってやれればいいのだが、そういう訳にもいかん。 だからこの子を連れて行け、と言っているのだ。 もし蘇生に失敗しても、なんとか里に連れ帰るまでの間くらいは持たせられるはずだ。」
 カカシ先生がそこで初めて私を見た。
 こんな縋る目をしたカカシ先生を、私は知らない。
「イルカの現在位置は恐らくこの辺だ。 ランデブー・ポイントとして最適なのは…」
 綱手様が直ぐに話を進めて行く。
 時間が無いことが私にもひしひしと伝わってくる。
 壁に掛けられた周辺諸国の地図を指しながら、火影五代目の作戦会議が始められた。





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