死にゆく者への祈り

- A Prayer For the Dying -


3


 はぁ、はぁ、と肩で息をして、手に持ったままだったスチール製のゴミ箱の蓋を見降ろした。 投げ捨てようとしたのだが、なかなか指が開けなかった。 もぎ取るようにしてやっと離した。 足元に転がった3人のゴロツキ達を踏まないようにして、よろける足取りでその場を離れた。 「アナタは私を知らないようだ」という声が背中を追いかけてきた。 知っている。 アナタはマフィアのボスだ。 そして私も、同じ穴の狢だ、そう思った。

 教会が荒らされた。 夕方、司祭控室で雑用をしていた時だった。 礼拝堂の方から荒々しい物音と奇声が聞こえ慌てて駆け付けると、暴漢が数人入りこんであちこち壊し火を点けていた。 備え付けの消火器を取り、火と彼らに吹き掛け、一人を取り押さえて問い詰めた。 ソイツはあっさりと白状した。 「酒場に居た紳士に金で雇われた」と。 すぐに一人の顔が思い浮かび、その男に雇われた既に馴染みの顔が隣に並んだ。 完全なとばっちりだ。 頭に血が上り酒場まで走った。 そしてこうなった。 3人の手下に囲まれて、返り討ちにしてしまったのだ。 体が勝手に動いてしまった。 

「さすがは元SASの将校殿、と言ったところかな。 だが、アナタは私を知らないようだ。」

 はっとした。 怒りに駆られて私はなんということを…!

          ・・・

「なんてことを…」

 投げ掛けられる言葉を背に、逃げるようにして教会まで走って戻り、礼拝堂の焦げ跡の残ってしまった長椅子に座りこんで、頭を抱えた。 この期に及んで暴力に訴えるなんて。 何故、司祭にまでなって、今こうしてここに居るというのだろう。 過去の贖罪のために我が身とこれからの人生を捧げ、自分を律して生きていくためではなかったのか。
 元々が古い教会だった。 鐘楼も工事中だ。 十字型構造の建物の中心部、十字が交わる箇所にある礼拝堂の更に真ん中にある鐘楼には、そこへ通じる工事用の昇降機が据え付けられ鉄骨が剥き出しの状態だ。 ミサもそんな中でやっていた。 資金が足りなくてなかなか思い通りに進まないのに、またこんなに壊されてしまって…。 正に今の自分の心境そのものではないか。

「…どうした?」

 そんな風に落ち込んでいる時に一番会いたくない者の声がした。 彼はまた雨を纏っていた。

「雨か?」
「ああ、さっき降り出した」

 雨男め、と心内で毒突くと、「この街は始終雨ばかりじゃないか」と心を読んだかのように応酬された。 それに思わず苦笑を洩らし、幾らか気分が上向いている自分をおかしく感じる。 ただ迷惑なだけだったのに、なんだろう、この感じは。

「アンタは顔にモロ出だな。 で、何があった?」
「見てのとおりだよ」

 顔って? こんなに両手で覆い尽くしているのにか? と、手を少しずらして見ると、礼拝堂の惨状を見回し「ヤツらか」と短く溜息と共に呟きながら煙草を咥える彼が居た。

「禁煙だと言ってるだろう」

 溜息が移ってしまったようだった。 肩が大きく上下するほど盛大に息が漏れた。 彼は横目でそれを見て、いつも通り肩をすくめると、煙草を咥えたままオルガンのコンソール[*1]の前に座った。

「懺悔は聞けないが、愚痴なら聞いてやらないでもないぞ」

 と、軽口を叩きながらストップ[*2]を弄りだす。

「触るな。 調子が悪いんだ。」
「俺がみてやろう」
「できるのか?」
「ああ、ちょっとな」

 言いながら、彼は次々とストップを押したり引いたりしてマニュアルで音を鳴らしていった。 慣れたものだった。 祭壇の壁面を埋めるパイプが様々な音色を奏で出し、礼拝堂中に響き渡った。

「意外だな」
「殺人犯にオルガンなど弾けないと?」
「いや、そうじゃない。 ただ…」
「ただ? 貧しいアイリッシュには不要な教養だと?」
「違うっ」

 いちいち癇に障る言い方をする。 そんな知識人が何故テロリストなどに、と思っただけだった。 だが、貧しいか…と考え、それ以上の反論も出なかった。 彼の言いたいことは判る。 宗教的差別などもっとも愚かしい事だというのに、それが原因で戦争まで起こっている。 元は同じキリスト教なのに。 否、違う、元々ここヨーロッパはいろいろな差別でできあがっているのだ。 肌の色、目の色、髪の色、話す言葉、果ては信じる神まで。 自分はそれを、身に沁みて知っているではないか。 誰かを蔑まないと自身のアイデンティティが保てないのだろうか、とよく思ったものだ。 差別が格差を生み、格差が貧困を生む。 戦争の根源は正にその格差と貧困なのだ。

「バッハ?」

 過去、幾度となく繰り返した事柄を思惟していると、耳に懐かしい音楽が流れてきた。

「ああ、フーガのひとつだ。 知ってるだろう?」
「聞いたことがあるな」
「有名な曲だからな」

 バッハの「小フーガ ト単調」という曲だったか、と記憶を辿り、美しく荘厳なその調べに聞き惚れた。

「…上手いな」
「いや、随分久しぶりだからな。 指も足もよく動かないよ。」
「これでか?」

 感心した。 プロ級の腕だ。 これでまだまだだと言う。 本物のインテリゲンチャではないか。

「オマエにバッハを弾いてもらう日がこようとはな」
「はは」

 この教会のオルガンは、手鍵盤4段と足鍵盤1段からなる至極一般的なサイズのものなのだが、普段のミサの時にピアノ経験がある信者さんにボランティアで讃美歌の伴奏をお願いしている程度の使用頻度だった。 そんな訳なので、自分がここに赴任してきて以来、今ほど本来のオルガンとしての実力を発揮している姿を見たことがあっただろうか。

「なぁ…」

 オルガンでさえ、弾くべき者が弾けば真の音が紡ぎ出され、美しい音楽が奏でられる。 人も同じだ。 在るべき場所がある。 オマエはこんな所に居ていい人間じゃないじゃないか。

「なぁ、オマエはなぜ…」
「あ?」

 心地よい響きとメロディに、できればずっとこのままで居たい、という気持ちが湧き出ていた。 せっかく、ここまで話せるようにもなった。 警察に突き出すつもりもない。 そうだ、できればずっとこんな風に、友人のように…

「なぁ…オマエは何故、人を殺すんだ」

 だが、私は司祭だった。

「もう殺さない…決して」

 先程までの和やかな声音が、堅く強張った。 オルガンを弾く手も止まってしまった。 嗚呼、失うのだ。 微かに築き上げられつつあった信頼関係のようなものが、脆くも崩れ去ろうとしている。 だが、私はしなければならない。 それが責務だった。



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[*1]コンソール:演奏台。マニュアル(手鍵盤)、ペダル(足鍵盤)、スウェル・ペダル(増音器)、ストップ(音栓)などからなる。
[*2]ストップ:音栓。音色、音域を選択する装置で、あるストップを引くと、それと連結しているスライダーの穴を空気が通り、一定の音色、音域を獲得する。



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