死にゆく者への祈り

- A Prayer For the Dying -


2


「熱が下がったら出て行く約束じゃなかったのか」

 また雨が降っていた。 彼は、相変わらず傘を持たずに出掛けては、濡れて帰ってきた。 今日も雫を纏って現れた彼は、顰め面と共に投げつけられた嫌味に対して悪びれるでもなく肩を竦めただけで、脇を擦り抜けるようにして聖堂に入っていった。 そして中央通路の真ん中で犬のようにぶるぶるっと身震いをする。 銀の髪から真珠の粒が辺りに飛び、光を散らした。 それにまたしても目を奪われている自分にハッとする。 慌てて、何かに気付きそうになっている感覚を追い払うように自分もまたふるふると二三度頭を振り、モップを持つ手のを動きを再開した。 ちょうど掃除をしているところだった。
 一晩で熱も引き動けるようになった彼は、まだ左腕は不自由なようだったが、翌日の昼過ぎからもうフラフラと出歩いては、夜に戻ってきた。 どこへ行っているのか、誰と会っているのか、そんな事を詮索する気は毛頭なかったのだが、彼の動向は望まない形で他の者から聞かされていた。

「今日、警察への出頭要請がきて、行ってきた」
「ふーん?」

 彼の落した水滴の跡を追うように床を磨きながら後ろ姿に声をかけると、彼は足は止めたものの、さして関心も無さげに煙草を咥えた。

「ここは禁煙だ」

 彼は、今しも煙草に点火しようとしていたライターの火を止めて振り返った。 そして、火の点いていない煙草を何回か名残惜しげに咥え直した挙句に、ライターと共にポケットへしまい、肩を竦めて見せた。 どこか投げ遣りで無愛想な態度をとってはいるが、其処は彼となく育ちの良さが見え隠れする。 憎み切れない。 そう感じてしまう自分が訝しい。 そう日も経っていないのに、彼は殺人犯なのだぞ、と何度も言い聞かせなくてはならない自分が、どうにも儘ならなかった。
 署では、似顔絵画家を用意して刑事部長自らが待ち構えていたが、私はただ、何を請われても問われても「できない」としか言えなかった。 刑事部長は烈火のごとく怒って理由を問い詰めてきた。 前回は全面協力を惜しまないと約束したのだ、仕方がなかった。 そんな私に助け舟のつもりか一人の部下が訳知り顔で口を挟んだ。 「司祭が理由も言えず供述を拒むシチュエイションは、告解を受けた場合だけではないですか」と。 だが、それにさえも正とも誤とも言えなかったのだ。 「犯人にか?! 犯人が教会に来たのか?!」と更に湯気を上げた刑事部長は、「犯人逮捕への協力は市民の義務だ、できないなら逮捕してやる、教会の上の者に掛け合ってもいい」と息巻いた。 私は、せっかくの助け舟も火に油を注いだだけの結果に終わってしまった部下の申し訳なさ気な顔に苦笑して首を振りながら思った。 それならそれで構わない。 否、寧ろそうしてほしい、と。

「警察は、この町の裏の二大勢力間の抗争だと見ているらしい。 片方が殺し屋を雇い、片方のボスを殺させた、とな。 長年彼らを追い詰めようと躍起になってきたんだ。 この機を逃したくないんだろう。」

 現役か元かは知らないが、オマエがIRA闘士らしいことは察知してはいないようだったよ、と喉元まで出かかったが言わないでおいた。 警察に協力できないのに、彼に警察の情報を洩らすのは公平ではない。 が、ああ、だから警察の動向に然して危機感が無いのかと気が付き、「当たってるよ」と軽く応じる彼にも妙に一人納得をしたりもした。 自分の素姓が知れれば軍が動く。 彼にとってはそれが一番怖いのだ。

「だろうと思ったよ。 警察から帰ったすぐ後に、オマエの雇い主も来たしな。」
「……ここにか?」

 だが驚いた事に、口調は抑えてはいたものの、彼はかなりの動揺を示した。 先程の警察の動向に対する無関心さとは雲泥の差だった。 軍の他にも怖い者がいるらしい。

「なんて言ってきたんだ?」
「警察に何か喋ったのかとか、これからどうするつもりなのかとか、そんなところだ」
「やつら、俺が言ったこと、これっぽっちも信じちゃいないんだな。 で、何か狼藉を働いていったのか?」
「いや、今日のところは様子を窺いに来ただけのようだった。 弟の方はそうでもなかったみたいだったがな。」
「弟も来たのか?」
「そうだ。 兄弟そろって、部下も引き連れて、圧力を掛けに来たつもりだったんだろうな、あれは。」
「…」

 彼は、暫く無言で私の顔をじっと見下ろしていた。 少しだけだが彼の方が上背が高く、細身だが肩幅もおそらく彼の方が広かった。

「あの弟は変態のサイコパス野郎だ。 気をつけろ。」

 そんな事は百も承知だった。 彼は男女構わずレイプして殺し、その後始末を兄がしているのだ。 自分に関心を持っているのも知っていた。 司祭をレイプしたいとは、たいした信仰心の厚さだ。

「大丈夫だ。 あの兄はあれでも歴としたカソリックでな、教会と年寄りに対するマナーだけはいいんだ。 やたらな事はさせないだろう。」
「だがヤツもマフィアのボスだ。 それに、四六時中弟の首に縄を着けておくわけにもいかないだろう?」
「私だって大の大人の男だぞ。 おめおめと犯られたりはしない。」
「ははっ 腕白な神父さまだな」
「馬鹿にするな。 これでも軍に居た経験もあるんだ。」
「従軍神父だったのか」
「いや…」

 否、違う。 軍籍に居たのだ。 オマエの敵として闘った経験もある…。 そう喉元まで出かかって止めた。 シクリと背中の古傷が痛んだ気がした。 思わず前屈みになってモップに凭れる。 実際には完治している傷なので痛むはずはなかったのだが、時々こんな風に心的ストレスに引き摺られるようにして痛みが甦るのだ。 そんな自分を、何故か彼には知られたくなかった。 自分の触れられたくない過去とともに、彼には、彼にだけは、何故か知られたくないと思った。





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