死にゆく者への祈り
- A Prayer For the Dying -
1
当時のベルファストは紛争の真っ只中で、消火されることもなく燻ぶる家屋や爆破された煉瓦などの瓦礫の山が街中のあちこちに見受けられるような惨状だった。 彼は、大学で教鞭を執るほどの数学者にして玄人跣のオルガニストというインテリだったにも関わらず、大儀を信じ、その身をIRAのテロ活動へと投じた。 そこで天才的な射撃の才能を開花させ多くの戦績を上げた事が、彼にとって幸運だったのか不幸だったのか。 とにかく彼は生き延び、時の政府の正規軍から非正規軍、プロテスタント系義勇軍、果てはSASなどとも闘いながら遂にその日に至った。
ある日ある作戦で、彼はある爆破工作に携わった。 情報通りの道を情報通りの時刻に、遠く陽炎に霞む彼方からその車影が現れた。 2台の軍用トラックだった。 彼は遠く離れた物影に身を潜め、先頭車両が起爆トラップに近付くのをじっと見守った。 そして、その光景をその目に刻む事となったのだった。 1台のスクールバスが軽やかに走ってきて、前を走る軍用トラックにパッシングをした。 トラックは道脇に寄せて止まった。 小さなバスは2台を追い越した。 車内には子供たちの姿が見えた。 そして、茫然と立ち尽くす彼の目前で、その小柄なスクールバスは爆音と爆煙の中に消えたのだ。 麦の穂が風に波打つ、長閑な田園風景の中での事だった。
***
雨が降っていた。 男は傘もささず、コートから雫を滴らせていた。
「告解をしたいのです」
彼は私の目をまっすぐ見て、そう言った。 つい何十分か前、教会の墓地で殺人を犯していた男だった。 運悪く…だったのか、良かったのか…、止めの一発を撃ち込もうとしている男を呼び止めた私に確かに一回は銃口を向けたのだが、彼は撃たなかった。 そして、私が目前の死に瀕した者に臨終の祈りを上げさせているうちに、その男は消えた。 ”目撃者”を始末しもせずに。 何故、私も殺さなかったのだろう。 一瞬、死を覚悟しただけに、不思議でならなかった。 とにかく、すぐに警察を呼び、目撃者として全面協力を約束し、教会に戻った矢先だった。
「…」
体を引き身構えると、敵意の欠片も無いと言った笑顔で彼は笑った。
「お願いします、神父様。 どうぞ」
右手でドアに促された。 その顔を絶句して見上げ、息を呑む。 そんな私の顔を覗き込むようにして、彼はドアに導く動作を繰り返した。 礼拝堂の隅の懺悔室の前だった。
「…どうぞ」
諦めてひとつ深く溜息を吐き、今度は自分が彼に懺悔室のドアを示すが、彼は先に入ろうとはしなかった。 私が逃げるとでも思ったのだろう。 仕方なく、すぐ隣の聴罪室のドアを開けて入る。 陰鬱な気持ちが渦巻いた。 この薄暗い小部屋に入った途端、ズドンと一発撃たれるに違いない、口を封じに来たのだ、否、もしかしたら本当に罪を悔い改めたくて懺悔に来たのかもしれない、否、否、否…と。 だが不思議と、逃げようとは思わなかった。
腰高の位置に設けられた小窓を開け、金網で仕切られた向こうの薄暗がりを見透かすと、彼は既に跪き、小窓の縁で両手を組み合わせて額ずいていた。 雨に濡れた銀色の髪には細かい真珠の粒のような水滴が鏤められ、光の乏しい中でもきらきらと光っていた。 我知らず、それに目を奪われる。
「神のお導きで、謙虚に罪の告白を」
「告白します。 私は罪を犯しました。」
「最後に告白したのはいつですか?」
「ずっと昔です」
暗がりの中、小さな光の粒が時折転がり落ちる様を目で追いながら、私は式文を口にした。 告解は、粛々と進められた。 彼は、銃を取り出すでもなく、しおらしくさえありながら告白をした。
「何年も懺悔を怠りました」
「主はお許しになります。 …それから?」
この男が素直に罪を告白し、悔い、改めたいと望むなら、警察に自首するように勧めよう、一緒に出頭してやろう、そんな甘い筋書きが浮かんだ。 殺されることさえ覚悟した先刻の絶望感とは裏腹に、希望の光をこの男と見ている、そんな幻想さえ抱いた。
「私は罪を犯しました。 私は人を殺しました。」
「それは」
「ついさっき、この裏の墓地でですよ、神父様。 見たでしょう?」
「…」
「ところで、神父様」
素直すぎるくらいにあっさりと彼は罪を認めたが、それは罪を悔い改めたい者の口調では全くなかった。 ああ、私ではだめなのか、力が足りないのか、主の理想を実現するために少しでも役に立てればと日々努力を積み重ねてきたが、いったいどうしたら…と神に正しき道の標を乞うていると、彼が声のトーンを変えて逆に問いかけてきた。
「これって、正式な告解ですよね?」
「…もちろん」
問われている意味が解らなくて言葉に詰まると、彼は畳みかけるように本題に入った。
「たとえ何が起ころうと、今の告白は主と私とアナタの間だけのものですよね?」
「な…」
「絶対に誰にも明かしませんよね」
「お…まえは!」
私は聴罪室を飛び出した。 そしてすぐ隣の懺悔室のドアを開け、彼を外へと引き摺り出すと、胸座を掴んで揺すぶった。
「オマエは! それが目的だったのか!」
「うまいこと考えたでしょう?」
「オマエは、神を愚弄するのか?! オマエは神聖な告解を利用して、わ、私に…」
そうだ。 これは正式な告解だ。 正式で神聖な神への告白。 神と彼との間だけの告白を、私が代理人として聴いたに過ぎない。 それを一言でも私が他人に漏らすことは、これで適わなくなったのだった。
「約束しますよ、神父様。 これでアナタにはもう手を出さない。 誰もアナタを傷つけません。」
「くっ」
そんな事を望んでいたわけではなかった。 ただ、この哀れな罪人が正しき道へ導かれるようにと、ただそれだけを願って告解を聴いたのに、それをこの男は…!
力んでいた力が体からガックリと抜け落ち、落胆と共に彼の体を突き放した。 彼は押されるままに後退り、後ろの壁に凭れるようにして止まった。 そして、少し呻いて顔を顰めると、上目でこちらを見上げてニッと笑ったのだった。
・・・
何故、どうしてこのような罪人の為に、と憤慨しながらも、彼のために部屋を用意し、宿泊のための世話をやかなければならなかった。 遠路やってくる信徒の為の貸し部屋だった。 彼は傷を負っていた。 そぼ降る雨の中へ怪我人を追いやることが、どうしてもできなかったのだ。
「自首なさい。 それが正しき道でしょう。 それに、そうすれば適切な治療も受けられるはずです。」
「ええ、そうですね。 そのうちに…。 ところで、救急箱かなんかありませんかね。」
「だから自首をしなさいと」
「お願いします、神父様」
「…」
口だけで反省の色が見られないとムッとして睨みつけると、また彼の例の笑顔でもって反論は制される。
「弾がね」
しかも、まるで他愛のない世間話でもするような軽薄さだった。 そしてさっさと洗いたてのシーツに替えたばかりのベッドに腰かけると、さも億劫そうにコートから腕を抜いた。
「うっ痛ぅ、まだ抜けてないんですよね。 ちょっと診てもらえると助かるんですがね。」
「…見せてみろ」
うっかりチッと舌打ちしそうになったのを寸でのところで堪えた。 そもそも、告解をしたいだなんてなんと殊勝な、などとうっかり聞いてしまったのが敗因だったのに、いままた押し負けて流されている自分に苛立っていた。 だから、もう丁寧語も止めて唸るように低く促しはしたものの、シャツを脱ぐのに四苦八苦している彼を手伝わずにもいられなかった。 弾丸が入ったままの彼を放っておけなかったのだ。 過去の自分の経験がそうさせた。
「麻酔は無い。 これでも噛んでろ。」
タオルを胸元に押しつけるようにして渡し、黙々と手を動かした。 彼はおとなしくそれを口に咥えると、あたかも何も警戒していないというような背中を向けてじっとしている。 思わず溜息が洩れた。
「そんなに酷い?」
「まだわからん」
左肩、肩甲骨下部に弾創があった。 僅かだがじくじくと出血もしている。 骨で止まってしまったのだろうが、鉛弾を体内に放置しておくわけにはいかない。 取り出さなければ、とピンセットを掴む。
「あそこで銃撃戦になったようには見えなかったが」
ガーゼで患部を押さえながらピンセットを手加減なしで差し込むと、うっと微かな唸り声が漏れ、その背にぶわっと脂汗が滲んだ。
「あの時のじゃなくて…、っくぅ、べ、別口で、うっ」
「別口? 敵が多くてたいへんだな」
「大丈夫、アナタには…迷惑か、かけないよ…ううっ」
「もう十分かかってるから安心しろ」
「いや…ほんとに…は、ううーーっ」
こちらに合わせたのか砕けた喋り方になった彼は、麻酔も無しに肉を抉られる痛みによく耐えていたのだが、さすがにゼイゼイと息も荒く苦しげで、出自を悟られぬよう気を配る余裕も無かったのだろう、その口調にはきついベルファスト訛りがあった。 暗い過去が一瞬だけ頭を過る。 それを振り払うようにして手を動かし、ようやっと取り出した弾をベッドサイドテーブルの上に落とすと、カタンと硬質な音が響いた。 途端にふーっと長く深い息を吐き、頽れるようにベッドに倒れこもうとする彼を押さえる。 発熱していても不思議ではなかったが、血痕はなかなか落ちないのだ。
「待て。 寝転がるのは止血をしてからだ。」
「もう限界」
「もうちょっとだ」
できるだけ手早くガーゼを宛がい包帯を巻いた。 細身だが、無駄なく筋肉のついた均整のとれた身体つきだった。
「痛み止めだ」
「要らないよ」
そして望み通りその心身ともに疲れきっている様子の体を横たえた彼に鎮痛解熱剤と水の入ったコップを手渡そうとすると、うつ伏せに枕に顔を埋めたままもうこちらも見ずに突っ撥ねられた。
「飲んでおけ。 今夜は一晩中、熱に魘されるはずだ。」
「だってそれ、睡眠導入剤も入ってるんでしょう?」
「…」
信用できないと言うのか。 先程まであれほど無防備な背中を晒しておいて。
「売ったりしない」
「いてて…神に誓って?」
枕から顔を起こしてこちらを見上げると、ニヤリと笑う。
「神の名を軽々しく口にするな。 信仰心など無いくせに。」
「アナタこそ、ロンドンでカソリック教会って…いろいろたいへんじゃない? 俺みたいなIRA闘士なんかにも付け込まれちゃうし。」
「言うな。 それ以上、身元に関する話はしないでくれ。 名前も聞きたくない。」
「…ふーん」
彼は少し気分を害したようにニヤニヤ笑いを引っ込めた。 がその代わり、痛み止めと水をひったくるように受け取ると一気に煽り、今度こそベッドに身を沈めて二度とこちらを見なかった。
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