PEACE MAKER

-Colt, Single Action Army, Peacemaker-


9


「俺の名前は…」
「あなたのお名前は?」

 あなたの名前は?
 あなたの名前は?
 あなたの名前は?

「お、俺は…」

 判らないはずがない、自分の名前だぞ? 何故出てこない? 俺は…

『なにマダルッコシイことやってんだよッ!』

 パニックになりかけた時、突然遠慮の無い声が割って入ってきた。

『オマエッ いつの間に! あっちに行ってろ!』
『さっさとこっちから名前呼んじゃえばいいじゃんか!』
『自我が完全に不一致なのに、このままサルベージはできないと何度も』
『カカシ先生ッ』
『あッ こらッ』
『ナルト君ッ 君まだ怪我の手当て中だったんじゃないの?』
『もう直ったってばよ おいッ カカシ先生、カカシ先生ってば!』
『摘まみ出せ!』
『おい、カカシ! いつまで寝てんだ?』
『そうよ、カカシ 早く起きなさいよ』
『オマエ達まで! 今までの苦労をなんだと思ってるんだー!!』
『綱手さま、落ち着いて!』

 頭の中に直接響いてくるかのようなその声達の捲くし立てる会話に、少しの間ぼーっとなりながらも、その中に聞き覚えのあるものが混じっていることに気付いた。 あのフェネック狐と白い毒蛇だ。

「なんのつもりだ? オマエ等、フランス軍じゃないな!」

 叫ぶと、声達がシンと沈黙した。 俺が”カカシ”だって? あの”カカシ”? どこから彼の恋人の情報を得たのか知らないが、よくもそんな…  そこまで考えた時、愕然としている自分が居た。

「…イルカもそこに居るのか? 居るんだな? どうなんだ?!」
『……居る』
「やっぱりか! 最初からグルだったんだな! いったい何処の国の」
『カカシ』

 それまで一斉に喋っていた大勢の声は息を顰め、あの蛇の女の声がまた自分をそう呼んだ。 気がつくと、回りは薄暗い闇と靄の中だった。 上下も左右も解らない空間に自分は浮いていた。

「ここはどこだ?! 俺に何をした?!」
『カカシ、落ち着け』
「俺はカカシじゃないッ!」
『オマエはカカシだ。 そこはオマエの夢だ。』
「バカな!」

 声は上から降ってくる。 きっと元居た世界は下だ、と直感すると同時に体が落下し始めた。

『カカシッ カカシ…… だめだ、失敗した…』

 声が遠くなってゆく。 落下感に身が竦み、膝を抱いて丸くなりながら心までもが硬く何も通さない殻に篭っていくのを感じていた。 そうしてどこまでもどこまでも落ちていった。 だが、一向にあの砂漠は見えてこなかった。 もしかしたら、もうあの世界には戻れないのではないだろうか? 自分はきっと、あの世界に居た時の記憶を無くし、イルカのことも忘れてしまうのではないだろうか? 恐怖と悲しみに幾許かの後悔を覚えたが、心のどこかで「もう一回やり直したい」という気持ちも湧いてきていた。 別の自分になって別の世界でもう一回やり直したい。 きっとイルカはまた来てくれる。 そうしたら”今度こそ”彼と誠実に付き合おう。 強姦から始めるなんてこともなく、”今度こそ”大事に大事に、愛して…
 今度こそ、今度こそ… そう思う度に胸が張り裂けそうに痛んだ。 取り返しのつかない過去に目を瞑り、もっと膝を引き寄せて小さく小さく丸まって、どこへとも知れない闇の底へ唯落ちた。 あの大勢の声の中にイルカの声は無かった。 きっと銃の傷で死に掛けてるんだ。 もう来てくれないかもしれない。 もう取り返しがつかない。 俺は一人だ。 俺は…

 !

 手が…


 誰かが右手を握っていた。 ぐいとその手が自分を引き上げた。 一瞬だった。


               ***


「戻った…?」
「奇跡だ」
「綱手さま、早く!」
「おうッ」

 火影五代目綱手姫が、ぼやけた視界の中で何かの手印を素早く結んで何かの咒を唱えると、それまでふわふわと浮遊しているようだった体に急に重力が戻った。 ずしりと重くなった体は硬直していた。

「カカシッ さっさとシールドを解けッ! 治療ができんだろう!」
「それからイルカの左手を離せッ ヤツを死なせたいか!」
「歯ぁ食い縛れぇ!」

 これは全て綱手が続けさまに叫んだ内容である。 歯を食い縛る暇など無かったし、だいたい体が硬直しているのだからできようはずもなかった。 だが彼女の右が見事に左頬にめり込み、奥歯が2本ほどイカレタ気がしたが、お蔭で自分のすぐ右隣のベッドに意識無く横たわるイルカの姿を目に収めることができた。 強張った自分の右手がイルカの左手をしっかりと掴んでいた。

 イルカ…!

 声も出なかったが、根性で右手の筋肉を弛緩させた。 彼はあっという間にベッドごと部屋から連れ出されていってしまった。 途中、腹に幾重にも巻かれた包帯に血が滲んでいるのが見えた。

「ちぇーッ 俺がやりたかってばよッ ズリィよ綱手のバァちゃん!」

 左側で残念そうな声が上がったが、もちろんそちらを振り向いてその糞生意気な顔を拝むことは叶わなかった。 見ていたら、その両の耳と右手と左足先を覆う包帯も、目に入ったことだろう。


               ***

               ***

               ***


 十日ぶり、いや、もう2週間か? とにかく久しぶりに帰った我が家は、どこか埃っぽかった。

 腹の穴は綱手の治癒力でとっくに塞がっていたが、毒の方はまだ治療途中だった。 体がフラフラする。 でもまぁ、歩けない程じゃない。 カカシが1ヶ月間持ち堪えた毒というかウィルスは、遅効性かと思われていたがイルカに感染して初めて、とんでもなく即効性の直ぐにでも死に至るものだと解った。 感染力は低かったが体液を通して容易にうつり、患者が自分の最期を自傷行為で終らせようとすることから、医療関係者への広がりを狙ったものと推測された。 要するに、木の葉の五代目、その人を狙っていたらしいと、そう結論されたのだった。 だから、今回のカカシの取った非常に手間を掛けさせられた防御行為も、咄嗟の判断とは言え流石だと、上の者達を一様に納得させてしまった。 だが、今回最も功労者であるはずのイルカは、一人茅の外に居た。 排除されたのではない。 そこに居たくなくて自分から逃げ出してしまったのだ。
 取り敢えず家中の窓を開け、空気を入れ替え、ハタキを掛け、箒で掃いた。 食器も出しっぱなしだったんだなと、2週間前の自分の慌て様を笑い、それを洗って片付けた。 溜まった洗濯物も全部洗った。 出た時はまだ梅雨だったのに、空はもう夏を思わせる青空で、暑かったが空気も幾らか乾燥していた。 庭中に洗濯物をはためかせ、やっと縁に腰掛けてふっと人心地つくと、途端に体が重くなった。 ゴロリとそのまま寝そべって空を見上げる。 青い空に白い雲がゆっくりと流れていくのを、ぼんやり眺めた。 あの砂漠の空には一片の雲も無かったな、と思い出していた。
 眠るのが恐かった。 解毒治療の途中で退院してきてしまったので、まだ影響がある。 気がつくと一人あの砂漠に居て、魘されて飛び起きた。 入院中はまだよかったが、今自宅で一人であの状態に陥ったら、元に戻れないような気がした。 深く寝入らないようにしながら夜を過ごし、積んであった大量の本を端から読み捲くった。 そして日が登るとまた家の掃除と洗濯をし、有り物で食事を作り、本を読んだ。

 そんな風に2日過ごして、帰宅後3日目の昼頃、その日の家事もあっという間に済んでしまいやる事も無くなってしまった自分の頭に浮かんだのは、やはりカカシをこちらから訪ねない訳にはいくまいな、ということだった。 カカシは自分より数日早く退院していたらしかったが、終ぞ自分の病室に彼の姿を見ることは無かった。 綱手の口から聞かされたところによると、「かなり怒っていた」という事だ。 とても行き辛く、手ぶらでは何だからと言い訳をして手土産を作ることにした。 そうやって一日延ばしにして段々疎遠になっていってしまうことを、実は自分は望んでいるのだろうか? ポツンと一人、古びた家の中で思った。
 食材は碌に無かった。 だが、今の体調で買出しに行って倒れでもしたらまた病院に逆戻りだと思い、冷蔵庫を漁る。 冷凍食材しか無かったが、筑前煮ならなんとかなりそうだなと思いさっそく鍋に放り込んで煮始めてから、お重を捜した。 両親が居た頃は毎年正月に使っていた重箱を何年か振りで取り出し乾拭きし、テーブルに置いてぼんやり眺めていると、グラリと体が傾いで焦る。 さすがに少しでも動作を緩めると眠気が襲ってくるようになっていた。 やっぱり薬だけでも貰ってくればよかったかな、と弱気になりかけてかぶりを振る。 これは、ささやかではあるのだが自分の、断固たる抗議の徴なのだから。
 また睡魔が来ないようにと、慌てて鍋に向き直り味付けをした。 後は煮込むだけと火を緩め落とし蓋をしたところで、グイと後ろに体を引っ張られ口を塞がれていた。

「俺は怒っています、イルカ先生」

 それが、戻って初めて見る、ベッドで死人のように横たわっていないカカシの姿だった。




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