PEACE MAKER
-Colt, Single Action Army, Peacemaker-
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彼の左手がクナイを持ったまま右から左に空を薙いでいく。 切っ先が朝日に光り、自分の目の前数cmの所を通過していくのがスローモーションのように見えた。 彼はその間にもう一回トリガーを引いた。 4回目だ。 あと2射。 次の次に引いた時もし撃発が起こったら、彼の腹に穴が開く。 イルカ、と叫び通り過ぎたクナイを避けるように左手を伸ばした。 が、すぐに切っ先を返したクナイが戻ってきて、自分はそれを仰け反って避けるしかなかった。 アレの切れ味は知っている。 触れただけでふっつりと皮膚が裂け、血が噴き出したのだ。 それを思い出し、体が竦んだ。 だが彼の方は淡々として動作を澱ませなかった。 撃鉄を起こすためにか一回銃を腹から離し、彼の親指が撃鉄のトップに掛かる。 ガチリと音がしてシリンダが回るのが目の端に映った。 あと1回。 イルカ! 彼の目が真っ直ぐ自分の目を捉えている。 瞬きもしない。 イルカ、やめてくれ。 クナイを持った左手が横に開いた瞬間に右手を突き出し、その手首を掴んだ。 もう恐いなどと言ってはいられなかった。 そのままグイと力任せに外側に引っ張り、左手を銃に伸ばす。 それでも彼は冷静だった。 またカチリと撃鉄が落ちる音が響いた。 最後のチャンスだった。 彼がその腹に銃口を押し付けたまま撃鉄トップに親指を掛ける一瞬前に、自分はそのシリンダをガシリと握ることができた。 一瞬遅れて彼が撃鉄を引き起こそうとしたのがシリンダの回転運動となって伝わってくる。 フレームごと強く握り締めそれを止めると、力いっぱい引っ張った。 彼の手から銃を取り上げようと…
この時自分はまだ、彼がどうしてそこまで銃に拘ったのか、解らなかった。 どうして6発目が残っていたのか、彼がどうしてそれを知っていたのかも、全く想像さえつかなかった。 きっと無い。 無いはずだ。 有ったとしたら、それは自分が数え間違えたのだ。 でもどちらにせよ、あと1発。 この訳の判らない状況も、それさえ安全に処理してしまえば収拾する。 それで何の憂いも無くなる。 そう信じて疑わなかった。
両手を外側に引っ張ったので、お互いの体が近付いて触れ合った。 状況は膠着していた。 体術に関しては判らないが、腕力は若干こちらに分があるようだった。 否、彼の体調が万全ではなかったのだろう。 彼は拘束から逃れようと諦め悪く身を捩っては腕を引こうとしたが、ただ自分の胸に何回か体をぶつけただけで終った。
「俺は絶対離さないッ 諦めろ、イルカ!」
そう叫んで彼の顔を睨むと、彼はハッとして初めて表情に感情を灯した。 それまでの何かに取り憑かれたようだった顔が、昨夜自分の腕の中で喘いでいた時のような頼り無げな顔付に戻り、だが一瞬だけ口惜しそうに眉根を寄せ唇を噛み、それから諦めたようにふっと力を抜いて、自分の胸に少しだけ体重をかけ頬をすり寄せてきた。 泣いていた。
「銃、離して」
何とか気を沈め、声を落として囁くように耳元で言うと、彼はまず左手の握りを緩めた。 ストンとクナイが砂に落ちて垂直に刺さる。 彼が、使い慣れた自分の武器を先に離したことへの違和感を感じることは感じたが、この時はまだ深く考えなかった。
「銃を離して」
もう一回若干力を篭めて言う。 気を抜かず、ぎりりと握ったままだった。 彼は、自分の肩より少し上に持ち上げられた右手を見上げ、ちょっと項垂れて手を離した。 そしてズルリとその場に座り込んだ。 自分は彼から少し離れると、銃を右手に持ち直して天に向けてトリガーを引いた。
ガウーン…
静けさを裂くように、銃声が響いた。 やっぱり有ったんだと、ショックだった。 もしこれを彼が彼自身の腹に向けて撃っていたら、そう思うとクラリと眩暈がした。 念のため最後の薬莢をエジェクトし、それがポトリと砂の上に落ちるのを確認する。 確かにそれは空薬莢だった。 シリンダも一回転させて薬室が全部空なのを確かめてから、今度こそ唯の鉄の塊となった銃も捨て、よろよろと二三歩歩いて自分も砂の上にどっと腰を下ろした。 極度の精神の緊張と何時になく激しく動いたことによる筋肉の緊張が一気に緩み、暫らく動く事はできそうもなかった。 はぁっと長く溜息を吐き天を仰ぐ。 それは、すっかり日が昇りきって青一色に澄み渡った、いつもの砂漠の空になっていた。
「まったく… どうしてこんな」
若干落ち着きも取り戻し、溜息と共に視線を彼に戻す。 彼から事情を聞かないことには何も始められない、と思ったが、グッタリした体が立ち上がって彼の所まで行くのを拒んでいた。 彼は、いつの間にかさっき自分が捨てた最後の空薬莢の側に座り込み、食い入るようにじっとそれを見下ろしていた。
「今度こそ、もう弾は無いよ。 ちゃんと確かめた。 それは空だし」
「…これ、いただいていいですか?」
「別に…いいけど、熱くない?」
「はい」
彼はにっこり笑って頷いた。 どうして今そんな風に笑うことができるんだと苛立ち、いきなりこんな事をした理由を問い質そうととしたのだが、その空薬莢を拾った彼の顔に言葉が詰まった。 彼は、それを握って立ち上がると、それはそれは切なそうな泣きそうな顔をした。
「イルカ?」
「俺、あなたを待ってます」
「待ってるって…どこで?」
「必ず還ってきてください」
「帰るって、どこのこと言ってんの?」
「諦めないでください」
「なんのこと? どこ行くの?」
また不安に苛まれ、慌てて立ち上がろうとして彼に押し止められる。 体はまだ重かった。
「ちょっと水を飲んできます」
「…」
彼は、あのなんとも言えない微笑を浮かべてそう言った。
「無線、直してください。 そして助けを呼んでください。 必ず」
「直すけど…」
自分の答えを聞いて、彼はまた微笑んだ。 そして踵を返した。 自分はそれをぼんやり見送った。 だって、弾薬はもう無い。 食料も、飴玉も、水筒の水も…
「イルカ?」
まだはっきりとは判らなかったが、何かの符丁に足が重い体を起こした。 彼が自殺を図ったとするなら、なぜ彼自身の武器には目もくれないのだろう。 なぜ、自分が持ち込んだ物ばかりに執着するのだろう。 立ち上がると、彼の頭が砂丘の向こうに隠れるところだった。
「イルカ! ちょっと待ってっ イルカ!」
叫んで走り出したのは覚えている。 その後すぐ、聞こえるはずの無い音を聞いたような気がした。 それからのことは靄の中、揺れる地面、自分の呼吸音、そして、果てしなく続く砂丘、砂丘、砂丘。 彼はどこにも居なかった。
・・・
気がつくと、星が出ていた。 いったい何時間ぼんやりとしていたのだろう。 すっかり日の落ちた砂漠は急激に冷え込み、その寒さに背筋がぶるっと震えて正気に戻ったようだった。
「イルカ」
知らず呼んでしまってから後悔した。 彼の居ない事実が容赦なく認識された。 あの金髪の子供が飛行士を残して去った時も遺体は無かったんだったな、とどこか他人ごとのように考えている自分がおかしかった。
轟音が尾を引くように暫らく響いて消えた後、銃を捜した。 自分が捨てたはずの場所に銃は無かった。 砂丘を越えて井戸のある場所に行くと、あの石垣がそっくり無くなっていた。 銃は井戸の脇に落ちていた。 バレルからはまだ煙が上がっていた。 ローディング・ゲートを開けて確認すると、空の薬莢が一つだけ入っていた。 これを欲しいと言ったくせに嘘吐きだな、と内心で彼を詰った。 まだ熱いそれを手に取り握り締める。 掌に少し火傷を負った。
無線の修理をしなきゃ、とフラフラと墜落した飛行機の所まで歩いた。 修理中、その火傷の傷が時折引き攣れて、その度に胸が引き絞られるように苦しくなったが、それには目を背けてただ黙々と手を動かした。 夕方、それまでザーザーと砂嵐のようなノイズばかりだった音が、突然人の声になった。 ポルトガル語の歌のようだった。 たしかファドというのだったな、と思い出し、涙が零れた。 そしてやっと、自分は泣く事ができた。 彼が消えてから半日以上が経っていた。
一頻り泣いて落ち着くと、”この世の中で一番美しく、悲しい景色”というのを捜そうとした。 だが、実際に自分の涙で滲む瞳に映るのは、どれも同じ砂丘の連続と、幾千幾億の星の瞬きだった。 自分はあの飛行士のように、彼の倒れるところも見ていないし、毒蛇も見ていない。 だって彼は、銃を使ったんだもの。 彼のベストにはあのミスリル銀が仕込まれているんだし、接射したとしても貫通はしなかったかもしれない。 ちょっと肋骨に罅が入ったくらいで済んだかもしれない。 で、どうして今自分の隣に彼が居ないのかと言うと…、言うと…、そうだ、きっと彼はまたあの石垣の上に座っていて、石垣がどうしても元居た場所に戻らなければならなかったので、それと一緒に行ってしまったのかもしれないじゃないか…。
…でも、行ってしまった。 行ってしまったんだ。 バカな妄想で自分を誤魔化した後、最後の弾丸くらい自分用にとっておいてくれたってよさそうなもんなのにと彼を恨んだ。 彼は何もかも奪って行ってしまった。 自分は一人、取り残された。 彼は…
彼は、どうしてか気力を萎えさせる食べ物とか水とか、手っ取り早く自殺できる銃とか、そういった物全てと、彼を想う切なる気持ちを自分から奪って行ってしまった。 なので自分は、僅かに残された命の井戸水と、最後の薬莢と、そして無線機の修理という仕事に縋りついた。
・・・
ザザ、ザザザーっというノイズ音に人の声が混じらないかどうか耳を澄ませながら、注意深くチューニングをしていく。 星の位置と太陽の高さから現在位置を割り出そうと取り出した自分の手帳には、いつの間にか自分のものではない筆跡で緯度と経度の計算式が、びっしりと書き込まれていた。
「遊んでたんじゃなかったのか」
彼は教師だったな、と思い出し、また少し涙ぐみそうになるのを我慢する。 もう一日か二日掛かるところを、彼のお蔭ですぐにも救援を呼べそうだった。
待っている、とそう言った。 彼はきっと、先に行って待っているんだ。 だから俺は還る、なんとしてでも。
慎重に自軍の使っている周波数帯に併せて摘まみを捻っていくうちに、ノイズの間に一瞬だけそのノイズが止む場所を見つけることができた。 そこからは、懐かしいフランス語が聞こえてきて、慌ててマイクを握る。
「メイデイ、メイデイ こちら連合軍北アフリカ戦線サルジニア島アルゲーロ基地偵察隊所属、”砂漠の鷹”。 1週間前に偵察任務中敵機に遭遇、撃墜された。 至急救援を求む。 メイデイ、メイデイ、こちら…」
「……ら北アフリカ戦線コスタ・デル…基地指令本部、こちら北アフリカ戦線…」
時折ノイズで途切れながらも、通信は繋がった。
「メイデイッ メイデイッ おいッ 聞こえてるか?! メイデイ、メイデイ!」
「…だ、聞こえている。 緊急救難信号は受け取った。 所属と階級、指名、現在位置を言え」
「こちら連合軍北アフリカ戦線サルジニア島アルゲーロ基地偵察隊所属、フランス空軍×××少佐、現在位置は」
「失礼しました少佐。 申し訳ありませんがお名前をもう一度」
「俺は…」
「お名前は?」
俺の…名前……
俺の名前は?

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