淋しい兎は狼にその身を捧げ [番外 2]
- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -
38
- 英照 -
「なんでイルカに酷いことを!」
「シキミ、出てくるなと言ったろう」
「コウさんは黙っててください。 この人は約束を破った。 もうイルカに手は出さないと言ったのに!」
「あなたが、あの海野樒…。 なるほどよく似ている。」
『****!』
「真名は呼ぶなよ」
コウは獣の声で雄叫ぶと、今は”英照”と名乗る者からその姿を隠すように樒の前に立ちはだかった。 だが英照は気色ばむこともなかった。
「今は英照だ」
「それも許せない! あの英照さんを!」
「シキミ、前へ出るな。 コイツは昔から手が早くて有名なんだ。」
「コウ、私は誰彼構わず手を出している訳ではないよ」
「どの口がそんな事を! シキミに手を出したら殺す。」
「コウさん、今はそんなことどうでもいいっ」
「確かにその人は特別のようだ。 しかし、イルカの方が百万倍かわいい。」
「な…!」
「!」
コウと樒は呆れたように英照を見た。 英照は涼しい顔をしている。 だが、樒の方は掌を返したように相好を崩して、剰え一筋涙まで流した。
「ありがとう…」
「おもしろい人だな」
「手は出すなよ」
・・・
「約束を破ったつもりはない。 イルカは確かに抱いてきたが、私だとてこのままではちょっと辛いのだ。 あの綱手姫は確かに敵には回したくないお方だな。 おかげでせっかく戻ってきていた力が半減してしまった。 イルカには悪かったが、餞別だと思って許してもらおう。」
「何を勝手な。 カカシが居るのにどんなに辛かろう。」
「そうですよ」
コウと樒と、二人は相変わらず英照の所業を罵ってはいたが、最初のような険悪なムードはもう無かった。 元々樒が一人で怒って興奮していただけなのだから、その樒がこの英照を信頼してしまっては、もうどうしようもない。 樒はそういう所が本当に危ういと、コウはいつもハラハラさせられていた。
「無理矢理契らなかっただけでも褒めてやろう」
「無理には契れないと、知っているだろう?」
「俺は無理に契ったことが無いんでな」
コウはそう言うと樒の腰を抱き寄せた。
「ああ、羨ましい。 私もイルカを連れて、そんな風にラブラブに旅をしたかった。」
英照は溜息を吐いて二人を眩しそうに見た。 だがコウは、英照を置き去りにして樒に接吻け始めた。
「ん、コウさん、今は…」
「おとなしくしていろ。 あんな風に興奮するから溢れてきている。 余計な妖魔を集めてしまう前に少し吸ってやる。」
弱く抗うように肩を押す手を掴み言い聞かせると、コウは樒を強く抱き締めて一頻り深く接吻けた。 樒は固く目を閉じて戦慄きながらそれを受けていた。 口を離した時は、どこかぼーっとしたようにコウに凭れ、しばらく目の焦点も合わないようだった。
「たいへんそうだな」
「別に、慣れている」
英照の感想に簡単に答え、尚も時折ちゅっちゅっと唇を啄ばんでいるコウを見て、英照はまた溜息を漏らした。
「はぁ、羨ましい」
「イルカを諦めて余所を探せ」
「そういう訳にいかないのも、知っているだろう」
「…」
それには答えず、コウは英照に向き直った。
「それで、イルカに何をしてきたのだ?」
「ああ」
とまた溜息を吐く。
「あまり話したくないな」
「樒がぼんやりしている今のうちに白状してしまえ」
「はぁ…」
・・・
英照は、イルカの身体を受胎可能に成るように細工をしてきたと話した。 もちろん、完全に女の身体にすることなどできないが、一回だけなら何とか子を身籠り産めるくらいの仮腹を作ってきたと言う。 イルカを抱いたのも、それをするには若干力が足りなかったからだと言ったが、まぁ理由の内の半分くらいだろうな、とコウは理解した。 それでも、完全に自分の思い通りにしてしまわなかっただけ、この妖魔にしては僥倖だった。
「そんな事ができるのか?」
「おまえには無理だろうが、私にはできる」
「そう言えば、人間の女を手当たり次第孕ませては子を産ませていたな。 イルカも同じではあるまいな?」
「イルカは特別だと言ったろう。 それに男を孕ませたのも初めてではないぞ。 それが今回は役に立った。 だが、その子らも皆、今はもう居ない。」
「大蛇丸が殆ど捕まえて実験に使ってしまったらしい。 聞いているか?」
「否、大蛇丸という奴も知らん。 木の葉が里としてやっているのかと思ったが、違ったのか? それもあって木の葉にはなるべく近付きたくなかったんだが」
「木の葉の火影も気付かぬ裡に、人間と動物、妖魔との合成・融合を試していたらしい。 大蛇丸は最終的に自身の体と大蛇の妖魔を融合させ超能力を得るために試行錯誤していたのだ。 おまえの子孫のどれかが今、奴の一部になっているのだろう。」
「まぁ、この世界の弱肉強食のシステムの上位に今は人間が食い込んでいるのだ、仕方がないが、こんなに衰退しているとは思わなかった。 祠から解放されてからあちこち捜したが、本当に居ないのだ。 実験対象にもならなかった弱い子は、他の妖魔の餌食になってしまったのだろう。 イルカとの子は何としてでも育って欲しかったよ、切実に…」
「そうか? だが、木の葉に1匹居るだろう?」
「ああ…、あの子は融合体だ。 あの斉場カズキとかいう男と同様にな。 その大蛇・某の実験体の生き残りなのではないかな。 もう私の一族とは言えぬ。」
「冷たいな」
「そう言うな。 子孫を残すには純血であることが重要なのだ。 融合体では最早、人間とも妖魔とも言えぬではないか。」
「イルカとの子はイルカの遺伝子を継いではいなかったのか?」
「あの子は特別だ」
「…」
「何だ?」
ご都合主義だな、と思っただけだ、とコウは口には出さなかったが、顔が笑ってしまったようだ。
「その大蛇なんとかは、もう木の葉には居ないのか?」
「ああ、その人体実験がバレてな、随分前に里を抜けた。」
「それからは、そのような妖魔狩りは行われていないのか?」
「恐らくな。 木の葉は例の九尾の一件以来、妖魔に対して過敏なほどの恐怖心を持っている。 里内に妖魔が居るというだけで大騒ぎだ。 俺達も外縁の森から中へ入ったのは今回が初めてだったんだぞ? もうこんな危険を樒に冒させるのは御免だからな。」
「感謝しているよ」
確かに、イルカに会ってこの妖魔は変わったと、コウは思った。 コイツから感謝などされる日が来ようよは。
「それでイルカは? 無事なのか?」
「人間だからな、完全に変化しきるまで暫らく熱なり出て苦しむかもしれないが、あの綱手姫が居るのだ。 大丈夫だろう。」
「まさか、そこに自分の卵を仕込んできたのではあるまいな」
「そうしてしまおうと、何度思ったことか…」
「してこなかったのか?」
「あの子の希は、カカシの子を産む事だ。 私は唯、それを叶えてやりたかっただけだ。」
男の身でそんな希を持ってしまうことに至ったのは、あの子に子を抱かせ続けてきた自分の責任でもあるしな、と英照はまた溜息を吐く。
「おまえにしては、また随分と殊勝だな」
「そうだろう? 他の男のために、この私がそんなことをするなんて! 信じられるか?」
「信じられん」
「だが、そうしてきたんだ…」
惚れた弱みというヤツだな、と喉元まで出かかったが飲み込んだ。 英照がまだ諦めていないという顔をしたからだ。
「あの二人、いつか別れるやもしれぬ。 そうしたら今度こそイルカを貰う。」
「まぁとにかく、暫らくはそんなこと有り得ないし、取り敢えず木の葉を離れよう。 手引きはする。 約束通り」
「助かるよ。 木の葉はもう懲り懲りだ」
「木の葉は意外と人道的な里だぞ」
「どこがだ。 イルカをあんな風に扱っておいて!」
「木の葉の長老に海野一族を目の敵にしている者が居るらしい。 今はそこまでしか判らんが」
「イルカの両親も迫害を受けていたのか?」
「迫害というよりも、あれはな、道具としてしか扱われなかったと言えるな。 イルカの父は悲惨な目に色々と遭わされていた。」
「ではイルカは幼くして父を失ったのか? それであれ程ファザーズ・コンプレックスなのか?」
「九尾禍の時だから12か。 両親共に亡くしている。 幼いと言えば幼いが、イルカのファザーズ・コンプレックスは別に理由がある。 イルカの父マサキは、九尾の対の相手として供されたのだ。 周囲には生け贄にされた事になっていたらしいが、最後にはカガリとして九尾と番ったらしい。 だがイルカは、父親が九尾の生け贄にされてしまったと思い込んだ。 それも自分の所為だと思い込んだのだ。 その所為で彼が変わってしまって母親が寂しく哀しい思いを長くしなければならなかったのも、全部自分の所為だと、思っているのだ。」
「なぜ?」
「マサキが九尾に供されたのが、自分と九尾との契約の時だったからだ」
「契約?」
「中和者と大陸一の大妖魔とが結ぶ例の契約だ」
「…! イルカが中和者? 嘘だ! それなら私は指1本触れられない筈ではないか。 私はさっきまでイルカを抱いていたのだぞ?」
「九尾が封じたのだ。 イルカが5才の頃例の契約をし、一旦中和能力を封じたらしい。 鼻の傷に気付いただろう? アレがそうだ。 強すぎる力は災いを齎す。 イルカの為にもならんと考えたのだろう。」
「なんと…」
さすがのこの大妖魔も、ショックが隠せないようだった。
「では、イルカが目覚めたが最後、私はもうあの子に触れることも近付くことも…何も…。 いや、そんなことよりも、中和者は最後には…」
「…どうなるのだ?」
「…」
やはり知っている。 これが、木の葉や、問題の真っ只中に居て焦っている巴の国の連中が目の色を変えて欲しがっている情報なのだろう。
「これからどうする?」
もう話すつもりの無いことを雰囲気で伝えてきた英照に、コウは諦めて問うた。
「そうだな…。 取り敢えず、足りない情報を補完して歩くことが必要なことは解った。」
「アクシズに行ってみるといい。 あそこは今、重要な情報が集積しつつある。 人間社会に妖魔として生きている変わった奴もいるしな。」
「アクシズ? 南方の軍事国家ではないか! あまり物騒な所には行きたくないなぁ。」
「イルカに、いや、海野家に関する情報を血眼になって集めているという話しだ。 それでも嫌か?」
「…それは、カガリに関する情報と取っていいのか?」
「いや、どうも違うらしい。 海野家オンリーだ。」
「人間が何故カガリの一族の情報など欲しがる?」
だいたい、カガリが遺伝するなどという話は、この私でさえ初めて聞いて驚いたのだぞ、と、この千数百年は生きているという大妖魔は大袈裟に肩を竦めてみせた。 最近の情報に疎いというだけで、この妖魔の持っている情報は馬鹿にならない。 それ故に木の葉も今回のような荒業に…。
「例の穴が、開いたからだ」
「…そうか」
英照は、それ以上何も言わなかった。
・・・
「コウさん、俺もコウさんの子供がほしい」
「聞いていたのか」
英照と別れてからすぐに、樒がポツリと零すように言ってきた。
「俺も子ができるように、あの人に…」
「絶対ダメだ!」
「…」
ぷぅと膨れた頬を掴んで、もうそれ以上言葉を継げないように口を塞ぐ。
まったく!
絶対に絶対に、樒からは目を離せない。
そう思ったものだ。
「淋しい兎〜」第34章の番外
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