淋しい兎は狼にその身を捧げ [番外 3]
- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -
39
- Methuselah(メトセラ) -
「シキミ、人間が居る。 行こう」
「はい… あ、でもちょっと待って」
人間の気配が二つ、近付きつつあった。 海野樒は、自分の息子や孫達が皆忍になり、チャクラと云われる力を自在に操ったり気配を探る事に常人よりずっと長けた者になったのだから、そういう資質はあるのだろうが、何十年経った今でも少しも気配を識別することに慣れなかった。 実際、気配そのものには敏感らしく、器用に化けた人変化の妖魔と人とを見分けもした。 だが、一向に固体識別をしない。 しかも直ぐにその気配の方へフラフラと近付いて行ってしまう傾向にあり、いつもハラハラさせられた。 この自分の気配でさえよく間違えて、他の妖魔に警戒心無く近付く事も稀ではなかった。
「シキミ」
気配のある方をじっと覗い動こうとしない樒に焦れて再度名を呼ぶが、既に足は藪を掻き分けてそちらへ向かう途中だった。 人間でも妖魔でも、樒を一目見ると目の色が変わる事が殆どだったので、喩え相手が誰であろうと樒の姿は極力見せないことにしていたのだが、今その気配の内の一つがあのカカシである事が早くから判っていたので、余計に会わせたくなかった。 だが、気配のもう一つの方、小さな子供の姿を見止めた時の樒の零した言葉を聞いて、コウも諦め共に藪を分けた。
「イルカ…」
それが、あの海野イルカの事を呼んでいるのではないことが判るのは、多分自分だけだと知っている。 樒が人間を捨てる時に一緒に捨ててきた自分の息子、海野楓の事を言っているのだ、と。 彼の手を取り、彼がよく理解しないまま彼と契りを交わした、それは自分の罪なのだが、樒は百年間ずっと自らを責め続けている。 おまえの所為ではないと、何回言っても認めようとしなかった。 息子を捨てた父親だと、心に刺さった抜けない棘のように、その悔恨の情はこれからも永遠に樒の中に有り続けるのかもしれない。
自分はだが、樒を人間界から連れ出した事に関しては、塵ほども後悔していない。 カガリの中でも特異な海野一族の、その海野の中でも樒は特別だった。 数回交わるだけで餓えは満たされ、軽い身体の損傷ならたちどころに癒え、妖魔としての位階が上がった。 だが何よりもその性質が、他とは比べようも無く得難かった。 初めて森で樒に遭遇した時は、できはしたがそれまでの何百年間決してしようとしなかった人変化を、矜持を枉げて行なった。 恐がらせたくないと思ったのだ、心から。 他のカガリには数回出会った事はあったが、こんな気持ちになった事は初めてだった。 樒は、初めから自分が妖魔だと判っていたらしかったが、多少の怯えを滲ませはしたものの、嫌悪の情も拒否の意思も臭わせず、逃げようともしなかった。 そして穴の開くほど自分を凝視した。 もしかしたら、自分に抱きこまれ接吻けられるまで、否、自分の雄でその身を貫かれ身も世も無く喘がされるまで、状況を正しく認識していなかったのかもしれない、と今も思う。 そんな樒だから、今までの百年間も今も、そして多分これからもずっと、自分は樒から一時も離れられない。 樒の自分への気持ちを信用していない訳ではないのだが、心配で堪らないのだ。 もう自分は、樒無しでは生きてはいけないのだから。
それに、海野の者に対しては、妖魔だけではない、人間も、それも権力の座に在る者、或いはそれを欲する者ほど彼らに惹かれる傾向にあった。 そういう者が実は求めて止まない心の安寧を彼らが齎してくれると、本能で知っているのかもしれない。 樒をあのまま人間界に置いておく事など、到底できなかった。 実際、連れ出す寸前の悶着は、忘れたくても忘れられない。
・・・
「おまえ、男は初めてか」
初めて樒を抱き締め接吻け組み敷いた時の事を思い出す。 殆ど抵抗らしい抵抗がなかったので男に抱かれ慣れているのかと思ったのだ。 だが余りに反応が初心なので訝しく問うと、焦ったように頷きを繰り返された。
「なら何で抵抗しない? 俺が妖魔だと判っているだろう? このまま犯されてもいいのか?」
「て、抵抗、してるんですけど、これでも…」
そう言えば頻りにあちこち掴んだり引っ張ったりはされたかもしれない。 何と非力な。
「恐いか?」
樒はコクコクと細かく顎を何回も引いて肯定を表した。 恐がらせたくないと思ったのに、と血が昇っていた頭が若干冷えた。
「嫌か?」
半分諦めて問うた。 拒否されたら諦めるしかあるまい。 海野は無理矢理犯すと死ぬと聞いた。 それはできない。 この大陸一の大妖魔として、この地の妖魔達の決めた協定を自分が侵すことは憚られた。 だが、見ると樒は首を横に振っていた。
「いいのか?」
見間違いではないかと思わず確認していた。 だが樒はそれには答えず、じっとこちらを凝視すると逆に問うてきた。
「あなたこそ、俺が人間の男だって、判ってます?」
「当たり前だろう」
「え? 判ってて… それでも?」
「おまえ、海野だろう?」
「え、あ、はい。 前にどこかでお会いしましたっけ?」
「…」
男の身でありながら妖魔に犯されかけていると判っているとはとても思えない暢気な受け答えに、激しく脱力したのを今でもはっきり思い出せる。 樒は海野について何も知らなかった。 自分が他の人間とはどこか違うということは認識があるようだったが、引け目に感じこそすれ、それがまさか妖魔にとっての至上の宝だとは、思ったことさえなかったらしかった。 聞くと、人の間で軋轢無く暮らしていくためのあれこれが、事細かく慎重な戒めではありながらも他愛のない表現で家訓として顕され伝えられてきていたらしいが、それだけだと言う。 では、今のように妖魔に組み敷かれるまでは、どの”海野”も己の特異性を知らなかったということなのか。
「知りませんでした。 父も何も…」
「おまえの父親はどうしている?」
「神隠しに…」
「神隠しではない」
「はい、今判りました」
判ったと言いながら、だがやはり怯えも嫌悪も無いその表情に、一つの憂いが滲み出た。
「あなたに会って、判りました…」
「おまえを俺のモノにする」
「はい」
「いいのか?」
「はい」
「嫌でないなら、このまま抱くぞ」
そう言うと、樒は一瞬固まったが、やがてゆっくりと頷いた。
「本当にいいのか?」
やはりコクリと頷く。
「でも、恐いんだろう?」
「こわい」
ゴクリと喉を鳴らして一回視線を外すと、暫らく何かを逡巡する様子で俯き、またすっと視線を併せてきた。
「もしあなたに抱かれたら、多分俺は…、今の俺ではなくなる。 それが、こわい…」
「妖魔の俺のことは…」
「こわくない」
「男の身で男に抱かれることは?」
「それは…少し恐い。 でも、俺は…」
そこまで言うと樒は、訴える瞳で見つめてきた。 震える唇に接吻けると、恐る恐る腕が首に絡み、そして接吻けに答えられた。 その後自分が性急に樒の衣服を剥ぎ取り、その身体を貪ったのは言うまでもない。 一目惚れでした、と後で言われた。 その時の気持ちがあるから、今自分はこうして居られるのだと思う。
・・・
「イルカ…」
そこで樒は一回言葉を詰まらせた。
「イルカの、子なの?」
逆光で判らなかったが、側に寄るとその子の髪がふわふわとした薄い銀色で、瞳は碧いことが見て取れた。 それは紛れもなくその子をしかと抱き締め庇うようにしている男、カカシの容姿のそれだったが、顔付や雰囲気はあのイルカそっくりだった。
「驚いたな、あの大蛇の言った事は嘘ではなかったらしい」
樒にだけ聞こえるようにそっと呟くと、樒はポロリと涙を零した。
「あの子、死んだんだね」
そしてやはり自分にだけ聞こえるような小さな声でそう囁く。 あの子…、イルカのことか。 その声音に、どこか羨望の響きがあることも、自分にだけ判ることだと、哀しかった。
・・・
「シキミ、後悔しているか」
この問いを、もう何回繰り返したことだろう。 その度に樒を困らせている事も重々承知の上で。
「コウさんたら…」
眉を寄せて困った顔をする樒。 愛おしい。 腕を掴んで引き寄せる。
「後悔してるのはコウさんの方でしょ? 俺なんか…」
「バカ樒」
「コウさん」
むぅっと頬を膨らませて剥れる樒を抱き締める。 おまえ程のカガリは居ないと言うのに。
「一目惚れだったって、何回言えば信じてくれるんですか」
「何回でも」
何回でも聞きたい。
「淋しい兎〜」第36章の番外
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メトセラ【Methuselah】
[旧約聖書・創世記]アダムの息子のセツの息子のエノスの息子のカイナンの息子のマハラレルの息子のヤレドの息子のエノクの息子。ノアの祖父。創世記に記述された登場人物の中で最も長寿で死亡した人として、969歳で死んだと記述されている。このことにより後世、長寿の種族の代名詞としてしばしば使われるようになる。また彼の名前は洪水を意味する名前であると言われ、事実『創世記』の記述から計算すると彼の死の直後に洪水が起きたことになり、彼の死の時まで神は忍耐を持って洪水を起こさなかったという解釈が出来る。神の忍耐によって彼は最長寿となった。結局はノアの家族八人だけが生き残ることになる。また彼の信仰をノアが受け継いだとも考えることが出来る。
…出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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