淋しい兎は狼にその身を捧げ
- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -
36
一旦出てしまうと再度呼ばれなければ入れないそのイルカの家に、自分は十年間通い続けた。 最初は面倒だったその仕来りも、慣れてくるとイルカの柔らかい呼び声にすっかり安堵している自分が居る。 イルカは相変わらず節操なしでカカシは狭量だったので、二人は飽きる事無く喧嘩ばかりして過ごした。 途中、一回だけ完全に別れてみたりもしたが、自分だけはこの屋敷に変わる事無く招き入れられ、契約者以外の者から与えられる安定した空間にどっぷり浸かってだらしなく寝そべる幸せを噛み締めるという、貴重な体験をすることもできた。 イルカは十年経ってカカシの子を産んだ。
『唯でさえ40まで生きられるかどうかなのに、どうして寿命を縮めるような事をする』
イルカが身籠ったと判った時のカカシの喜びようは筆舌に尽くし難いものがあったが、自分はイルカを詰らずにはいられなかった。
『子を産めば確実におまえの命が削られるぞ』
「どうしてそれを俺に言うかなぁ」
イルカは苦笑して自分を見た。
「普通、あと五年くらいしか生きられないなんて、本人に言う?」
『カカシに言える訳なかろう』
「うふふ、そうだね」
おかしそうに肩を揺すって笑う様は昔のままだった。 イルカは少しも老け込まず、幼いほどの若々しさを保っていて、仕草も喋り方も相変わらず子供っぽかった。
「俺ね、ほんとは自分のために子供が欲しかったんだ。 十年前のあの時、カカシさんがあんまり喜ぶから言えなかったけど、ほんとはね、カカシさんと別れることになっても子供がいれば生きてけるかなって、そう思ってたんだよ。 カカシさんに直ぐに飽きられるって、そればかり考えてた。」
『おまえはエゴイストだからな』
「酷いなぁ」
イルカがまた苦笑いを漏らす。
『俺はカカシのことを一番に考える。 カカシは弱い。 おまえがもう直ぐ死ぬとは、とても言えない。』
「うん」
イルカが優しく撫で付けてくる。 この手を失うと思うと耐えられなかった。 カカシが耐えられるとは思えなかった。
「カカシさんて、短気で心狭くて我侭で、強くて奇麗で…、それにすんごくHだよね。 俺たちもう三十路半ばなのに、未だに俺、勘弁してくれって思うくらいだもの。 こんなに愛してもらえるなんて、ほんと思ってなかった。」
『元々一途な男なんだ。 ただその相手がなかなか居なかっただけで』
「俺、ラッキーだったな」
優しく優しく背を撫でていくイルカの手が、くっくっと肩を揺すって笑うのに釣られて微妙に振動する。 それさえも愛おしいと思うほど最近のイルカの衰弱は目に見えた。
『カカシも、おまえが弱ってきていると薄々気付いている。』
「え?そうなの? 俺別にどこも変わってないと思うんだけどなぁ」
『最中に直ぐに落ちるようになっただろう』
「見てるの?」
『ば、馬鹿者、おまえは相変わらずそういう事に無頓着だな』
「ふふ、でも今は子供ができたからだって思ってるみたいだよ」
『少しは控えるようになったか』
「全然」
イルカは盛大に腹を抱えて笑った。 そしてその後、ポツリと呟いた。
「でも、すごく気を使ってる」
『心配しているんだ』
「うん、わかってる」
イルカはまた背を撫でる作業を再開した。
「あの人があんなに弱いって、俺思わなかった。 あんなに情が深くて、あんなに甘えん坊で、あんなに…」
『おまえに依存している』
ちょっと手を止めて、ウン、と頷くとイルカは完全に手を止めて離してしまった。 淋しい。 これ以上ないほどだ。 近い将来、永遠にこの手を失うのだ。
「だから俺、子供が欲しかったんだ。 俺が十年前、子供さえいれば生きていけるって思ったのと同じに、あと5年カカシさんと一緒にいるより、それを少しだけ削ってもあと少なくとも40年は一緒にいてあげられる存在を残してあげたかった。 そうでなきゃ、あの人、俺の後追いそうだしね」
そう言ってイルカは、またフフフと笑う。
「俺ねぇ、あの時判ったんだよ。 自分を生かすのは抱き締めてくれる腕じゃなくて、抱き締めさせてくれる存在なんだなって。 だから、俺…」
遠くを見つめるイルカの黒瞳が哀しかった。
生まれた子は、銀の髪に碧い瞳だった。
***
カカシは幼い我が子の手を曳いて、あの妖魔の森を歩いていた。 柔らかい銀の髪は猫っ毛で、登頂で括るために男の子としては幾分長く伸ばされていた。 育つに随って面立ちがイルカに似てきた。 鼻に傷こそ無かったが、まるで銀の髪と青い瞳のミニ・イルカだと、よく言われた。 イルカに似て真面目で聡く、カカシに似てチャクラが零れるほどあったので、カカシは暇さえあれば忍術や忍具などの知識を教えていた。 そうしていると、遠い日の父の姿を思い出すことが多くなった。
「しっ 静かに。 イルカ、あそこをご覧」
子供が成人するまでは”イルカ”と呼ぶことはイルカが求めた。 子供が”イルカ”なら守ってやると、まだ腹に居る裡に妖魔達が約束した、と言い張ったのだった。 この子が一人前になったとあなたが認めたら、その時は父親のあなたがちゃんと正式に名付けてくださいね、とイルカに言われたのが昨日の事のようでもあり、遠い昔の事のようでもあった。
最愛の者と同じ名を持つ我が子を制して葉影に隠れ、そっと森の奥を指差す。 そこには巨大な白い虎と、若い男が立っていた。
「お母さん?」
「イルカ先生…」
呟きは同時に零れた。 男はイルカにそっくりだった。 走り出そうとする我が子を抑えながらも、カカシ自身駆け寄って抱き締めたい衝動に駆られた。 だが、男の隣に居る巨大な白い虎が実は妖魔で、昔、篝を伴ったその白虎を一度だけ父と見た記憶が急激に蘇ってきた。
「あれはお母さんじゃない」
「でも、でもお母さんそっくりだよ? お母さんっ」
叫んで葉陰から立ち上がるのを止められなかった。 白虎と篝がこちらを見ていた。
『イルカ?』
「ほら、僕の名前を知ってるもん、お母さんだよ、ねぇお父さん、近くに行きたい、お母さん、お母さんっ」
幼いながらも健気に耐えてきた我が子の気持ちは、カカシには痛いほど判る。 だが、篝を連れた妖魔には決して近付いてはいけないと、幼い頃父に教えられたカカシは唇を噛んだ。 その時、篝達の方がゆっくりとカカシ達に近寄ってきた。
『イルカ? イルカの子なの?』
「お母さん…じゃないの?」
我が子は近くでその篝を見上げて、違いが判ったようだった。 なるほど生き写しと言えるほどその篝はイルカに似ていたが、やはり慣れ親しんだ自分達には、どことは言えなくてもイルカとは違うと感じられた。
「お母さん…」
しゃがみこんで泣き出す我が子を抱き上げて一歩後ろに退く。 カカシも目頭が熱くなったが、眼前の者達から視線を外すわけにはいかいなかった。
『イルカは?』
『シキミ、関わるな』
白虎が人の言葉で篝を呼び止めた。 低い轟くような響きのある声だった。
『これで海野は完全に絶えた。』
『コウさん…』
答える篝の男の声も、懐かしいイルカの声にそっくりで、カカシは腕の中でヒクリと震える我が子を抱き締めた。 小さな手がカカシの首にキュッと縋り付いてくる。
『でももうちょっとだけ待ってください。 ねぇ』
と篝がカカシに問いかける。
『ねぇ、イルカは…』
篝の男はその先を口にしなかった。 ぎゅっと口を噤んで少しだけ小首を傾げ、いつまでもいつまでも自分達を見つめるその様。 知らず一筋だけ涙が頬を伝い、それを見た篝も涙を零した。
”愛してます、カカシさん”
リィンと今でも、その声だけは聞こえる。
だが首に纏わりつくのは、実在の小さな手
そして抱き締めることができる小さな体が腕の中にある。
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