淋しい兎は狼にその身を捧げ

- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -


35


 連れて帰るならイルカの家にと五代目に言われ、カカシは禄に挨拶も無しにイルカを連れて海野邸に帰った。 すっかり綱手に警戒心を抱き、毛を逆立てて威嚇するカカシに綱手ももうそれ以上は何も言わず、否、言う気になれず、落ち着くまで放っておくかくらいに考えて無罪放免してくれた。 イルカの身体には尋常ならざる変化が起きていたが、それを調べるべきだという最もな意見も、カカシはイルカが嫌がるからと無視した。

『異常だと思うがどうか?』

 他の忍犬に意見を求めてみても、彼らは若くカカシ至上だったので首を振るばかりだった。 何か軋むような不安が心の隅に巣食った。 この最後の狼の行く末とイルカとの未来を自分は憂える。 何か得体の知れないモノに縋りたいほどだ。 どうか憐れみ給えと。
 今はカカシの肩の上で揺られながら、先に見え始めた海野邸の噂の破邪結界の仄かな光を遠く臨んでいる。 恐らく人の目には見えまいが、ユラユラとオーロラのように揺らめいて海野屋敷全体を囲っているその結界の強力さと巧妙さは、綱手を以ってしても解析できない代物らしい。 イルカが結界術に長けているのも頷けるというものだ。 このような結界を代々受け継ぎ、維持してきたのだから。 妖魔だけを完璧に封じる結界。 海野の者は、この中だけでは普通の人間としての家庭生活を築いてきたのだろう。 妻を娶り、子を生し、その子を育ててきた。 そしてフラリと姿を消す。 嗚呼、憐れみ給え、カカシのために。


 おそらく自分はあの中には入れまい。 それをこの主人は判っているのだろうか、とパックンは少し身構えた。 カカシはイルカの後に付いてその垣の木戸に手を掛けた時、暫らくの間動きを止めてぼんやり何かを思い出す仕草をしたので、やれやれと思って気を抜いたのが油断だった。
『アチッ』
 態と大袈裟に痛がってコロンと主人の肩から降りる。 カカシはやっと我に返ったような顔をした。
『カカシ』
「あ、ごめん。 ここへはパックンは入れないか」
「いえ、入れますよ」
 振り返えり戻ってきたイルカが、木戸を挟んで顔を見合わせていた自分達の脇に膝を付く。
「真名を呼んで入れと言ってあげてください」
「真名…」
「パックン、じゃないんですか?」
 見上げるイルカをじっと見下ろし、いつまでも自分の使い魔を招じ入れようとしないカカシに焦れたのか、イルカは怪訝な顔をして首を傾げた。
「いや、そうだけど…」
 カカシはイルカと同じ目線になるまで蹲り、イルカの瞳を覗き込んだ。
「ね、イルカ先生。 英照を病室に入れたの、あなたじゃないよね?」
「はぁ?」
「あなたが招き入れたんじゃ、ないよね?」
「…違います」
 イルカは立ち上がった。 後を追うように立ち上がり、ムッとしてそっぽを向いたイルカの肩をカカシは掴んだ。
「カカシさん、何を言いたいんですか」
「あの夜あった事が知りたい」
「よく覚えてませんって何回も」
「嘘だ」

 何もイルカがやっと退院を許されこうして一緒にイルカの自宅に着いた早々、どうしてこんな喧嘩の種を蒔かなければならないのかと、我が主人ながら少々呆れる。 カカシにしてみれば、聞かずにはいられなかったのだろう。 その気持ちも判る。 イルカは、英照に犯され身体をいじられた事に関して、何とも思っていないようだった。 相変わらずの節操無しの部分がそうさせるのか、はたまた英照に対しては心を許しているとでも言うのか。 恨むでもなく、怖がるでもなく、カカシと綱手の会話から英照が逃げた事を知るや、あからさまにホッとした表情さえ浮かべた。 綱手の言うには、体内に今まで無かった器官ができているらしいということだった。 彼女は開腹して調べる事を主張したが、イルカはその綱手を突っぱね、医忍達の手を拒み、貝のように口を閉ざして説明をしようとしない。 今も、然も理不尽な言い掛かりを付けられ怒っている、といった風に頬を膨らませ、真っ直ぐカカシを睨みつけている。 この男には、真実指の先程も疚しい所など無いのだ。

「だって、いくらここに妖魔封じがあったって、あなたが入れてしまえば何にもならない。 あの夜だって」
「あの病院の結界は鎧戸式だったんですよ? 中には呼ばれなくても入れたんです。 人間の手引きが必要だったのは外に出る時で、俺は中に居たんですよ? 英照殿を逃がしたのは俺じゃありません。 だいたい俺、英照殿がいつ出たのかさえ覚えてないのに」
「でも、アイツに身体を許したんでしょ?」
「拒めなかったんですっ」
「拒めたはずだっ アイツはあんたが拒めばやらないってパックンが言ってた。 ねぇパックン」
『そ…』
「あの時はそうしなくちゃいけない理由があったんですっ! 俺も後で聞いたからどうしようもなくって」
「だから! その理由って何?! なんでなんにも言ってくれないの?!」
「だって、みんなして俺の身体いじろうとするから! 綱手様には弄らせるなって英照殿が」
「英照、英照って! あんた、ほんとはアイツに付いていきたかったんじゃないの?!」
「そ… そんなっ 酷いっ」
 イルカはまた座り込んで顔を覆った。
「酷いです、カカシさん…」
「だって…っ!」
 カカシも膝を着き、荒らげた言葉をなんとか抑えようとしているのか、数回深呼吸をしてイルカの肩に手を置いた。

 人に振っておいて聞きやしない。 まるで子供の喧嘩だ。 いつもはヤル気が無いのかと感じさせるほど鷹揚な態度を他人に取るカカシだが、イルカに対してだけ短気で狭量な上に容赦がなかった。 イルカもイルカでガキのようだ。 本当にアカデミーで子供を教えているのかと疑いたくなる。

「じゃあ、あなた、アイツに何されたの? 俺にも言えないの?」
「…」
 イルカは一頻り何も言わず、グスグスを嗚咽を漏らした。 カカシは必死に何か堪えるようにして、その震える肩を撫でている。 好き合っていることは間違いないと思う。 なのにどこかこの二人はおかしい。
「俺、あなたの身体の中に何か得体の知れないものがあるなんて、怖くて耐えられないんですよ」
「得体の知れないものなんかじゃありません」
 カカシがやっと抑えた声で、否、震える声でイルカにそう言うと、イルカは顔を上げてカカシを見た。 そしてボソリと小さな声で答えた。
「子宮を作ってもらったんです…」
「………はぁ?」
「子供が産めるように、してもらったんです」
「あ… アイツに?」
「そうです」
「アイツ、そんなこと、できるの?」
 イルカはコクンと頷いた。
「あなた、それ信じたの? あなたまたアイツの卵仕込まれただけじゃないかって、考えなかったの?」
「英照殿は嘘は言いません」
「言うよ!」
「俺には言いませんっ」
『おい、少しは落ち着け』
 二人してはぁはぁと肩を上下させ怒鳴りあう様を見て水を向けるが、二人とも自分の声など全く耳に入っていないようだった。
「どうしてそこまでアイツを信じられるの?」
 だがカカシは若干脱力し、呆れたように溜息混じりでそう言うと、イルカはイルカでまた膝の間に顔を埋めてしまった。
「別に、信じてくれなくていいです。 でも他の人には言わないでください。」
 特に綱手様にはと言い募り、子供っぽい仕草で手の甲や掌で頬の涙を拭う。
「この事は、ほんとは誰にも黙ってるつもりだった。 だって、どうせ信じてくれないだろうし、カカシさんだって、現に…」
 ううう、と暫し嗚咽し、それでも直ぐにクッと口を引き結んだ。 余程この件に関しては強い意志があるらしい。
「もういいです。 諦めました。 カカシさん、怒ると思った。 話さなきゃよかった。」
「俺はただ心配で、おかしな所は調べておいたほうがいいって言ってるだけじゃない。 あなたの意識が戻らなかった三日間、俺がどんな思いをしたか」
「おかしな所なんてありませんッ」
「おかしいでしょ! あんた男なんですよ?」
「だって俺、あなたの子が欲しいんだもんっ 俺をこんなにしたのアンタだ!」
 イルカはガバッと立ち上がってワナワナと身体を震わせて怒鳴った。
「カカシさん勝手だっ 俺を変えるとか言ってあんなに…」
 ぼろぼろっとイルカの目から涙が零れてきた。
「…あんなに俺のこと抱いておいて、俺がこんな風に独りじゃ生きてけないって思ってても、すぐ怒るし、話も聞いてくれないし、俺は唯、あんたの子が欲しいだけなんだっ!」

 咽び泣きながら支離滅裂に言い募るイルカに既視感を覚えた。 目の前でこれでもかと固く握り締められた拳が震えている。 イルカは一気に言いたい事を叫んだ後、しゃくりあげてまともに喋れなくなり唯泣いた。 カカシの方も呆然と立ち尽くしていた。 おまえの子が欲しいと言われ、そのために妖魔に子宮を作ってもらったなどと言われるような経験は、恐らく他の誰もしないだろう。 信じる信じないというレベルを超えている。 どう対応してよいかも、判らないに違いない。 だがカカシの反応は、やはりどこかおかしかった。

「それって、中にアイツの子蛇とかは居ないってこと?」
「い、いませ、んっ」
「あなたの中から、何かがあなたを食い破ったりしない?」
「そな、こと、し、しませッ」
「ならいいよ」
 カカシは嗚咽に咽ぶイルカの身体を抱き寄せた。 イルカは案外素直にカカシの胸に収まり、だが叱られていた親にやっと許された子供のように、その胸に縋ってワッ激しく泣いた。
「あなたが無事なら、俺はいいよ」

 そうだろうか? そういう問題だろうか? 相手の安全が至上だろうか。 人間の恋愛感情というものは、もっと複雑で打算的で、独占欲とか征服欲とか、その反対の献身とか信頼とか、もっと色々な感情や欲が鬩ぎ合い懊悩するものではないだろうか。 あの自身の幸せなどすっかり諦めたようなイルカでさえ、多分にエゴイスティックにカカシの子を望んでいる。 ただ淋しいというだけで、カカシの意思を無視する形で妖魔に身体まで変えさせてしまったのだ。

「だけど、あなたも無理しますね。 俺の子ってだけなら幾らでも他に方法があるでしょうに。 体外受精とか」
「そんなの嫌だっ」

 そうだ、これが正しい反応と言うものだ。

「でもそのためにあなたは高熱で意識不明だったんですよ? 何もそんな不自然に身体を変えなくても」
「俺は全然平気ですっ」
 イルカはまだ若干興奮ぎみだった。 認めてもらえない憤りなのか、求めて求めてイルカはかぶりを振った。
「だからって、そんな風にあなたの身体を誰かに何かされるのは、俺は嫌だ。」

 お…

「ご…めんなさい、でも俺どうしても」
「わかったけど、あなたはそうやって何かのために自分の身体使うのに抵抗無さ過ぎるよ」
「抵抗無い訳じゃ、ないですけど」
「優先順位が低すぎます」
「だって」
「もっと大事にしてよ」

 見ろ。 イルカの表情が明らかに違う。 もっと欲しがってやれ。 守りたいだけだなどと言うな。

「俺、別に蔑ろにしてるつもりはありませんよ?」
「でも、あなたこれからもそうやって、任務とかでもホイホイ自分の身体差し出しちゃうんでしょ?」
「俺の身体ひとつで済むんなら安いもんじゃないですか」
「安くないよっ 俺んだ!」
『おい』

 おいおい、欲しがれとは言ったがせっかくいい雰囲気だったのに。

「あ… あなたの、ですけど。 でも、今更じゃないですかぁ、俺なんか」
「前は前、今は今だよ。 今は俺のなんだから他のヤツには触らせないっ」
「だ、で、でも、くノ一だってそうやって任務、粉してるんですよ? いざとなったらそんな事!」
「そんなの、知ったことか!」
「カカシさん、勝手すぎます! さっき自分だって体外受精がどうのとか言ったくせにっ」
「そのくらい何ですか」
「俺は嫌だっ 精子一滴だって他の女なんかにやらないっ あんただって俺のだっ!」
「イルカっ!!」
 カカシは殴りつけるような勢いでイルカの項を掴み引き寄せると、掻き抱いて接吻けた。 イルカも初めこそもがいていたが、直ぐに自分の腕をカカシの首に回して激しく応え出す。 バカな連中だ。 最初からこうしていればよかったものを。 全く、犬も食わないとはよく言ったものだ。
『おいっ』
 若干強めに声を掛けると、二人はやっとこちらを見下ろした。
『入れてくれるのかくれないのか』
「あ、パックンごめん、今日は帰って」
『なんだと?』
「ごめん、パックン、またね」
『イルカ、おまえまで…!』

 手を振るイルカの頬が赤く上気していて色めいている。 仕方が無い。 この有名な結界の中に入る体験は、後日に譲るとしよう。 身体を自分の有るべき空間に転送させながら、この先何度でもその垣の木戸でこの二人に自分の名が呼ばれるように、と祈った。





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