淋しい兎は狼にその身を捧げ

- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -


33


「ねぇパックン、イルカ先生このまま目を覚まさなかったらどうしよう」

 病院の廊下は声が響いた。 ベンチに座ったきり根が生えたように動かず、膝に両肘を立て、その両手で顔を覆い、グズグズと悔恨の情と不安ばかりを口にするカカシ。 その手の指の隙間から漏れてくるカカシの呻き声さえ、微かに木霊させていく。

『熱が高いだけだ。 下がれば意識も戻る。』

 自分は霊獣だ。 カカシの召喚により実体化していれば、やはり人間同様、声帯を震わせて発音できるが、今のように霊体の時は、契約者であるカカシの意識にダイレクトボイスで話しかけるしかできない。 傍目にはカカシが延々独り言を続けているように見えるだろう。 火影五代目は英照捕獲を諦め、この病院全体に対妖魔封じの結界を自らの手で張った。 たとえ忍犬と雖も入れないのだが、一人、かけがえのないないモノを失う恐怖に心を震わせるカカシのために、自分だけがカカシに名を呼ばれることによって招き入れられ、だが実体化は許されずこうして唯の霊体としてカカシの傍らに居た。

「ねぇパックン、イルカ先生、またアイツの卵抱かされてたらどうしよう」
『取り出せば済む話だ』
「アイツでないと取り出せないかも」
『俺にはできないが、木の葉には他にも霊獣がいる。 誰かできる奴もいるだろう。』
「ねぇパックン、もしかしてイルカ先生、アイツと契りを交わしてたりしたら… 俺どうしよう…」
『イルカはそんな事はしない。 イルカを信じろ。』
「でもだって、アイツが強引にやったかもしれない」
『強引に契ることは出来ないと説明しただろう。 イルカが拒めば旨くいかず、イルカもだがアイツも唯では済まない。 そんな冒険はしないはずだ。』
「でも、イルカ先生、拒まなかったかもしれない、アイツと行くことにしたかもしれない…」
『どうしてそうイルカを信じられないんだ? 俺はイルカを信じている。 イルカはおまえを選ぶ。』
「イルカ先生を信じられないんじゃないよ… 俺、自分が信じられないんだ。 自信ない…」
『カカシ…』
「イルカ先生が、俺のこと置いてっちゃったら、俺どうしよう、どうしたらいい? ねぇパックン…」

 どうしよう、どうしよう、と、カカシの問は尽きることを知らなかった。 それは或いは自問なのかもしれない、と思わされるほど、何をどう答えようと、カカシはそれを止めようとしなかった。 イルカはただ高熱が続き意識が戻らない事だけが心配というだけで、勿論油断はできなかったが命が危ういと言う訳ではなかった。 原因については色々調べられている様子だったがこちらには結果を知らされず、それがカカシの不安を煽っているのは間違いなかったが、それでも唯それだけで、自分の主人であるこの男がここまでダメになってしまうなど、誰が想像しただろうか。 それは綱手に例の英照捕獲作戦を諦めさせ、こうして広域を結界で囲うという大技を行なわせ、どこへともしれないが伝令を走らさせた。 自分達はカカシの命でそれらを探り、逐一主人に報告していたが、当の主人はこうしてダメダメなままでいるのだ。

「ねぇパックン、もしイルカ先生が…」

 イルカの体温は三日後に平熱に落ち着き、カカシは隣接する控え室にやっと入ることを許された。 カカシはそこの壁面一杯の監視窓のガラスに貼り付いて、体中に何本もの管やら電極やらを取り付けられているイルカの姿をやっと見ることができた。

              ・・・

 それは確かに、人間ではカカシにのみ反応するよう設定された結界だった。 イルカの病室の回りに張り巡らされたそれは、五代目自らが張ったもので、幾度かカカシの夜這いの試みを阻止してきた。 だから対カカシ用である事は疑うべくも無い。 だがその実体は、鎧戸式の妖魔捕獲結界だった。

「入ることはできても出る事ができないはずのあの結界が、どうして作動しなかったのだ…」

 綱手はずっとその事を考え続けていた。 カカシが後から話した所によると、英照は何回かイルカの夢、無意識に干渉してきていたらしいとの事だった。 だが、イルカには明らかに物理的接触の痕跡があった。 捕獲網を仕掛けておきながら、まんまと網抜けされ、剰えイルカをいいように陵辱されてしまったのだ。 カカシがべったりイルカに貼り付いていたのでは妖魔は寄ってこない。 それに、あの海野の屋敷に置いておいても妖魔は釣れない。 妖魔を呼び込むために、だから態々イルカをこの病院に入院させカカシを遠ざけたのだが、裏目に出たか、と溜息が漏れる。 もしイルカが英照の申し出を受けていたら、と思うとぞっとした。 だがそれならば、英照がイルカを置いていくはずがない、と思う。 篝については自分も勉強しはじめたばかりで、今ひとつよく飲み込めない事が多かったが、カカシのためにもそうであってくれと祈った。

「海野屋敷の結界とまではいかなくても、それなりに強力な結界だったはずなんだが」

 海野邸の破邪結界は強烈なものだった。 未だにどういう仕組みなのか全く解らなかったが、とにかく妖魔が一歩もは入れない事だけは判っていた。

「お爺さまに手を引かれて遊びに行っていた頃からだからな、もうかれこれ五十年か…」

 五十年経った今でも仕組みが解明できない自分が情けなかった。 そうだ、初めて行った時、自分は危うくカツユを死なせかけた。 まだ小さかったカツユ。 お爺さまにあれだけ妖魔・霊獣は連れて入れないと言い含められていたのに、懐にカツユを忍ばせて行った。 海野の息子に見せて自慢してやりたかったのだ。 柾。 彼の周りはいつも妖魔がいっぱいだった。 羨ましかった。 だからカツユを…

「誰か、人間が手引きしたとしか考えられんな」

 綱手は遠い記憶を振り払うように頭を二三度振った。 そうだ、あの時も泣く自分に柾の父、海野杭は優しく笑って大丈夫と頭を撫でてくれた。

  「大丈夫、名前を呼んで、”入れ”と君が言えばいいんだよ」

 そうだ、誰かが中からその妖魔の名を呼んで入っていいと言えば…

「だが、この里の人間で妖魔にそんな事を協力するヤツが、あの海野以外でいるだろうか」

 九尾の災厄以来、この里の人間は須らく妖魔に対して過敏なほど拒絶反応を示してきた。 そのような事をする者がいるとは到底思えない。

「では誰が?」

 海野イルカ以外にも篝がいるのだろうか?





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