淋しい兎は狼にその身を捧げ
- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -
本当は、妖魔の妻としてこの里を出てしまった方がイルカにとっては良いのかもしれない。 本当は、短命らしい篝の人間としての生を全うさせるより、妖魔の妻として半永久的に生きる道を選ばせてやった方がイルカの為かもしれない。 だが自分はイルカを離せない。 イルカの短い寿命に付き合って、イルカが死んだら自分も死ねばいい。 自分はそれでいいが、イルカはどうなのだろう。 そう思って森からの帰り道、それとなくイルカに問うと、イルカは目を丸くして、激しく首を横に振った。
「永久に生きるなんてとんでもない! 絶対やです。」
そうだ、忘れてた…
この人がそれこそ、とんでもなく厭世的な事を
だから笑って再度問う。
「ね、俺とだったら永遠に生きてくれる?」
「やです」
やっぱりね
判ってはいたものの、即答されると傷つきますよ、イルカ先生
「カカシさん、俺、長生きできないと思います。」
え?
知ってるの?
「だから俺、本当はカカシさんにこんな風に関わっちゃいけないのかも…」
31
「海野イルカ、ICUに搬送します。 バイタル・チェック!」
「海野さーん、海野イルカさん! 意識レベル20、自発呼吸有り、血圧正常、脈拍高めです。」
「若干発熱しているようです。 38度5分、6、7、8…。 どんどん上がってるわ。」
「海野さん! 海野さん!! 意識レベル30に低下!」
「ちょっと冷却剤用意してっ 早く、脇に宛がってっ!」
どうしてこんなことに?
今日、これから退院のはずだったのに…?
「綱手さま! あなたはまた…! 一度ならず二度までも…」
「おまえこそっ 英照がイルカの無意識に干渉してくると、なぜ言わなかった!」
「お二人ともっ!」
シズネの制止の声が病院の廊下に木霊する。 廊下の突き当たりでイルカを乗せた搬送用ベッドが両開きのドアに吸い込まれていった。 溢れていた看護婦達の声や足音がふっつりと消え、処置中のランプが灯った。
・・・
火影執務室に場所を移しても、双方とも一言も喋らなかったので、シズネが仕方なく口を開いた。
「海野イルカは生命に別状ありません。 鼠捕りは無反応でした。 物理的な接触はなかったものと見て間違いないと思います。 彼の変調の原因は英照とは別なのでは…」
「何度!」
カカシが遮った。 黙ることにする。 誰かが喋っているのならそれでいい。
「何度、イルカ先生を囮に使えば気が済むんです?」
「英照を捕まえるまでだ」
「どうしてそんなにアイツに拘るんです? 放っておけばいいでしょう!」
「状況が変わった。 どうしてもアイツが要る。」
「何故ですか? 理由をお聞きしたい。」
「アイツが四百年以上生きている、唯一確認されている妖魔だからだ。 アイツの持っている情報が要る。」
「どうしてそんな昔の事?」
「どうしてもだ。 今は言えん。」
「それなら俺にも覚悟があります。 もうイルカ先生には指一本触れさせませんから!」
二人は睨み合い、殺気を飛ばし合い、部屋の窓ガラスをビリビリと震わせた。
---あの綱手さま相手に一歩も退かないなんて…
自殺行為だわ、と思いながらもどこか羨ましい。 そこまでしたい相手が居る事に、そこまでされるイルカに。
その時、トントンと控えめに戸が敲かれた。 シズネは黙って外へ出た。 ここへ誰かを入れたりしたら、もう一台ベッドが要る。
「どうした?」
戻るなり綱手に問われた。 心底言いたくなかった。 特に今は。 この男の前では。
「後で」
「いいから言え。 コイツも聞きたがっている。」
ふぅーと長く息を吐く。 吐いて、背筋を伸ばすと、シズネは二人を平等に見た。
「海野イルカの意識が戻らないそうです。 熱が下がらないと言う事です。 解熱剤が効かないと…」
「薬が効かない?」
カカシが大きく瞠目した。 そしてツカツカと戸口に、即ちシズネの居る方に歩き出す。
「また蟲を抱かされたか?」
嗚呼! まったくこの方は…
もうちょっと言いようってものがありそうなものだ。
「まだ判りません。 ただ」
「ただ、何だ?」
「ちょっとそこどいてよ」
「出すな」
「だそうです」
「いいからどけっ」
「陵辱の痕跡がっ」
「!」
「…見止められたそうです。」
「…」
「物理的な接触はなかったのではないのか?」
「判りません」
「どいて」
「カカシさんっ 抑えてくださいっ」
「どいてよっ!!」
「シズネ」
「はい」
「行かせてやれ」
やっと身体の力を抜く事ができた。
脇に引くと、カカシはヨロリと半歩踏み出し、戸に手を掛けた。
「蟲を抱かされただけならいいが…」
カカシの姿が扉の向こう側に消えてから、綱手は呟いた。
・・・
「だから俺、本当はカカシさんにこんな風に関わっちゃいけないのかも、うわっ」
イルカがそう言った時、腕を掴んで、引き寄せ、抱き締めた。
「カカシさん…」
口も塞いだ。
唇で
イルカ…
「俺と生きて」
お願い
懇願した。
「あなたは、ちゃんと女の人と…」
「俺と生きて、おねがい」
「…」
イルカは黙って見上げてきた。
「俺の子、産んでくれるんでしょ?」
「そんなの、確実にできるかどうかなんて判りませんよ」
「できなくてもいいよ、あなたが居てくれるなら」
ね、お願い
イルカが縋る目に弱いんだと学習した。
弱い存在に弱い。
頼られると弱い。
力で押さえ付けても全然堪えないのに、泣いて縋るとイルカは簡単に折れた。
「ね、俺と生きてくれる?」
イルカがそっと手を重ねて握ってきた。
「カカシさん、俺はバカだから、ちゃんと捕まえておいて。 俺がまたバカなことしたら叱ってください。」
縋られたいくせに縋りたい、狡いイルカに笑みが零れた。
真っ直ぐ見上げて一心に瞳を覗き込んでくるイルカの黒瞳に、自分が映っていた。
その幸せ
「わかりました。 ちゃんとお仕置きしてあげます。」
「でも、最後は許してくださいね」
イルカは肩口に顔を埋めると、すりすりと頬を寄せて体重を預けてきた。
”愛してます、愛してる、俺を許して…”
リリィとイルカの声が辺りに響き、一回頬を嬲るように纏わり付いて、空気に溶けていった。
なんだ、許されたかったのか
今まで唯愛しいと、それだけを囁いていたイルカの心の声。
初めてイルカ自身の希の声が愛の囁きと共に聞こえてきて、カカシはほっと吐息を吐いた。
「俺のことも許してね」
俺と同じ
同じなんだ
コクリと頷き縋り付いてくるイルカを抱き返した。
イルカが本当は何を許されたかったのか、判らない。
でもそれでいいと思った。
自分の贖罪の理由も、イルカには判らないだろう。
だがこれは、きっと同じ痛みだ。
それを抱いて、共に生きていこう。
そう思った。
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