淋しい兎は狼にその身を捧げ

- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -


27


 血を吐くように叫んで、カカシはイルカを見つめた。 辛うじて犬の変化を解かなかっただけでも僥倖と言えた。 答えずじっと見つめ返すイルカの黒瞳は、そんな自分を見透かすように、夕闇の中の最後の夕陽の光を反射して、静かに光を湛えていた。
『おまえが何と言おうと、俺はおまえを連れ戻す。 俺はパックンのような訳にはいかないからそのつもりでいろ。』
 イルカの気持ちが判らなかった。 こんな時こそ、切実にあの声を聞きたかったが、イルカからは何も響いてこなかった。 だが最悪イルカの希を無視する形になっても、イルカは連れ戻す。 何処へも行かせたりしない、他の誰にも渡さない。 それだけは譲れない、そう硬く心に決める。 喩えそのためにイルカに一生恨まれても。


 イルカを愛していた。 その心だけでなく体だけでなく、何と言い表せばよいのだろう。 イルカの存在そのものを、魂そのものを自分の全てが渇望して止まなかった。 別に幸せにしてもらわなくてもいい。 自分がイルカを幸せにできればこの上ないが、それができなくても、自分と共にいることで喩えイルカが不幸でも構わない、イルカと居たいと強く願った。 こんな自分を勝手だと、狭量だとイルカは言うだろう。 でも、それでもイルカを離せない。 自分は寧ろ、篝に出会ってしまった妖魔に近いのかもしれない、とカカシは思った。
 パックンの話を聞くにつけ、カカシが感じたイルカの現実。 普段の表面的なイルカは、節操なく人に靡き、軽い態度で何にでも応じる。 感情の起伏が大きく読み易い。 人情に脆く、職務に忠実で、真面目で熱血で、献身的だ。 妖魔にさえも、自分の身や心を擲つことに抵抗が無い。 だが今、そんな彼の一見流され易く素直に見える感情の奥深くに隠された迷路のような踏み込めない場所、そこに有る闇、その中で独り膝を抱える彼自身を見た気がした。 そこにいるイルカは、幼いままで成長を拒み、人との関わりを拒み、何物にも靡かず流されず、唯じっと一点を見つめている頑なな子供なのではないか。 時折自分に垣間見せるイルカの頑固さや卑屈さの由来が、そこから来ていると感じた。 そこにさえ踏み込まなければ、イルカは表面通りの素直な優しい熱血漢のイルカ先生でいられるのだ。 だから、踏み込もうとする自分にだけ、イルカは頑固になるのだ。 そして手を拒むのだ。 表面のイルカは一度自分の手を取り、体を投げ出して恋人という関係を甘んじて受けたくせに、底の底では誰の手も取っていない。 たった一人で闇を見つめているのだ。 何が彼をそんな風にしたのか。 何が彼に何もかもを拒ませるのか。 パックンに聞かされたイルカの父親の話を聞いて、だがカカシは一縷の希を見出すことができた。 自分が同じ道を辿ろうとしていた時期があったからだった。
 だからカカシは心に硬く誓う。 イルカを決して離さない、と。 どんなに拒まれても、恨まれても、イルカを抱き締めてその耳に囁き続ける。 幼いままの頑ななイルカが根負けして折れるまで、自分の最奥の部屋に自分を入れるまで。
 愛している
 俺の手を取って
 と。


「俺は誰の手も取らない…、取れないよ。 唯、英照殿にはまだ聞きたい事があるだけなんだ」
 カカシの勢いに負けたのか、イルカは力なく項垂れて呟いた。 ”取らない”ではなく”取れない”のだと、また自虐的な物言いをするイルカが哀しかった。
『聞いても何も答えない。 あの妖魔は殆どの力を失くして封じられた。 今は眠っている状態だ。 五代目がじきじきに破壊された祠まで行って調べた封印陣だ、破れない。 今度こそアイツは弱ってそのまま消滅する運命だ。』
「いいんだ別に、答えてもらわなくても…」
『…』
 堂々巡りにカカシは黙った。 頑ななイルカが顔を覗かせていた。 彼を変えたいと願い、変えたと思っていた。 だが、イルカは全く変わってなどいなかった。 今が最後のチャンスかもしれない、とパックンも言っていた。 自分もそう感じる。 イルカが何を望み、どうしたいのか、英照と同じく自分もイルカに問いたいと思った。
『何を聞きたいんだ』
 カカシは、イルカの為に英照の代わりを務めることにした。 唯話したいだけならば、黙って聞いてやればよいのかもしれない。 それで満足して帰ると言ってくれることを祈った。 イルカは、まだ犬のままカカシの首から手を離し、顎を撫でてからまた地面に手を着いた。
「俺、あの子が本当に俺の子かどうか知りたいんだ。」
『知ってどうする?』
「今の俺には、あの子に何もしてやれないけど、俺は多分これから一生、普通に子は持てないと思うから、あの子の事は忘れたくないんだ。 英照殿のことも忘れない。 俺が生きてる限り、忘れないでいたいんだ。」
 そう言うと、イルカは抱いた膝の間に顔を埋めた。 英照の祠はコトとも言わず、ただ風に巻かれて落ち葉がカサコソと舞うだけだった。 辺りは黄昏て宵闇の静寂が静かに迫ってきていた。
『英照のこともかっ』
「怒るなよ」
 カカシが吐き捨てるように言うと、イルカは顔を上げて、おかしそうにまた顎を撫でてきた。
「俺ね、このさき生きてる限り多分ずっと、おまえの主人のものだよ。 カカシさんが俺のこと忘れても、俺はカカシさんのもので、もうそれしかないよ」
 でもね、と涙目で続けるイルカに胸が熱くなる。 もう変化を解いて抱き締めたい。 自分は絶対あなたを離さないし忘れない、と。 いったい何回言ったら信じてくれるのだろう。
「でも俺、やっぱりもう一人じゃ生きてけないみたいなんだ。 カカシさんの所為でさ…、だから英照殿に聞きたいんだ。 俺…」
 なんと…!
 自分で勝手に捨てられると決めて、それで英照に着いて行く気か?!
『カカシはおまえを絶対捨てないし忘れない! 英照に聞く事など何もない!』
 カカシはイルカの言葉を遮って、もうこの堂々巡りを終わらせ還ろうと思った。 辺りはすっかり暗闇に包まれていた。 妖魔達の気配が濃厚に取り巻いている。 しかも、イルカは発熱している。 力尽くでも連れ帰って、後でゆっくり言い聞かせればいい。 言って聞かなければ体に聞かせる。
『帰るぞ』
 低く命令口調で言うと、イルカはブスッとして横を向いた。
「置いて行っていいよ」
 鼻をぐずつかせて小さな子供のように駄々を捏ねる。 カカシはふぅと溜息を吐いて、幾分優しい声音を作った。
『さっさと立て』
「……おまえ、本当にカカシさんにそっくりだ。 あの人、すごく俺に厳しいんだ。 一見優しそうで寛容そうなのに、俺にだけ厳しくてさ、言う事聞かないとすぐ体に聞かすって言うんだ。」
『イルカ…』
 先程の考えを見透かされたような事を言われて、カカシはうっと詰まった。 そうやって問題を先送りしてきた事を指摘されている気がした。
『おまえ程カカシに甘やかされている人間は他に居ない。』
 だが今の自分には懐柔するくらいしかできなかった。
「おまえ、俺とあの人の閨、覗いたことないだろ? 俺、全然甘やかされてなんかないよ。 今度覗いてみたらいい」
『おまえ…、そういうところ少し恥じらいが足らな過ぎるぞ』
「そうかな。 でも仕方ないよ。 俺、禄に恋愛経験も無いうちから、いつも誰かの見てる前で誰かに抱かれてたんだもの。」
 またそんな節操の無い事を、と思わず窘める口調をすると、イルカは胸にグサリとくるような過去を話し出した。
「17の時、里に戻されて俺がされたのって、薬の生体実験だけじゃないんだ。 他の男達を狂わせたって、拷問専門の忍に何回も輪姦された。 皆、手にノート持ってさ、一人が俺を抱くの見てるんだぜ。 順番に俺を抱いて、それで感想言い合ったりしてさ。 それに比べたら、あの部隊の人達はずっと紳士だったよ」
『…』
 初めて聞く里のイルカに対する非人道的な扱いに、震えるほど怒りが湧く。 だがイルカはお構い無しに喋り続けていた。
「三代目が直ぐに気がついて止めさせてくれたから、俺は今ここに居られるんだ。 そうでなきゃ俺、多分あの時狂ってた。」
『イルカ』
 もう止めさせたくて名前を呼ぶ。 だがイルカはもうこちらを見ようともしない。
「俺はそれからずっと、誰とも関わらずに生きてきたよ。 ただ仕事だけをしていればそんな事簡単だった。 アカデミーの子供達はかわいいし好きだけど、でも皆通過していくだけだし、中にはすごく手の掛かるヤツもいたけど、でもみんな卒業して独り立ちしてくんだ。 五年毎に来る部隊の昔の仲間だけが、もしかしたら俺のこと知っていて、俺が知っている”仲間”だったのかもしれない。 それと英照殿は妖魔だけど、八年間ずっと俺のこと見ていてくれて、俺の為に泣いてくれたよ。 でも他には誰もいない。」
『イルカッ』
 哀しい事を喋り続けるイルカを呼ぶ。 だがイルカは止めなかった。
「今はもう彼らもいない。 三代目も逝ってしまった。 カズキも行ってしまった。 英照殿も答えてくれない。 ナルトは…、アイツは特別だけど、もし俺が本当に篝ならもう関わっちゃいけないんだ。」
『…カカシはどうなんだ』
「カカシさんは!」
 敢えて外された自分の名前を問う。 するとイルカはキッとこちらを睨みつけ、鋭い口調で叫んだ。
「カカシさんは三代目の命令で俺に関わってたんだ。 その三代目が居ない今、カカシさんが用があるのは俺の体だけだ!」
『イルカ先生っ』
 カカシは堪らず、変化を解いていた。





BACK / NEXT