淋しい兎は狼にその身を捧げ

- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -


26


「ここに、いたんですね、英照殿」
 落ち葉が積もる西の森の奥深くに、真新しい小さいな祠が設えられていた。 膝を着いて地面に両手を当てると、秋の日に暖められた大地からは、まだ冷えた体を暖めるくらいの熱が伝わってきたが、英照の声は聞こえなかった。
「どうしてもお聞きしたいことがあって、来ました。」
 人目を避けて里中を徘徊した後、やっとここに辿り着いたイルカはもうボロボロだった。 局所麻酔はとっくに切れていた。 鎮痛剤の効果も薄れ、体は緩やかに発熱し始めて限界を訴えた。 だが、足を引き摺り、這ってでも、イルカはここへ来たかった。
「誰も俺にあなたの居場所を教えてくれなくて、さっきカズキに会ってやっとここを知りました。」
 西の森の入り口からずっと、一匹の犬が着かず離れずイルカの後ろを着いてきていた。 カカシの忍犬だと思った。 銀色の毛並みはカカシを思わせた。 座っている今の姿勢だとイルカとほとんど目線が変わらないくらいの大型犬で、狼の血が混ざっているのだろうか、その姿は神々しいほどだった。 多分、人の言葉を解するのだろう。 自分の話した事は全てカカシに筒抜けだろうと、イルカは後ろを振り返ったが、その犬はおとなしく二三歩離れた位置に座って尻尾を体に巻きつけて、じっとこちらを見ていた。 カカシに聞かれてもいいと思った。
「カズキは、あなたが俺から取り出した子に魂を喰わせようとした男です。 あの子、彼と融合してました。」
 ペタンと地面に尻を着き、膝を抱えて枯葉を弄びながら祠に向かって話し続ける。 相手が誰でも構わなかったのかもしれない。
「あの子、あのテントから逃げた後、人を襲って魂を喰らい顔を盗んだんです。 でもうまく化けられなかったみたいで直ぐ掴まって…、でもそこからも何とか逃げて、今度はカズキの所へ行ったんです。 最初の自分になるはずだった男を覚えてたんでしょうね。」
 犬がそっと近付いてきて、イルカの隣に座った。 ふさふさとした毛が西日に透けるように銀色に輝いていた。 首の後ろから背中にかけてゆっくり撫でてやると、目を閉じて首を長く伸ばした。
「おまえ、忍犬のくせに他人に簡単に首筋触らせていいのか?」
 イルカがおかしそうに呟いても、犬はチラとイルカを見ただけで、また元通り気持ち良さそうに目を細めた。
「奇麗だね、おまえは」
 そう言って耳の根元を片方づつわしわしと揉んでやる。 そうすると、まるで手伝うように交互に首を傾げて自分の耳を差し出してくる様は、心底イルカを信用していると言っているようで少しジンと胸にきた。
「英照殿がカカシさんのこと言ってたよ、あの男は食物連鎖の頂点にいるようなヤツだって。 まるで狼だって。 俺、本物の狼は見たこと無いけど、きっとおまえみたいなんだろうな」
 ふふっと笑って手を離すと、イルカは顔を俯けて話を再開した。
「あの子…、うまく人間に化けられなかった。 一葉と諸葉はうまく化けてましたよね。 あなたが化け方を教えたんでしょう? 本当に本人そっくりだったし、気配も人間と変わらなかった。 俺、いくら人間に化けてても妖魔って判るんですけど、あなたと彼女達は判らなかったな。 特別な化け方なんですね、きっと。 難が有るとすれば五年前のまんまだったってことかな。 人間て結構老けるから。」
 笑ったつもりだったが、実際はポタポタと落ちてくる涙を拭うのに精一杯だった。
「それで、化けられなくて、カズキの所へ行って、カズキに融合を持ちかけたらしいんです。 魂を喰わない、顔も盗まない、その代わり共に生きてくれと言ったそうです。 カズキのヤツ、それ受けて…」
 顔を覆って嗚咽するイルカの背に、犬が鼻先を擦り付けてきてクゥンと鳴いた。
「大丈夫だよ」
 ふさふさと長めの毛が覆う銀の首に腕を回し、ギュッと抱き締めると日向の匂いがした。 触らせてくれるばかりでなく、縋りつかせてくれる態度が本当にカカシの様だと、イルカは少し笑うことができた。
「カズキのあの隊、解体されたんです。 それで、当分里外にも出してもらえない身分になったって、アイツ、里抜けまで考えてたらしいんです。 もう自分は里では暮らせないって。 そこへあの子が来て、あの子凄く弱ってたそうです。 一葉と諸葉を手に掛けた事が回りが思うよりずっと堪えてたみたいで、カズキ、あの子のことは殺せなかったって…。 それで融合してくれと言われて…、悩んだって言ってました。 融合したら人間じゃなくなる、でも自分も妖魔でなくなる、そう言ったそうです。 半妖になるって。 人間としては長く生き過ぎるし、妖魔としては短命になる。 そんな中途半端でどちらにも属さないモノになることがどんなに辛いか。 でもそうしないと自分は生き延びられないって、あの子…」
 妖魔と契ればおまえは半妖になる、そうして半永久の時をたった二人で彷徨って生きることになる、パックンはそう言っていた。 だから、そんな辛い道は選ぶなと、言いたかったのだろうとカズキの話を聞いた今は思う。 まだ契った相手が居ればいい。 でもカズキはたった一人でこれからずっと…。
「俺、五代目なら戻せるかもしれないから行って頼んでみようって言ったんですけど、無理だって。 それに後悔してない、望んでしたことだって、笑うんです。」
 次から次へと溢れては流れる涙を、銀の犬がペロペロと舐め取った。 閨で自分が泣くとカカシが時々そうするように。
「俺に一緒に行こうって言いました。 最後にあなたが言ったみたいに。」
『行くのか?』
 犬が突然喋った。
「おまえ、やっぱり喋れるんだな」
 イルカが吃驚して問うと、犬はしまったというように横を向いた。

 秋の夕日はどんどん傾いて、イルカと犬の影を長く長く森の奥へ伸ばしていた。 風も出始めて落ち葉を鳴らす。 発熱した体が寒さを感じ、ブルリと震えて腕で自分自身を掻き抱くと、犬が守るように風上に移動してイルカに密着するように身を寄せてきた。 暖かかった。 カカシに抱き込まれて眠る夜を思い起こさせられ、イルカはホゥと溜息を吐いた。 芒として目を向けると、英照の小さな祠の足元に積もった枯葉が吹き飛ばされて、まだ埋められて間が無い地面が覗いていた。 あそこに自分の血を一適落とせば本当に英照は蘇るのだろうか。 蘇って自分の問いに答えてくれるのだろうか。 そして英照の希通り彼と契れば、自分はどこか遠い、この大陸を離れた海の彼方へ連れて行かれて、何もかも捨てて、カカシの事も忘れて、人間を捨てて半分妖魔として生きるのだろうか。 そのほうがカカシの為だろうか…。

『行くと言ったのか? これから何処かで落ち合うのか?』
 ぼんやり考え事に沈んでいると、犬が歯を剥き出してグルグルと唸りながら再び問うた。 返答次第ではその鋭利な牙でイルカを噛み殺さんばかりの殺気立った気配を隠さない犬に、イルカは鼻に皺を寄せて犬を睨んだ。
「おまえ…、本当はカカシさんなんじゃないのか?」
 そしてさも胡散臭げにジロジロと犬の全身を眺め回す。
『…! カカシは森の入り口でおまえを待っている。』
「ふーん」
 尚も疑わしげにイルカは鼻を鳴らした。
「カカシさんて、結構心狭いんだ。 おまえ似てる。」
『もう帰ろう、日が落ちると厄介だ。 ここは妖魔の森だぞ』
 犬は誤魔化すように回りを見回した。
「もういっぱい回りにいるね。 でも大丈夫だよ。」
 この森の妖魔達が一匹たりとも自分を襲わないことをイルカは知っていた。 だがそれは口にはしなかった。
『まだ日があるからだ。 これだけ居ると俺でも守りきれない。 もう行こう』
「守って貰わなくても俺は大丈夫だよ。」
『そんな体で強がりを言うな。 禄に動けもしないだろう。 顔色も悪い。 早く帰って…』
「まだ帰らないっ まだ聞きたいこと聞いてないっ」
 イルカが強い口調で遮ると、犬は哀しそうな顔をして沈黙した。 そんな所もカカシに似ていた。
「この森の妖魔は俺を襲わないよ。 小さい頃から襲われた事なんか一度もないもの。 小さい頃はそれが普通で、物心ついてからはどうしてか不思議だった。 でも理由、判ったよ。 俺が篝だから」
 イルカはそこで言葉を切ると、暫らく反応を見るように犬を眺めた。 だが、犬は何も言わなかったし表情も動かさなかった。
「俺が篝だったから、俺が成人するまで待ってたんだ、きっと。 パックンに聞いたでしょ?」
 俺が篝だってこと。
 イルカは犬の瞳をヒタと見つめながら、言葉を続けた。 この忍犬は何もかも知っている、そう思った。 そしてそれはカカシも知っていると言う事。
「英照殿が俺を望んだのも、俺が妖魔の子を身籠ったのも、俺が篝だからだ。 俺は妖魔の力を増幅する、人間にとっては有り難くない存在なんだよ。 里が俺を外に出さないのも、唯の中忍の俺を一生懸命妖魔の手から取り返そうとしてくれたのも、俺が篝だからだ。 長老会の方々にしてみれば、俺なんかできれば葬り去ってしまいたいだろうに、木の葉には九尾が居るから、だからいざという時の為に俺を生かしておくんだ。 俺は…!」
 犬は一言も喋らなかった。 唯じっと、イルカの言う事を聞いていた。
「俺は、この里の厄介者で、人間の敵じゃないかもしれないけど、味方でもないんだよ、きっと。 俺は、俺はね、妖魔のこと見捨てられないんだ。 妖魔と人間とどっちかを取れって言われても、選べないんだ。 どっちが上とか味方とか、そんな風にどうしても考えられないんだ。 だからね」
『だから行くのか?』
「だから俺、おまえの主人を幸せになんて、できないんだよ…」
 苦しげに問う犬に答えず、イルカは言葉を吐き出した。 犬が更にそれに被せるように叫んだ。
『だからおまえは妖魔の手を取るのか? カカシの手を離すのか?!』

 夜の静寂がひっそりと忍び寄っていた。





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