淋しい兎は狼にその身を捧げ
- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -
23
カカシが家を出ると直ぐに、イルカはパカリと目を開けた。
『なんだ、狸寝入りか』
「ちがうよ、ほんとに寝てた。 ああ、しんど」
忍犬の自分の声にも特に驚くでもなく、イルカは自分の状態をあちこち確かめ出した。
「ここまでするかなぁ」
緩く肩のあたりまで上げられて縛られている両手を引っ張りながら、紐の質や結び目の具合を調べていたイルカだったが、えいっという掛け声と共に足を振り上げ、親指の爪で片腕の紐をスパンと切り裂いた。
「柔い布を使っててくれて助かった。 俺のこと気遣ってくれたんだろうけど」
そう言いながらもう片方の紐も簡単に解く。 右足の親指の爪の一部が僅かだが刃物のように研ぎ澄まされていた。 今度は足も縛るように言わねばなるまいと思わされた。
「あっ痛ぅ、いってー」
だが、直ぐには動けずベッドに体を沈ませて呻く姿を見てひとまずホっとする。 できるなら遣りあいたくなかった。 主人の想い人に怪我などさせては、と言うよりも、この人間はどこか保護欲を唆られる。 チャクラも禄に無く、力も弱そうだ。 隙だらけの上に感情が駄々漏れで、容易に先手を打つことができる気がした。
「この分だと、手当てはしてくれてないみたいだなぁ。 しょうがない、自分で何とかするか」
イルカはそう言うとズリズリとベッドから這い降りて、自分の忍服のベストを探り何かを取り出した。
「ああでも、お風呂には入れてくれたんだよね。 それはちょっと覚えてる。 あの人、そういうとこあるから恨めないんだよなぁ」
独り言なのか、自分に聞かせているのか、イルカはぼそぼそと喋りながら手にしたチューブから塗り薬を指に取り自分の秘所を手当てしだした。 なんの躊躇もなく自分の前でズボンを下ろすイルカに、自分の方が若干狼狽える。
『おまえ、少しは隠さんか』
「へ?」
『そんな風に簡単に肌を晒すなと言っている。 少しは恥らえ』
「え? 恥らう? おまえに?」
『…』
言葉に詰まって黙ると、イルカの方がすりすりっと側に寄ってきて真正面から顔を覗かれる。
「おまえ、パックン?」
『…』
「カカシさんがよく言ってる。 パックンでしょ?」
『それならなんだ』
「へぇー」
感心したように自分を眺め回し、イルカは「どうぞよろしく」と屈託無く笑った。
「俺よりチャクラ有るみたい。 すっごいなぁ。 力も俺よりありそう。 多分素早さも術も叶わないね。 こういう時困るんだよねぇ、俺、チャクラも少ないし、腕力も無いからなぁ」
そう言いながら今度は内服薬を取り出して口にポンと放り込むと、ガリガリと噛み砕いて飲み込んだ。
『なんだそれは、何を呑んだ?』
「鎮痛剤、それとこれは塗布用の局所麻酔」
先程のチューブ薬の説明までしてくれる。
「カカシさんに家に行こうって言われた時、取り敢えず持って出たんだ。 大正解」
『おまえ、薬は効かない体なんじゃないのか? カカシはそれでおまえを縛ったんだぞ』
「え? 俺どっちかって言うと薬に耐性無い方だよ?」
イルカは怪訝そうな顔で首を傾げた。
『嘘を言うな。 前にカカシがおまえに睡眠剤を飲ませた時、ほとんど効かなかったではないか』
「あの時は腹に子供がいたから」
『なんだって?』
何を言っているんだ? と、不可思議な生き物でも目の前にしている気持ちになる。
「いや、俺にも確信はないんだけど、多分そういうことだと思う。 この八年間、余程強い薬以外ほとんど効かなくてホンと困ってたんだよねぇ。 それまで俺、薬の耐性つける特訓毎年受けさせられてたくらいなのにさ。 風邪薬とかも効かないし、酒にも酔わないし。 俺、ぜんぜん酒弱いんだ本当は。」
『あの蛇が腹の子供の為におまえの体を変えていたというのか?』
「いやー、判んないんだけど多分そうかなって話しだよ。 あの後病院で薬効きすぎてさ、逆に困った。」
ははっとイルカはおかしそうに笑い、その証拠とばかりさっきまでズルズルと這っていたのがスクッと立ち上がって身支度を整え始めた。 これには焦った。 それでもまだ自分の優位を疑わなかったが、何かとんでもない失態を演じた気持ちになり、不安に襲われた。 イルカが起きてからの事を反芻する。 イルカのチャクラや体力を測る。 大丈夫だ、何も問題は無い。 だが、イルカのこの余裕はなんだと思う。
『悪いがここから出すなと言われている。 怪我をさせたくない。 おとなしくしていろ』
「うん、パックンには悪いと思ってる。 でも、ごめんね、俺行かなくちゃ」
不安を散らしたくて無意味に凄んでみたが、イルカのペースに巻き込まれるばかりだった。
『何処へだ? 何の為にだ? 自分で判っているのか?』
「カカシさん、どこへ行ったの? 何があったの?」
『言うわけなかろう』
「そうだよねぇ」
問いに問いで返されすげなくそれを切り捨てたが、イルカはそれに相槌さえ打ち、顎に手を当てて暫らく部屋の中をぐるりと見回した。 そして徐に窓辺に行くと、また懐から何かを取り出し何かを書いている。 この時にはもう既にしっかり身支度を整え、ベストまで着込んでいた。
『何をするつもりだ?!』
「うふ、ちょっと見てて。 これ俺のオリジナル」
訝しく問うと、にこりと笑って少し後ろへ引き、何か印を組んで詠唱する。 するとそこに、明方訪れた式鳥の少し滲んだような姿が現れた。
『蛇が…げた。 至急ほ…ぶへこ…たし。 追跡用の忍犬を…』
どうやったのかは判らなかったが、残像と残響を拾い再現する術のようだった。 ブレた姿だけでなく、声も途切れ途切れだったが、内容は容易に伝わった。 イルカは暫らくの間その場に立ち尽くし、拳を握り締めて俯いていたが、やがてポツリと呟いた。
「あの子、生きてたんだ…」
「……!」
己を蝕んでいた妖魔の子を”あの子”と呼び、生きていた事を喜ぶ響きを持ったその呟きを聞いた時の気持ちを、どう表したらいいだろう。 同じ霊的存在として長く忘れないだろうと思った。 人間に何百年も封じられ、年降りて朽ちるばかりにまで追い詰められ、人間を恨み餌にこそすれ共存などとても望むべくも無いと思えたあの老蛇が、何故イルカを妻にと望んだのか。 左目の元の主である友を亡くして以来、一見鷹揚そうに見せてはいるがその実は牙を剥き出し威嚇しまくっては他人を寄せ付けなかった自分の主人が、何故イルカにここまで執着するのか。 なんとなく解った気がした。
イルカは、震える手で自分の体を掻き抱くようにして、トスンとベッドに座り込んだ。
「夢を見たんだ…」
そして項垂れて、力なく、話しだした。
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