淋しい兎は狼にその身を捧げ
- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -
14
榊姉妹に化けた英照の手下の蛇は、斉場カズキによって切り捨てられた。 英照自身は森の奥まで逃げた挙句に、暗部に追われ巧みに誘導されて、予め仕掛けられていた罠に嵌められた。 それは五代目が自ら張った破邪封印陣で、彼の破壊された祠から写し取られたものだった。 英照はそこに追い込まれ捕らえられ、地中に飲み込まれていったそうだ。 カカシは見ていない。 カカシはずっとイルカの側から離れる事ができなかった。 血塗れたヤツの腕とイルカの局部。 ヤツはイルカをフィストファックしたのに違いなかった。 それも慣らさずいきなり捩じ込んで、イルカが流血しても止めなかったのだ。 そしてあの蛇を取り出した。 イルカの中から…。
英照がイルカに固執し続けた理由は、やはり繁殖のためだったと結論された。 斉場カズキを疑っていた時は、五年前にも蛇を二匹取り出したという話も何か霊的な比喩かと思ったりもしたが現実の子蛇で、それがあの双子の姉妹に化けていた事も確認された。 ヤツはイルカに自分の子を寄生させていたのだ。 イルカを男達に抱かせて禍蛇を餌に子を育てさせた。 イルカは揺り籠だったのだ。 何故イルカでなければならなかったのか、それは未だに判らなかったが、妖魔の考えなど理解できない、そう言い放った五代目の言葉通り、カカシはそんな事を理解したくもないと思った。 もう済んだことだ。 唯ひとつ心配事があるとすれば、英照が封じられた時、子蛇の姿が見止められなかった、と報告されたことのみだった。
・・・
イルカは死にはしなかった。 出血が酷く、一時はショック状態に陥ったが命に別状はなく、程なく病院からも出られた。 そうして、呪いから解き放たれた生活を、おっかなびっくり初めて外を歩く子供のように、だが呆れるくらいあっけらかんと、燦々と降り注ぐ太陽の光を享受するように謳歌し始めた。
「元々楽観的なところはあったんだよねぇ」
「そうじゃなきゃ八年間も持たないわよ。 私だったらとっくに落ちるとこまで落ちてるか、人間止めてるわ」
「俺だったら多分人生止めてる。」
「熊のくせにひ弱だな」
「うるせぇな。 おまえ、こんな所でのんびりしてていいのかぁ?」
「なにがよ」
「イルカちゃん、大人気だぜぇ」
「そうよう、元々人望あったしねー、あの可愛さはほっとけないわぁ」
「あちこちから誘われまくってるみてぇじゃねぇか。 なんてぇかアイツ意外とこう…」
「節操が無い」
「それそれ、性的倫理観が薄いっていうかな、そんなとこ感じる」
「危ういわよね」
「…でもそれは、仕方ないよ。 あの人の人生じゃ」
17の時からずっと、ただ禍蛇を落とす道具のように男に抱かれるだけが彼の性体験だった。 それも五年措きに集中的に何人もに抱かれ、後は誰とも接触を持たない生活をし続けていたのだ。 無理もない、それは判っている。 判ってはいるのだが…
「じゃあ、アンタはあの子が毎日、他の男にアンアン言わせられてもそれも仕方ないって言えるの?」
「それはコイツが毎日阻止して回ってるんだよ」
「あら、そうなの? それはご苦労なことね」
「それで? 自分はどうなんだ?」
「どうってなにがよ」
「もうイルカとメイクラブしたのかって聞いてんだよ」
「う〜」
「バカね」
「バカだな」
カカシは、イルカとの関係を進めるのに今ひとつ踏み切れないでいた。
「一回抱けば気が済むのだろう」とイルカは言った。 「目の前で鳶に油揚げを攫われて、そうでもない物が急に惜しい気になっているだけだ」とも言われた。 薬で苦しむイルカを介抱した晩だ。 あの所為で自分はうっかり手が出せなくなっている、そう思った。 だが、最もカカシを躊躇させたのは、イルカからあの鳴り響くような愛の囁きが、事件解決後からぱったりと聞こえなくなってしまっていた事だった。 もうイルカは自分を慕っていないのだろうか。 アレは呪いに圧迫された環境下での勘違いだったのだろうか。 イルカはそう思っているのだろうか。 自分はどうなのだろう。 イルカはもう、自分の意思とは関係なく男に抱かれなければならない日々とは縁を切り、今の生活を満喫している。 他人に禍蛇を移すのではないかと怯える必要もない。 自由意志で誰とでも恋愛ができるのだ。 剰え、事件に対する好奇の目も含めて多くの肉欲を伴った男の目がイルカに注がれている。 注目を浴びた事によって、今や女もイルカを欲の対象として見るようになった。 自分はどうなのだ? 今でもイルカを肉欲の対象として欲しているのか? イルカに同じ目で自分を見て欲しいと望んでいるのか? イルカを守らなければならない状況が去ると、どうしてか自分の気持ちが判らなくなってしまっている事にも困惑した。 だが、イルカが他の男や女の物になるのは、断じて許せなかった。 もう一回、あの囁きが聞こえたなら、その時自分がまた胸を震わすほどそれが嬉しかったら、自分はイルカを離さないのに。 そう思ってカカシはひたすらイルカの回りから邪魔者を排除しながら、ただ待っていた。
・・・
「イルカ先生」
殺気を滲ませてその小料理屋のトイレの扉の外で声を掛ける。 いつか紅達と呑んだ日の如くに。
「大丈夫ですか?」
扉を押し開けると、イルカと見知らぬ男が個室のドア越しに睨みあっている。 それもいつかの光景とまったく同じだった。
「カカシ先生ぇ」
酒に酔った少し呂律の回らなくなっている口調でイルカが自分の名を呼んだ。 男がピクリと体を震わす。 イルカの同期だったと言ったいつかの男はカカシに対して怯まなかったが、今日の男は露骨に怯えを露にした。
「その人はこちらの連れだが、なにか用か?」
「いえ、なんでも」
言い訳もそこそこに退散する男などもう目の端にも入れず、カカシは蹲るイルカを見下ろした。
「イルカ先生、随分酔ってるみたいだからもう帰りましょう。 送ります。」
「カカシ先生ぇ、俺、酔ってますかぁ」
「はいはい、酔ってます酔ってます。 まったく、あんた酒に強いんじゃなかったんですか」
「俺、弱いですよぉ、酒。 久しぶりに酔ったぁ」
「はいはい、立てますか? 気持ち悪くない?」
「ぜんっぜん、いい気持ちですぅ。 俺ずっと酒に酔えなかったんですよぉ。 あの子がいたから」
「あの子?」
何の事だ、とカカシが訝しく眉を寄せると、イルカは急に泣きそうな顔をしてカカシを仰ぎ見てきた。
「あの子、どこですか? あの子、無事に逃げたんですか? 誰も俺に教えてくれないんです。 英照殿はどうなったんですか?」
「イルカ先生、あんた、覚えてるんですか」
「英照殿は、どんな最後だったんでしょう。 誰も俺に教えてくれない…」
イルカは項垂れてめそめそと泣き出した。 泣き上戸か。 それとも本当に泣いているか。 自分をあんなに苦しめたあの妖魔のために。 剰え、寄生していた子蛇を”あの子”などと…。
「イルカ先生、ちょっと話をしましょうか。 俺の家に来ますか?」
捨て置けないと思った。 何故かは判らないが、イルカの認識はどこか常人からずれている。 このまま放っておくと、また今回のような事の繰り返しになりかねない。
「カカシ先生の、家に?」
だがその瞬間、イルカの気配がピクリと変わった。 幾分かの緊張と、幾分かの怯えと、幾分かの…期待? これは正の感情だろうか? 事件後絶えて久しかったイルカの自分への、自分だけへの感情。 そしてそれを感じている自分の胸の高鳴り。
ああ、俺は嬉しいんだ!
カカシは腹が決まってくる自分を感じていた。 こうなったら自分は早い。 もうイルカに四の五の言わせない。 そう思っているとイルカの方は座りこんで本格的に泣き出した。 気配に混じっていた期待のような感情が薄れて無くなり、代わりに諦めが滲み出している。
「あの子、危ういばかりじゃなくて諦めも良過ぎる気がするわ」
紅が出際にその柳眉を寄せてそう言った。
「諦めがいいのは美徳じゃないわ。 ちゃんと捕まえときなさいよ。」
後悔するのはアンタよ。
ああ、感謝するよ、俺は間違うところだった。
イルカの腕を掴んで引き起こす。 ぐずる子供のように項垂れるイルカの両肩を掴み、しゃんと立たせて名を呼ぶが、イルカは顔を横向けてこちらを見ようとしなかった。
「イルカ先生、ちゃんと話しをしましょう。 英照の事も、子蛇の事も、俺が知っている限り話してあげます。」
漸く真っ直ぐにこちらを見上げてくるイルカの頼りなげな顔。
「ほんとですか?」
「ええ、約束します。 俺の家に来ますか?」
「…」
だがイルカはそれに対してまた眉を顰め、目に涙を盛り上がらせた。 カカシはふっと溜息を吐くと、いきなりイルカに接吻けた。 ちゅっと触れるだけの接吻けをして離れると、真ん丸く見開かれたイルカの両目と出合った。
「話をして、あんたが納得したら、その後俺とセックスしましょう。 そのつもりで俺の家に来てください。 後で四の五の言わない。」
「…」
イルカはポカンと口を半開きにしたままヨロッと半歩後退して後ろの壁に凭れると、カカシの顔を見上げて固まった。
「俺が一回あんたを抱いたら、あんたは俺のものだ。 もう今までみたいにチャラチャラ遊ばせない。 門限も設けます。」
「チャ…チャラチャラって俺、俺」
「他の男にむやみやたらに着いて行ったらお仕置きです。 何にも無くてもお仕置きですから。 女も一緒です。 判りましたか?」
「お、お、お仕置きって…」
「あんたみたいなタイプ、首に縄付けとかなきゃ心配で堪りません。 あんた節操無さ過ぎ。」
「だって、だって俺、別にそんな」
「だっても別にもありません。 返事はハイ。」
「…」
「返事は?」
「はい…」
幾分不服そうに、納得いかなそうにイルカは返事をした。 頬がぷぅっと膨れていたがカカシはそれを無視した。
「よろしい。 じゃ行きましょう。」
そのままイルカの二の腕を掴んで出ようとすると、イルカは狼狽えてカカシの手を振り払った。
「え? ちょっと待って、待ってください。 俺まだ行くって言ってない。」
「…」
全く、子供みたいにぐずぐずと。 どうしてくれよう、と腕組みをして暫らく黙って見下ろしていると、イルカの方が気弱げに折れて泣きそうな顔をした。
「カカシ先生ぇ」
「話は?」
「き…、聞きたいです、でも」
「話したら、俺と寝るんです。 添い寝だけじゃないですよ、セックスするんです。」
「どうしても?」
「どうしても」
イルカは、禍蛇の呪いに囚われていた頃よくした、絶望的な顔をした。 あの頃は、その表情が何を意味するのか判らなかったが、今は判る。 イルカは恐れている。 何を恐れているのか。 それが自分の期待通りだったなら、かなり嬉しい。
「あなたは…、一回抱きたいんですね、俺を。 それで確かめたいんですね?」
この世の終りのようなイルカの顔。
「そうです」
カカシはその顔をしっかりと見つめて頷いた。
「…わかりました」
イルカは目に涙を溜めて俯いた。
「俺の家に来ますか?」
「はい」
コクリと一つイルカが頷く。 パタリと涙が床に落ちた。
「セックス前提ですよ? いいですか?」
「はい」
また一つ頷き、一つの雫を落とすイルカ。 もう顔を上げず、唯その身を差し出そうとしている。 前に彼が言った言葉をそのまま取ったとすると、一回抱いて気が済めば自分が彼に対する興味を失くすと思っているのだろう。 イルカがそれを恐れていると思うと、甘美な陶酔感に包まれた。
イルカは、少なくとも自分との今の関係を失いたくないと望んでいる。
自分との関わりを絶ちたくないと、そう望んでいる!
だが、それなら今彼が自分と一線を越える事を了承した事はどう取ればいいのだろう。 彼は諦めたのだろうか。 それによって自分が彼への興味を失っても、今の緩やかではあるが全くの没交渉と言う訳でもない関係さえ失くしても、それでいいと諦めたのか。 そう考えて、カカシは胸の内をぎゅっと掴まれたような感覚を覚えた。
あんたはそれでいいかもしれないが、俺は違う。
俺はあんたが欲しい。
カカシは残酷に最後の釘をイルカに差した。
「…言っときますけど、あんたの想像してるようにはならないよ。 俺はあんたを一回で離すつもりは無い。 後で後悔しても知らない。 あんたが俺の手を取ったら俺は絶対離さないし、あんたが泣き叫んで嫌がってもぐちゃぐちゃになるまであんたを抱いて、絶対あんたを変えてみせる。 覚悟してください。 俺の家へ、俺と一緒に今から行きますか?」
カカシはイルカに向かって手を差し出した。
イルカはその手を暫らく穴の開くほど見つめていたが、ぽつっと一言呟くと、呆気ないほど簡単にすっと自分の手を重ねた。
「結果については、俺にもあなたにも判りませんよ。」
その時、リィンとあの音が鳴り響いた。
「愛してる、愛してる」とイルカの声が首筋に纏わり着いて囁いては離れて行く。 だが当のイルカ本人から発される気配は諦観の方が強かった。 その段に至ってカカシは初めて、何故その声が聞こえなくなっていたのか解った気がした。 イルカは、己の気持ちを偽って押し込めて、それでも自分とのこの曖昧な関係を失くしたくないと望んでくれていたのではないだろうか。 そして今彼は、一回抱かれて喩え飽きられても、自分の愛は変わらないのだと気付いたのか。
あんたが恐れてたのはそれか。
俺に飽きられて自分がどうなるのか、それが恐かったのか。
諦めたのは何だ? 何に諦めた?
結局、元に戻るだけだと、そう諦めたのか?
自分は、自分だけは変わらない、それでいい、と諦めたのか。
全然甘いな、イルカ先生。
俺は、あんたが想像もできないような愛であんたを溺れさせ、縛り、二度と離さない。
あんたはもう二度と、前のあんたには戻れない。
覚悟しろ、イルカ。
おとなしくカカシの手に引き上げられるまま身体を起こし、そのまま手を離さずに人混みの中へと歩いていく事へも何の抵抗も示さないイルカを、どこか哀しく切なく感じた。 何もかもが済んで自由になっただろうと思っているのは回りだけで、当のイルカ自身は何一つ変わっていないのだろうか。 根は楽観的だったのかと感じさせるほど、今のイルカは軽く誰にでも何にでも直ぐに靡いて生きているように見える。 それこそ悩みなど何も無いように、単純で翳りの一つも無い思考回路をしている風に見える。 だが実際は、カカシが阻止するまでも無く、誰の誘いも受けず誰の手も取らず、今までと同じく一人で諦めたように生きているのだろうか。
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