淋しい兎は狼にその身を捧げ
- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -
11
興奮して帰ると言い張るイルカに、言う事を聞かないなら縛ると脅し、睡眠薬を飲ませて無理矢理眠らせ、カカシは五代目の元へ向かった。 家には厳重に結界を張り巡らせた。 忍犬も置いてきた。 それでも心配だったが、どうしても確かめなければならない事があった。
「綱手さま、あなた全部知ってらしたんでしょう?」
「もちろんだ」
しゃあしゃあと!
カカシは唇を噛んだ。
「それで、俺に時間稼ぎをさせておいて、調べはついたんでしょうね?」
「まぁだいたいはな」
「聞かせてもらいます。」
ドンと執務机の前のソファに腰を下ろし、カカシは火影五代目を睨みつけた。
・・・
「イルカ先生っ」
しまった! イルカが薬に強いとを紅から聞かされていた事を今頃思い出し、カカシは自分の迂闊さを呪った。 忍犬には賊にだけ反応するように言ってあった。 イルカも出さないように言い付けておくべきだった。 結界も、中からも解けないようにしておくべきだった。 イルカを信用するべきではなかった。 全くあの人は! なんて頑固で頑なで、人の手を頼らないんだ!
駆けつけた昨日の駐屯地は蛻の殻だった。
「くそっ」
忍犬を全て呼び出し追跡させる。 時間だ、時間が問題だ。 あと三人と言っていた。 恐らくその中にあの隊長も居るだろう。 そしてあと二人。 手遅れにならないうちに探し出さねば! 東の空には既に白い月影が掛かっていた。
『あれは呪いではない。』
イルカがいつカカシの家を出たのかは、忍犬によると三時間ほど前だった。 イルカを探し始めて既に小一時間。 奴等は隊を移動させている。 それからまず、あの隊長が抱くとして…。
『禍蛇などというものもない。』
忍犬の遠吠えが西から聞こえてきた。 西。 西の森。 妖魔の森…。 あそこに巣食っていやがったか! 走り出しながら式を飛ばす。 綱手の方でも手はずが整い、カカシからの連絡を待っているはずだった。 暗部は既に動いている。 医忍も待機しているはず。 後はイルカを見つけ、そしてその側にいるはずの”英照”を、否、イルカやあの部隊の者達を八年もの間騙し続けていた狡猾な物の怪、妖、妖魔…、呼び名などなんでもいい、その人でないモノにイルカを攫われない裡に捕まえなければ。 今回も禍蛇と名付けられた淫気だけ吸ってイルカを置いて行くとは限らない、と綱手は言った。 最終的にはイルカを連れ去るのが目的のはずだと。 そんな事はさせない!
宵闇が迫っていた。 妖魔の時間が、迫っていた。
・・・
「あれは呪いではない。」
綱手は開口一番そう言った。
「禍蛇、などと言う目に見える蛇などもいない。 毒などで感覚器官のどこかを麻痺させられ、暗示を掛けられている可能性が一番高い。」
火影五代目は医忍の祖であり頭目だった。 呪いなどというのは人間の恐れが生んだ唯の逃げ道だというのが、彼女の信条だった。 医忍の彼女には、”呪い”の一言で片付けられては堪らない多くの人々の思いが、胸に積もっていた。 必ず何か原因があり、対処法がある。 それさえ判れば直せる。 そう信じて、調べ、試し、調べ、また試して、今のノウハウを築いてきたのだという自負もあった。 イルカの言う禍蛇は、明らかにある種の脳内物質の分泌異常だと考えられた。 幸いと言うべきか不幸にしてと言うべきか、”呪いを受けた”とされた当時に開発されたばかりの毒物・薬物検出剤の実験体としてイルカがいいように使われていたことが判った。 開発途中の貴重なデータとして、幾つかの丸薬状の検出物も保存されていた。 紅から偶然提出された、極最近イルカから取り出されたのだという検出物からその事に思い至った綱手は、八年前のそれらを探し出して最近のそれと併せて一つ一つ調べ直し、当時では解析できなかった毒物を微量だが検出できた。 それは蛇毒の一種で、興奮作用と幻覚誘発作用があり、性ホルモンの分泌も狂わせる働きが認められた。
「あの薬は開発当時は使い物にならないくらい副作用が酷くてな、今は随分改良されているんだが、それでも発熱・発汗を伴う。 聞けばイルカは相当苦しんだらしいな?」
「ええ、酷かったですよ」
「残りを持っていたとはな。 取り上げねばならん。 あれは今では木の葉の有名な秘薬だ、逆にな。 あれのお陰でくノ一が毒を盛られる確立がガクンと減ったんだぞ。 まぁその所為で他国の秘薬盗りはまた大昔の方法に戻ってしまったが、こういうのを抑止力と言うんだ。」
そう言って綱手は得意そうに笑った。 任務遂行よりもくノ一一人ひとりの命を貴んでくださっているその本音を垣間見て、カカシはイルカを危ない薬のモルモットにされた怒りの矛先を下げざるを得なかった。
「潰された祠の調べもついている。 あれは神を祭ったものではなく、かなり昔にあの地を騒がせた大蛇の妖魔を封じた祠だったらしい。 ヤツはイルカ達が来るまであそこに鎖で繋がれて、獲物がうっかり入り込んでくるのを細々待っては餌食にしていたのだ。 それが、禄に調べもしないで祠を潰してしまった。」
「と言う事は、その妖魔は今、解放されてしまったと?」
「そういうことだ。」
「では、あの部隊の禍蛇騒ぎも」
「多分その妖魔の仕業だろう。 淫気を吸う妖魔は多いが、蛇の妖魔はその代表格だ。 恐らくイルカ達がその祠でなんらかの枝を付けられて部隊に戻り、それを辿って後から入り込まれたのだろう。」
「既にその時の誰かが成り代わられていたのでは?」
「いや、あの祠が壊されたのは偶然だ。 それに破壊されたのは救出の後だ。 それまでは結界から出る事はできなかったはずだ。」
「とすると、後から態々あの部隊を探し出し紛れ込んで、隊員を禍蛇の症状に侵し、イルカ先生の所に五年措きにやってきては堪った淫気を一旦イルカ先生に吐き出させていたと言う事ですか? 態々そんなことを何故? その場で身体ごと喰らってしまいそうなものなのに」
「その通りだ。 何故そこまで面倒な手順を踏まなければならなかったのか。 何故イルカでなければならなかったのか。 その辺のところは全く判らん。 ただ、同じ人間でも霊力の高い人間がいるらしいからな、手っ取り早く妖力を取り戻したければそういう人間を襲う方が効率的だろう。 イルカがそうだとすれば判らなくはないが、それだとて数を粉せば良いだけの話だ。 態々危険を冒して忍の者に近付く必要もないように思える。 実際、奴を何百年も封じてその妖力の殆どを失わせるような憂き目に遭わせたのは当時の忍の者らしいからな。 狡猾な蛇の妖魔にしては少々迂闊な気さえする。 それに、イルカがもし格段に霊力の高い人間だったとしても、おまえの言うように何故その場で喰らってしまわなかったのか? 肉体ごと魂を喰らうのが最も効率の良い摂取方法のはずだ。 何かイルカを生かしておかねばならない理由があったはずだ。 そしてイルカに禍蛇を溜めさせたかった理由もな」
「でもイルカ先生は、その事がトラウマになって、それ以来誰とも性交渉を持てなかった。」
「そうなのか?」
「はい、本人がそう言ってしました。」
「それでか…。 どうやらあの隊の禍蛇騒ぎは、真面目なイルカが俗世で禍蛇を溜められなかった為に弄された、ヤツの苦肉の策という訳らしいな。 なるべく忍の里に自ら近付く事無く、最後の瞬間だけやってきてイルカに堪った淫気を吸っていたと。」
「ではやはり、あの”英照”とかいう陰陽師が?」
「恐らくな。 あの隊の中に隊員の一人として潜伏しているという線も捨て切れないが」
「ですが五年に一回だけと言うのは何か不自然な気が」
「今ひとつ説得力に欠けるな。 イルカに拘る理由、危険を冒し手間を掛けてでもイルカに禍蛇を溜めたかった理由には弱いか。 これは多分に人間的な考え方だが、イルカは余程その妖魔に気に入られてしまったのではないかな」
「妖魔が、人間をですか?」
「そうだ、封印から解放され後イルカを追って来るほどにイルカに執着し、何年も掛けて体を仕込もうとしていたとしたらどうだ?」
「だとしたらイルカ先生は…、ヤツはイルカ先生をどうするつもりなんでしょう?」
「私に聞くな。 妖魔の考えなど判るか。 だがな、人間的思考で推測すると、ヤツの最終的な目的はイルカを娶ることだ。」
「娶る? 雌として番おうとしているって言うんですか?」
「だから、”番う”という考え方が多分に人間的だが、と言っている。 もっと高次元の肉体を離れた欲求であることには違いないと思う。 妖魔は人間に比べればずっと霊的な存在だからな。」
「でも、でもイルカ先生は男ですよ?」
「だから何回も言うが、それは人間としてだろう? 妖魔は肉体的な繋がりより霊的な繋がりを求めるものかもしれんし、イルカが男だからどうだというのだ。 そもそもおまえがそれを言うのか?」
「いえ…、いいえ…」
カカシは頭を振りながらも、何かが引っ掛かって仕方が無かった。
「まぁこれは私の一つの推測に過ぎない。 もしかしたら部隊の中に妖魔が巣食い、里の転覆を図ろうとしていてイルカは唯それの橋渡しに利用されただけなのかもしれん。 その方が受け入れやすいな。」
「そう言えば、あの隊長の男、どこか雰囲気が他の隊員と違っていた。」
「斉場カズキか。 どんな風にだ?」
「俺が見た限りでは、隊長以外は割りと普通に見えました。 殺気立つ事も無く俺の挑発にも乗ってこなかった。 殺気立っていたのはアイツ一人だけだったし、どこか獣じみていました。」
そうだ、自分はあの隊長の態度が他の隊員と違うのに苛ついているのだ。 あの男だけが何か違う。 奴だけには、どうしてもイルカに触れて欲しくなかった。
「奴が妖魔に乗っ取られていたとしたらどうでしょう。 部隊に禍蛇を蔓延させるのも簡単だ。 引き連れて里に戻り、イルカ先生を拉致って行ったのでしょう?」
「ああそうだ。 この私の目の前でな! だが、カカシ、そのような状況下で殺気立たない方がおかしくはないか? 獣じみていたと言うが、その禍蛇が堪った状態もそのようなものだと聞くぞ。 斉場カズキという男は統率力も有り下の者にもよく気配りが行く人間だ。 部下を差しおいて自分が先に禍蛇を落とすとは思えん。」
「ですが…!」
その時、あの居酒屋のトイレでイルカに絡んでいた男の顔がふっと浮かんできた。 イルカの為なら相手が”車輪眼のカカシ”だろうが誰だろうが自分は引かないと言う、強い意志が現れた目。 あの目と同じなのだ。
そうか…!
あの男も、隊長の男も、イルカを本気で想っている事が伝わってきて自分を苛つかせていたのだ。
これは唯の嫉妬だ…
「それにな、少し気になる事があるのだ。」
綱手はそんなカカシにはお構いなく、どんどん話を進めるつもりのようだった。 それがカカシを我に返らせた。 そうだ、本人に聞く以外に判るはずもない事で頭を寄せ集めている時間など無いのだ。 あと三人と言っていたではないか。 一晩で三人が普通のようだった。 とすれば、今夜にも”英照”が来る。 カカシは急に息苦しい程の焦燥感に襲われた。
「五年前に三代目がイルカのために手配した暗部が二人、行方知れずになっていたそうなのだ。 どうも英照を捜させていたらしい。 それがまだアカデミーを出たての双子の姉妹だったと言うんだが、優秀でな。 直ぐに暗部にスカウトされて二年目くらいだったというから当時15・6歳だ。 調べさせた。」
「……それで、どうだったんです?」
その美しい柳眉を辛そうに顰め、なかなか続きを口にしない綱手に焦れてカカシは苛々と先を促した。 一人置いてきたイルカが無性に気になり出した。
「遺体で見つかった。 二人とも顔を盗まれていたそうだ。」
「顔を? でもそれは確かにその二人だったんですか? そうやって死体を偽装する遣り方は抜け忍がよく使う手ですし、暗部だって任務によっては自らの死を偽装工作することもあります。」
「確かなことは現在確認中だ。 何分死体が古くてな、解るまでにはもう少し時間がかかる。 だがもしあの死体が本当にその二人だとして、件の妖魔本人が乗り込んでいなくても、手下の者が顔を盗み成り代わって木の葉に、いやあの部隊に入り込んでいる可能性もある。」
「五年前その英照が来た時、そいつがイルカ先生の体内から蛇を二匹取り出した…」
「私もそう聞いた。 当時の報告書にもそう記載されていた。」
「……くノ一が、最近入隊したという報告があったんですか?」
「あの隊は入れ替わりが激しい。 若い者の補充はこの五年で何回かあったが、今くノ一は居ないはずだ。 だが、人間の我々でさえ姿形だけなら変化など造作も無い。 加えてあの部隊は身寄りの無い者の集まりだ。 身元の調査などしないに等しい。 おまえが疑うように隊長が妖魔に乗っ取られているという最悪な事態でなくとも、あの隊は禍蛇に侵されているばかりでなく、半ば妖魔のコントロール下にあると見ておいた方がいいかもしれない。 そのつもりで準備もさせている。」
そこまで先んじているとは、とカカシは普段不真面目な五代目火影をやや見直した。
「だが、問題はイルカだ」
そうだ、イルカをあのままにさせておく事はできない。
「禍蛇が溜まったままの状態にしておく訳にいかないからな。 英照が禍蛇を祓えると言うなら、やってもらおうではないか」
「綱手様!」
「落ち着けッ」
火影の一括にカカシは黙るしかなかったが、イルカを囮にしようとしている事だけは明白で、目も眩むばかりの怒りを抑えるのがやっとだった。
「奴がいつ来るかさえ判ればそう危惧することも無かろう。 出し抜かれぬよう準備も万端整いつつある。 奴を封じるための封印陣の調査もこの私が直々にしてきたのだ。 ここは一つ協力してくれ。」
「……奴は恐らく、今夜来ます。」
「なんだと? 何故判る?」
「あと三人と言っていました。 今晩中にあの隊の禍蛇は全てイルカ先生に移り、英照が来る。 多分…」
「馬鹿者! 何故それを早く言わん?!」
綱手は立ち上がって叫び、側の者に忙しく指示を出し始めた。
「カカシ、今イルカはどこに居る? どうしている?」
そして振り返って問うた。
「…俺の、家に…ひとりで」
「カカシ!」
・・・
『隊に潜り込み、食事でも色仕掛けでも何でもいい、毒を仕込んで暗示をかけ、禍蛇なるものが見えると思い込ませる。』
綱手は暗部一隊と医忍1チームの早急の手配を約束してくれた。
『イルカを抱けば禍蛇は落ちると思い込まされ、五年毎にイルカを抱きにくる男達。 里で禍蛇を溜められなかったイルカの腹の子にそうやって餌を与え、頃合を見計らって迎えにくる…。 これを繰り返して仲間を増やしていく、それが奴の計画だったのかもしれん』
綱手自ら、妖魔封印のために動いてくれるとも言ってくれた。
『隊長の斉場カズキという男が、意外とイルカとの繋がりが深かったことも判った。 九尾来襲の夜に薙ぎ払われ焼け野原にされた一帯の生き残りの子供の一人で、イルカの幼馴染だったらしい。 お互いを大切に思い合う気持ちを利用されたのだろう。 その男のためならイルカは身を投げ出すと、ヤツは計算したのだ。』
あとはイルカが自分の家に居てさえくれれば。
『繁殖の為にイルカの体を利用しようとしたのなら、殺さずに置いた理由も説明がつく。 禍蛇はその餌だった。 腹の子が育つのに四・五年かかった。 そう考えるのが一番妥当そうだ。 だとすると、正体がバレたと知れれば奴は必ずイルカを攫おうとするだろう。』
居てくれ、居てくれ、居てくれ!
『長老会の態度も気になる。 私に今回の件での説明が一切なかったのだ。 三代目が唯の調査に暗部を使ったと言うなら、それは五年前にもこの件に関して里の中枢との間に何らかの軋轢があったと見てもいいかもしれない。 おまえも在籍していたのなら判るだろうが、暗部の特殊性は暗殺を主に請け負う所に有る訳ではない。 その命令形態こそが暗部の存在意義だ。 火影の命だけ聞き絶対服従する。 喩え里の中枢の方々であろうと、他の者が彼らに命令を下す事ができないばかりか、その構成メンバーさえ知らされていない。 それが暗部だ。 まだ何か裏がある気がする。 だがとにかく今は…』
今は走れ。
だが、走るカカシの足は自宅の手前でギクリと止まった。
イルカの気配が無い。
イルカも忍だ、気配が読めないだけかもしれない。
「イルカ先生っ」
カカシはガランとした自分の寝室でしばし立ち尽くした。
その男のために、体を投げ出しに行ったのか
その後、妖魔に妻として連れ攫われてしまうかもしれないというのに
そんな事はさせない!
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