淋しい兎は狼にその身を捧げ
- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -
10
”感謝”という言葉がカカシには不満だったが、今のイルカにしてみれば精一杯の表現なのだろうと思われた。 顔や項を朱に染めて恥らいながら、今まで封じ込めていた気持ちの一端を覗かせてくれただけでも善しとしようと諦めて、カカシはまだ残っている疑問を解消すべく、質問を続けることにした。
「そうやって禍蛇を引き受け続けて、あなたはどうなったんですか? 今こうして、あなたはまた同じ目に遭っているけど、五年前は何とかなったと言う事ですか?」
「はい、でも俺は覚えてないんですけど。」
「? と言うと?」
「五年前も、結局俺が部隊の全員の相手をしたんですが、最後の一人が済んだ時はもう俺、意識がはっきりしないほどで、正直このまま狂って死ぬのだと思いました。 でも気がついたら禍蛇が落ちていた。 最初に祠で呪いを受けた時と同じです。 部隊の者も俺をどうすることもできなくて、俺のいたテントには一緒に呪いを受けた生き残りの二人が居ただけだったらしいんですが、彼らの言う事には、突然陰陽師が一人現れて俺の禍蛇を祓ってくれたって言うんです。 その人は、俺の中から大きな蛇を2匹取り出してこれが原因だと、蛇神の呪いで禍蛇というのだと言ったそうです。 実はこの現象が禍蛇の呪いである事もその陰陽師から教えられたんです。 それまでは原因もよく判っていなくて、ただ里の外れに隔離されていたのですが、その必要もない、ただこの禍蛇は俺にしか落とせない、と言われたそうです。」
「その陰陽師は?」
「禍蛇を祓うとまたどこかへ行ってしまって、どうしても行方が掴めませんでした。」
「氏素性も判っていない?」
「名前が”英照”殿と名乗られた以外は何も」
「今回現れるかどうかは?」
「いえ、また五年後に来ると、言い置いて行かれたそうですが、まだお姿は…」
「…」
カカシはまた黙り込んだ。 都合の良すぎる話しだと思ったからだった。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる、と言いますが、将にそんな感じでした。」
カカシが沈黙している間、イルカは少しだけカカシの寝室を見回し、だが直ぐに先程寄り深く俯いた。 もう決してこれ以上は見ないと心に決めたかのように。
「禍蛇の呪いであること、俺にしか落とせないものであること、祓える者が居り素性は判らないものの五年後にはまた来るらしいこと、祓われてしまえば全てが元通りになること…、それならまた五年後まで待ってみようと、結論を先送りにしてしまいたがるのが人間ですよね。 必ずしもまたその部隊が禍蛇に侵されるとは限らないし、例え同じ状態になっても方法があると言う安心感が、問題を軽く見せるんでしょうか。 中枢の方達は、部隊の者達の苦しみも俺の苦しみも、何も無かったことのように済ませてしまわれました。 時代も悪かったですし。 俺達自身、五年という年月は微妙な長さでしたから、忘れることもできませんでしたけど、取り敢えず今は考えないようにしようという気持ちになりました。 そして今が五年後です。 三代目だけは、密かに何か手を打ってくださっていたようでしたが、今はもうその三代目も亡くなってしまわれました。 あの時の生き残りも、俺と現在の隊長をしている男の二人だけです。 でも今、部隊の男達はほぼ全員、禍蛇の症状に悩まされています。 里に戻れば俺がいる、それだけを支えに還ってきた彼らを俺がどうして拒めるでしょう。」
俯き、膝に置いた両手を固く握り締め、イルカは話した。
「五代目の目の前で攫われたそうですね」
「はい。 部隊帰還の連絡が入った時、俺が出迎えるようにという要請付でしたので受付に入っていました。」
「あなたは…、彼らが来るまでは、その、禍蛇が溜まらなかったんですか?」
「それは…」
ふと思った疑問は、カカシにしてみれば至極尤もな疑問だったが、イルカはあからさまに困惑を浮かべ、また少し顔を赤らめた。
「俺は、この五年間誰とも性交渉を持っていませんでしたので」
「え? 五年間ずっと?」
「はい…。 女性とはとても…、それに抱かれるのも怖かった。 里の者でも禍蛇の溜まっている人がいるんです。」
「…」
これにはカカシの方が困惑した。 イルカの境遇と性格を考えれば容易に想像できた事だったかもしれないと、酷な質問をした事に対して後悔の念が湧いてきたが一方で、嬉しくて仕方が無い自分が居て顔が綻びそうになるのを抑えるのが精一杯だったほどだ。 彼の境遇は同情して余りあるが、彼が今まで誰の手も取ってこなかった事だけは確かなのだ。 では、自分が一昨日拒まれたのも同じ理由からなのだろうか。 否、イルカは自分には禍蛇は見えないと言っていた。 それに自分には移したくなかったとも言った。 既に禍蛇が堪った状態にあったからなのか。 ならば、もっと前に迫っていたなら、結果はどうなっていたのだろう?
「あの時、俺はある程度覚悟していたんですが、五代目は本当に何もご存じなかったみたいで」
イルカは、矛先を逸らすかのように話を戻した。
「後で問い詰められて困りましたし、驚きました。 長老会の方からとっくに話が通っているものと思っていたものですから。」
「事勿れ主義ですからね、彼らは。 でも何故直接説明しなかったんですか?」
「俺からは何も言うなと、長老会のほうから…」
カカシは溜息を吐かずには居られなかった。 イルカはそんな自分をチラと上目で見るとまた直ぐ俯いた。
「本当は、あなたにもこんな話、してはいけないんですけど」
イルカが溜息を小さく吐いて項垂れる。 だが先が気になった。 聞かずには居られなかった。
「攫われて、どうしたんですか」
「え?…」
カカシが低い声でぼそりと問うたので、聞こえなかったのかイルカは問い返した。
「五代目の目の前から拉致されて、その後どうされたんですか」
「…あの後は…」
イルカはコクリと喉を小さく鳴らした。 そしてまた俯いて、指の関節が白くなるほど毛布を握り締めた。
「あの後、駐屯地に連れていかれて、全員の前でひとりの禍蛇を落としました。 中には男を相手にするのに抵抗のある者もいますし、本当に俺を抱いて禍蛇を落とせるのか信じられない者も多かったらしくて、隊長に悪いが見せてやってくれと頼まれて、実際は考える時間も無いほど直ぐに症状の酷い者の相手をさせられました。 彼らは、その男の禍蛇が俺に移り、獣のようだった男が嘘のように正気に戻るのを目の当たりにして、それで…、次から次へと、その晩の裡に何人も、何人も…俺を抱きました。」
「一度に複数の相手をさせられたんですか」
一昨日の晩見たイルカの体にくっきり残った手形を思い出して、カカシはまた頭の芯がくらりとするほどの怒りを覚えた。 イルカはその剣呑な雰囲気を読んだのか、慌てたように否定した。
「ち…違います、一度には一人で、何人も一度にと言う事は今まで一回もありません。 それに、呪われた直後のような獣の交わりのような事は全然なくて、皆大事に扱ってくれたし、一回俺を抱いて禍蛇を落とすと本当に憑き物が落ちたようになって、俺に謝ってくれる人さえいて…。 彼らは本来は本当に普通の、俺達とどこも変わらない忍の部隊なんです。 あんなに転戦を重ねていながら無益な殺戮に耽るようなこともなければ、里にこんな冷遇されても反乱を起こすこともない、ただの普通の任務に忠実な男達なんです。 あんなことさえなければ…」
「庇うんですか?」
「カカシ先生に彼らと事を構えて欲しくないだけです。 彼らは同胞なんですよ? お願いします、昨日のような事は、どうか…」
「聞けません」
「カカシ先生…」
「俺は、あなたが理不尽に誰かにいいようにされる限り黙っていません。」
「理不尽ではないと、今お話しました。 それにあと三人なんです。 カカシ先生のお気使いには感謝しています。 でも俺は」
「いいえ!」
カカシはイルカの言葉を遮って首を振った。 ”感謝”という言葉を再度使われて、それもまた気に喰わなかった。 これだけ鳴り響くように心の声で愛を告げられているカカシにとっては、それは物足りないと言うよりも嘘を吐かれている気分だった。
「俺はあなたが欲しい。 感謝は要りません。」
態とイルカの困る事を言ってやると、イルカはいつものように絶望したような顔をしてカカシを仰ぎ見た。
「俺がこう言うたびにそんな顔されるのにも、もう慣れましたよ」
皮肉だったろうか、苦笑しながら正直な気持ちを口にすると、イルカは少し顔を青褪めさせて初めて言い訳をした。 今まではただ、拒否され無視されるだけだったのだが。
「あなたが最初にそう仰られた時、既に部隊が帰還する連絡を受けていました。 俺には五年前の繰り返しになることが判っていましたし、あなたに対してはもう、とても失礼な態度をたくさんしてしまって…、申し訳なくて…。 でも直ぐに諦められると思ってましたし、だから、あの…、俺もあんなに何回もあんな失礼を働くつもりは全然なかったんです。 ほんとです。 でも、そうこうしている裡に部隊は還ってくるし、あなたは…」
「俺はしつこいし?」
「すみません、でも、他にどうすることもできませんでした。 わかってください。」
最後は消え入るような声だった。 イルカは泣きそうな雰囲気を漂わせてはいたが、泣かなかった。 ただ苦しそうに、この世の終りのような顔をして必死で言い訳をした。 カカシの求愛をすげなく断る時いつも見せる、あの表情をして。
「よかった。 俺は嫌われていた訳ではないんですね」
「そんな! そんな…」
ハッと顔を上げて否定したイルカは、だがまた直ぐ俯いて力なく首を振った。
「あなたが俺を嫌ってくだされば、よかったんです。」
「俺は、あなたが、好きです。」
カカシは態と一句一句切ってイルカに告げた。 イルカの顔がまた苦しげに歪む。 だが今は、その表情の中に微かな喜びと縋る眼差しを見つけられる気がした。 だから続けてイルカに追い討ちを掛けるような言葉を、つい言ってしまった。
「俺はあなたが欲しい。 あなた自身も、あなたの心も、信頼も、愛も。 全て欲しいんです。」
だが言った途端、イルカは心底絶望的な顔をした。 鈴の音のような心の声も止まってしまった。
「あなたは…、あなたは唯、目の前で鳶に油揚げを攫われたような気になっているだけです。 たいした物でもないものが、なんとなく惜しくなっているだけで、一回その手にしたら判るんです。 なんだこんな物だったのかって…」
「俺のこと、判ったような口利かないでください。」
「あなたこそ! あなたこそ、俺があなたにさっきみたいに言われる度に、どんな気持ちになるか知りもしないで!」
「どんな気持ちになるって言うんです?!」
「俺は…、17でこの呪いを受けてから今までずっと、誰も、誰とも、あなたの欲しがるような、愛とか信頼とかそんなモノを育むような関係になったこともなければ、なれるとも思って生きてきませんでした。 今更、期待を持たせるようなこと、軽々しく言ってもらいたくないっ」
イルカは喘ぎ喘ぎ叫ぶようにそこまで言うと、ついに両手で顔を覆って嗚咽した。
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