淋しい兎は狼にその身を捧げ
- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -
9
「呪いなんです。」
「呪い?」
「信じていただかなくても、結構ですけど…」
イルカはポツポツと話し出した。
「俺は中忍に成りたての頃、ひとつの任務で酷い失敗をして自分以外の仲間を全て失い、俺自身も長く敵方の捕虜になりました。 その時の事は、実はほとんど記憶が無いんですけど、三代目のお陰で里に戻ってからも中々まともな生活に復帰できなくて、あの部隊に入りました。 今と違ってあの頃は、全てがとても殺伐としていて、あの部隊はそんな時代の皺寄せとでも言うんでしょうか、いつ死んでも困らないような身寄りやパートナーの無い者達の集まりで構成され、いつも前線の最先端に投入される使い捨てのような部隊でした。 命を落とす者も多く、入れ替わりも激しかった。 でも皆、荒んだり捨て鉢になったり殺しに酔ったりもしなかったし、任務を疎かにするような者も一人も居なかった。 お互いを支えあって、それなりに必死で生きていました。 ただ俺と同じで、もう普通の平和な生活には適応できない、そんな者達の集まりだったんです。 戦場から戦場へ、来る日も来る日も渡り歩きました。 偶に里へ帰っても、里中に入ることは極力避けて、幻術で隠した駐屯地でほんの僅かな安眠できる夜を満喫するくらいでした。 今の彼らとおんなじです。 俺には彼らの気持ちが痛いほど判ります。」
イルカがあの部隊に昔いた事は驚きだったが、何か繋がりがある事は察していたので漸く合点がいった気持ちだった。 前線の戦忍の気持ちも、カカシが知らないはずは無かった。 ただ、カカシは単独か少数で動くことが殆どだったし、捨て駒扱いされた経験も無かった。
「あの日俺は、他の仲間四人とある祠に調査に出されていました。 その祠は戦場のど真ん中にあって、信仰も敬意も、何も払われていなかった。 だから、時々起こる戦況の劇的な変化の原因がその祠にあるのでは、と追い詰められた上の者が藁にも縋る思いでそんな事をさせたんだと思います。 俺達はそこで呪いを受けました。」
”呪い”
最近めっきり聞かなくなったその単語を反芻して、カカシは首を傾げた。
「でも、呪いならお祓いとか、逆に対処法は決まっているでしょう?」
「はい、普通ならそうしたと思いますが」
「が?」
「俺達の掛けられた呪いは、禍蛇の呪いだったんです。」
「カダ?」
「はい。 人の持つ心の穢れと言いますか、底に沈んだ澱と言いますか、それが溜まって鬼になるんです。 普通の人間にも必ずある煩悩の一つなので最初は呪いだとは解りませんでした。」
「鬼?」
「はい、それをいつまでも溜めていると、本人も鬼になってしまいます。 だから俺を抱いて禍蛇を落とすんです。」
「は? どうしてあなたを抱くとその、”カダ”?が落ちるんですか? あなたは何か血継限界か何かなんですか?」
畳み掛けるように質問を投げかけるカカシをイルカは少し黙って見つめると、ふっと微笑んだように見えた。 その途端、リィンと鳴るように「愛してる」と声が聞こえてきた。 カカシが穴の開くほどイルカの顔を見つめ返すと、イルカは俯いて視線を外し、また話し始めた。
「その祠の祭神は蛇神でした。 性欲を司る神です。 ですから、そこでかけられた呪いは、人の煩悩の内の”性欲”だけを特別に肥大させるものだったんです。 呪いを受けた直後から、俺は発情期の蛇の雌が数十匹の雄に一度に絡みつかれるように、幾日も幾晩も他の仲間に体を貪られました。 あの時は辛かったです。」
カカシには言葉もなかった。
「蛇神はどうしてか俺を雌に決め、他の者を雄に決めた。 俺は禍蛇を引き受ける者、彼らは禍蛇を溜めては俺を抱く者、という関係になったんです。 俺達には溜まった禍蛇が蛇がトグロを巻いているように見えます。 自分の下腹の辺りでぐるぐるとトグロを巻く蛇が徐々に大きく育つのを見ているのは、それはそれは苦痛です。 それだけで精神が参ってしまう。 皆狂ったように俺を求めました。」
「その蛇が見えるようになる呪いだったと?」
「そうです」
カカシは思わずイルカの腹の辺りを見た。 イルカはそれに気がつくと、そっと毛布の前を開いてカカシに体を見せた。
「見えますか?」
「いいえ、何も…」
カカシが首を振って傾げると、イルカはほっと吐息を吐いた。
「あなたに見えなくてよかったです。 それに、あなたの体にも禍蛇は見えません。 あなたは本当に、お強い方ですね。」
そう言ってにこっと微笑む。 カカシは首元から頬のあたりをイルカにふわっと撫でられた気がした。 耳元でそっと「愛してる」とささやき声がした。
「隊の他の者が捜索に来た時は全員ほとんど意識がなかったそうです。 捜索隊はもちろん呪いだとは思いも寄らなかった。 だから何か精神を狂わせる毒か何かの罠があるのだと断定して、祠ごとその辺り一帯を埋めてしまいました。 怒れる神を鎮めることも、呪いを解く方法を探すことも叶わなくなりました。 でも、意識が戻った時は何故か全員、禍蛇が落ちた状態に戻っていて、自分達ももう済んだ事だと、呪いは解けたんだと、その事を忘れました。 忘れたかったんだと思います、俺達全員。 だから、祠の事も気に掛けないまま、その場所を去りました。」
イルカの話は淡々と続いた。 カカシはじっと黙って話を聞いた。
「俺は特に体の衰弱が激しくて、その場で里に強制送還される事に決まりました。 別れ際、あの時一緒に呪われた仲間は皆元に戻っていて、俺のことを親身に心配してくれました。 悪かったと謝って、もう二度とこの部隊には来るなと、送り出してくれました。 俺は呪いはその場だけのものだったんだと思い込んで里に戻りました。 でも五年前、あの部隊が久しぶりに帰ってきて、俺のところへ来た彼らの顔を見た時、俺はそれが間違いだったと気付きました。 皆、あの時の禍蛇が溜まった獣の顔をしていたんです。 俺は、その日からまた彼らに代わる代わる抱かれました。 あの時一緒に呪いを受けた仲間は半分の二人に減っていましたが、どうしてか部隊全体に蔓延していて、結局隊の男全員の相手を強いられました。 俺は辛くて、その時火影だった三代目に相談しました。 でも、彼らの精神の破綻を緩和する方法が他になくて、三代目にもどうすることもできませんでした。 里はその時あの部隊を失う訳にはいかなかった。 仕方のない事でした。」
イルカの諦めたような表情を見ているカカシの方が痛い顔をしていると、イルカは少しそこで笑いさえした。
「直接呪いを受けた者が二人しかいないのに、何故部隊全体に呪いと同じ症状が蔓延してしまったのか、それが問題視されました。 もしかしたら禍蛇は移るのではないか、と。 部隊は転戦を重ねる、ある種閉鎖された組織です。 そんな中では性交渉を持たなくても移ってしまうのではないかと、里の中枢では部隊の殲滅さえ検討されたようです。 でもあの部隊は惜しい。 禍蛇は怖い。 それで、部隊の者が里に入ることを禁じて俺に相手を…」
「お祓いとか、お清めとか、誰か徳の高い聖か陰陽師あたりに頼んでみたりしなかったのですか?」
「もちろん、考えられる方法全て試しました。 最初は毒・細菌の類を疑われましたから、毒の検出や薬物療法をいろいろ試されて、お祓いも何度か受けましたが、どれも効果が無かったんです。 それに部隊の者達の精神状態にあまり余裕が無くて、とにかく俺に彼らの禍蛇を落とさせて、俺の方の対処は継続していろいろ試す事になって」
「どうしてもあなたじゃなければならなかったんですか? 性交で落とせるんでしょ? その道のプロが居るんだし花街から何人か連れてきて…」
「カカシ先生」
イルカがカカシの言葉を遮るようにカカシを呼んだ。 顔付に若干非難めいた色がある。 本音を言えば、バカ正直なこの人には二度と口を聞いてもらえないような冷酷な事まで考えていたカカシだったが、話を余計な方向の拗らせるつもりはなかった。
「…すみません。 別に彼女らがどうなってもいいとか、そういう意味で言ったつもりはありませんが、禍蛇が人の心に巣食う煩悩の内の性欲の歪んだ形だとして、彼女らは日常的にそれを受け入れているプロだと思うんです。 それでも彼女らは逞しく生きている。 何か耐性のような物があるとか、少なくともあなたより受け入れるのに向いている。 だってそもそも”女”なんだし」
「そうですね」
イルカはポツリと呟いて暫らく俯いていた。
「俺は男です。 受け入れるようにできていません。 正直、辛いです。 体も、精神的にも。 でも」
でも、と言って顔を上げ、イルカはまた少し微笑んだ。
「実はそれも試したんです。 でも、だめでした。 彼らが他の者と性交渉を持っても、禍蛇は移りもしない代わりに落ちもしませんでした。 実際、禍蛇が移るのはあの時一緒に呪いを受けて雌にされた俺だけで、それに本当に余裕がなかったんです。 皆、狂ってしまう寸前で、特に目の前に禍蛇を落とせる俺がいる状況で、彼らのフラストレーションは一層高まっていました。 仕方なかったんです。」
「………」
カカシは長く黙り込んだ。 過去のこととは言え、目の前の自分にとって特別な人が、そのような目に遭っていて誰にもどうしようもなかったという事実に遣り切れなさと焦燥を覚えた。 今将にその状態にあるのだ。 だがイルカは、そんなカカシを知ってか知らずか、俯いて小さな声で告白し始めた。
「さっきもですけど、あなたが俺を抱いて眠った夜も、俺はあなたに俺の禍蛇が移りはしないかって、すごく心配で…。」
心なしか、イルカの雰囲気には今までになかった感情の揺れが感じられた。
「セックスはもちろんですけど、接吻けとか俺に触るだけでも何か影響が出ないかと、とても怖かった。」
「それであんなに拒んだんですか…」
「はい、あなたにだけは移したくないんです。」
「でも、移らないって今言ってませんでしたか?」
「いえそれは、禍蛇を落とす方の雄の者達が他の、例えば女とかを抱いても移らなかったという話で、禍蛇を引き受けている状態の俺を正常な誰かが抱いたり、俺が女を抱いたりした場合のデータはありませんから。」
「試さなかったんですか?」
「まさか!」
イルカは吃驚したように首を振った。
「しませんよ! 抱く側が誰かに禍蛇を移しても、最終的に俺を抱けば禍蛇は落ちます。 でも俺から移った禍蛇は誰が引き受けるんですか? そんな事誰も怖がってしませんよ。 俺だって誰かにこんな苦しい思い、させたくありません。」
「……そんなに、苦しいんですか?」
「………」
「イルカ先生?」
「苦しいです。」
「どんな風に?」
「体中に蛇が何匹も絡まりついて、這い回るんです。」
「…」
「蛇は一人に抱かれる毎に増えていきます。 普段、日中はおとなしくしていて仕事もできますが、夜間は俺の淫気に反応して動き回るんです。 俺がうっかり欲情してしまうと、体中を這い回って、体の中まで犯されて、それがまた欲望を生んで…。 終りがない責め苦に苛まれて気を失うまでそれが続くんです。」
「それで、紅の薬にあんなヤバイ薬で対処したんですか」
「あの薬は、副作用は激しいですがよく効きますから」
「何であなたがあんな薬持ってたんです?」
「この呪いがまだ呪いだと信じてもらえなかった頃、薬物中毒を疑われてあの薬を何回か試されました。 結局何も検出できなかったんですけど」
「そうだったんですか…」
カカシは腕を組んで唸った。
「今は? 平気なんですか?」
「昼の間は比較的。 昼の間は比較的。 禍蛇を引き受けた直後は、口では言い表せないくらい苦しいんですけど、眠って起きると落ち着きます」
「ふーん。 でもじゃあ一昨日の晩、俺が無理言って泊った時はかなり迷惑でしたね」
「そんな、そんなことありません!」
イルカは慌てたようにふるふると首を振った。
「あの時は、あの薬の所為で欲情するような事は俺には無理だったんです。 俺もそれが判っていたので、あの…」
カカシは、俯いて必死になるイルカの赤らんだ項と頬を上から見つめて、少し感動していた。
「…あの、カカシ先生には本当にご迷惑お掛けして、でも、思ってたより随分苦しかったので助かりましたし、それに…」
「それに?」
「あの…、あの晩は久しぶりにとてもよく眠れて、安心したって言うか…、その…」
「ん」
「…」
イルカは赤い少し潤んだ目でチラッとカカシを上目に見ると、更に深く俯いて、聞こえないような小さな声でぽそっと呟いた。
「感謝、しました。 とても」
その言葉とは裏腹に、リィンリィンとイルカの愛の囁きが部屋の空気を震わし、溶けていった。
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