淋しい兎は狼にその身を捧げ
- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -
7
「これなんだけど」
掌にコロリと例の黒い塊を載せて紅に見せる。 イルカの家を出た日の午後、上忍控え室でのことだった。
「触っていいの?」
「うん」
紅は、カカシの手からそっとその丸薬のような物を抓み上げると、目の前に翳してしげしげと眺めた。
「あの後、これをイルカが吐き出したって?」
「そう」
「熱とか出た?」
「うん」
「発汗は?」
「すごく」
「…」
紅は、黒い玉を抓んだまま目を眇めてカカシの顔を見た。
「なに?」
「あんた、イルカを手篭めにでもしたの?」
「してない」
「じゃあ何でそんなにシオシオしてるのよ」
「…」
「手篭めにしようとして手酷く拒まれた…ってとこ?」
「しらないよ」
「バカね」
一言そう言うと、紅はまた玉に目を戻した。 女はやだねぇ、と内心で嘆息し、頭をガリガリと掻いてソファに凭れる。 あの後自宅へ戻って、海よりも深く後悔したところだ。 もう取り返しがつかないかもしれない。 今度会っても、あの声は聞こえないかもしれない。 そう思うと堪らなかった。
「これは私がイルカに盛った薬だわね。 私が使ったのは液状の物だったんだけど、この回りの黒い皮膜の中に入ってるはずよ。 液体のままか固体かは割ってみなけりゃわからないけど。 これを作らせるために服用した人間の代謝機能を利用するの。 篭絡専門のくノ一が使うような薬よ。」
「あんなに発熱・発汗を伴うような薬、実用的じゃないだろうに。 今でも使われてるの、これ?」
「勿論よ。 他国の秘薬はそうそう入手できないもの。 相手に盛らせるのが一番簡単で確実な方法よ。 発熱すると言ってもちゃんと仲間の居る所まで戻ってきてから服用するのが普通だから、何も問題は無いのよ。」
「血中に摂取された後も取り出せるの?」
「そうよ。 代謝を利用すると言ったでしょ? そうでなきゃ使えないじゃない。」
「じゃあイルカ先生、何であんなに焦って飲んだのかな?」
「それは……」
そこまで言うと紅は言い澱んだ。 判らないのではなく、何か察しはついているようだったので重ねて問う。 イルカが何を考えているのか、ただ知りたかった。
「なんで?」
「私の盛った薬が強い薬だったからじゃないかしら。 アレはかなり効き目のきつい媚薬なのよ。 きっと効き始める前に何とかしたかったんだわ。 アンタが居る前で、乱れたくなかったんでしょ」
「…」
今度は自分が黙り込んだ。 昨日までならイルカの好意の証と受け止められたかもしれなかったが、今となっては拒絶の意思表示としか受け取れない。
「なんでそんな強い薬、イルカ先生に使ったんだよ? 相手、中忍だぞ」
「イルカにはあの類の薬が効かないって判ってたんだもの。」
「…なんでそんなこと知ってるんだ?」
「前にね、試したからよ」
「!」
「そんなに殺気立たないでよ。 イルカをくノ一の合コンに誘った時ちょっとね、いろいろ試させてもらったってだけよ。」
よくある話じゃない、と紅は肩を竦めたが、くノ一の飲み会には絶対行くまいと心に誓わせるのに充分な言い草だった。
「イルカはああ見えてよく鍛えてるわ。 薬の耐性は並じゃないし、酒もすんごく強かったわよ」
「二度とすんなよ」
「あら、それってまるで自分のモノだって言ってるみたいね」
「そんなんじゃ、ないけど」
「イルカ、人気あるものねぇ。 オチオチしてると誰かに掻っ攫われちゃうかもねぇ」
うふふっと含み笑いを漏らされて、益々気が滅入る。 今となっては、ただの冗談では流せない話だった。
「ちゃんと謝って、早く仲直りしたほうがいいわよぉ」
紅は揶揄うようにそう言ったが、目は真摯な光を灯していた。
その夜、イルカが攫われた。
イルカはアカデミーを休むどころかきちんと定時に出勤し、受付の業務が無かったことから定時に帰宅したことになっていた。 だが、カカシが家に行くとイルカは帰っておらず、アカデミーにもどこにも居なかった。 忍犬に臭いを探らせると、イルカの臭いと戦忍数人の臭いが入り乱れた場所があり、そこからふっつりと痕跡は途絶えていた。 だが行く先は判っている。 今までイルカの自宅で犯していたのが、昨晩カカシの邪魔が入ったことから、奴らはイルカを自分達の巣に連れ込んだのに違いなかった。 カカシは本部にとって返し、火影五代目に帰還部隊の駐屯地を訪ねた。 彼らのような戦から戦を渡って歩くような部隊の駐留する場所は、例え同里の者に対しても極秘とされていたからだった。
「私も知らん」
五代目は素っ気なく言い放ったままカカシと睨み合った。
「知らない訳ないでしょう」
カカシはいきり立ったが、殺気立つカカシを煩そうにいなしてから人払いをすると、彼女はいきなり本題に入った。
「あの部隊の居場所は本当に判らない。 厳重に結界と幻術で誤魔化されているし、三代目の代からそういう契約だったらしくてな、ある程度の自治権を持つ独立軍のようなものなのだ。 火影と言えど契約したからには侵すことは出来ない。」
カカシが黙り込むと綱手は溜息を吐いて座るように促しながら話を続けた。
「海野イルカの事なら承知している。 あの部隊が帰還した最初の晩に受付でイルカと奴らを迎えたのはこの私なんだからね。 奴らはイルカを一目見るなりこの私の目の前で拉致っていきやがった。」
幾分悔しそうに語る彼女もまた、イルカがそんな目に会う理由を知らないようだった。
「勿論調べたさ! 聞けば五年前もおんなじ状況だったっていうじゃないか、吃驚したよ。 あの三代目がイルカをそんな目に遭わされて手を拱いてただ見ていたとは思えないからね。 だが事実はおまえも知っている通りだ。」
「あの部隊と契約したのは三代目なんでしょう? イルカ先生の事も契約の内に入っているなんてことないでしょうね」
カカシが力なく問えば、綱手も頷いて腕を組んだ。
「私もそう思ったが契約書にはイルカの事は一切書かれていない。 だがイルカ本人に問い質しても貝のように押し黙るばかりだし、どうしようもなくってね。 もしイルカから被害届けなりを出してくれればこちらとしても動けるんだが」
「では、現状ではどうしようもない、と?」
「そうだ」
「場所も全く判らないと?」
「全くではない。 ここら辺だ、と言う報告は一応受けている。 だが…」
「それでいいですっ 教えてくださいっ」
「行っても何も無いぞ?」
「幻術でしょう。 俺には車輪眼があります。」
「うむ」
綱手は暫らく顎に手をやって逡巡していたが、一つ条件を出してカカシに情報を与えた。 それは、同胞同士での刃傷沙汰はご法度だという言われるまでも無い事柄だったが、今のカカシには守れるかどうか自信など微塵もなかった。
「あ、ああ…」
何も見えない場所から微かに聞こえてくるイルカの喘ぎ声。 左目の上から額宛をずらすと大型のテントが目の前に現れた。 そのテントが見え始めると、直ぐに全てが見えてくる。 回りには同型の大テントが数基設けられていた。 戦忍達が既にカカシをぐるりと取り囲んでいたが、殺気は無かった。 寧ろカカシの方がビンビンに殺気だっていた。
「そこで待っていてもらおう」
カカシがそのテントに近付こうとすると、何人かが前に立ちはだかった。
「どけ」
低く唸るようにして威嚇するが、前に立ちはだかる忍の数が数人増えただけだった。 彼らからは闘う意思は感じられず、カカシが刃を振るえばその場で切られる覚悟のようにさえ見えた。
---正当防衛は使えないか
出際、五代目にきつく戒められたこともあり、カカシは唇を噛んだ。
「んん、ああっ」
その時、イルカの声がはっきり伝わってきた。
「イルカ先生っ」
思わず一歩足を踏み出すと、突然イルカの声が止んだ。
「イルカがおまえの来たことに気がついた。 かわいそうに…」
「な、何を言う? おまえらがこんな事をしなければっ」
「昨夜の分もあるんでな、今夜は時間がかかる。 待っていてくれ。 終わったらイルカを渡す。」
「話を聞けっ そもそも何でこんな事をあの人にするんだ?! 何故あの人なんだ?!」
「かわいそうに、イルカはおまえには聞かれたくなかっただろうに…」
「…!」
話のできない相手と幾ら交渉しても無駄だ、とカカシは実力行使に出ることにした。 一歩飛び退いて戦闘態勢を取る。 だがその時、頭と思しき男が後ろから現れてカカシを制した。
「イルカは今我々の手の内だという事を忘れるな。」
「!」
カカシは顔を歪ませた。 その男はどこか他の者達とは違っていた。 この男ならイルカを殺るかもしれない、と思われた。
「明日の朝、返す。 一旦帰れ。」
「ここに居る」
「…好きにしろ」
殺気とは別の、何か狂気をその男から感じてカカシは引き下がるしかなかった。
イルカから目を離すべきではなかったと、その夜一晩、カカシはまんじりともせずに後悔の渦に身を浸し続けた。
BACK / NEXT