森の縁の家で


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 樹上で不貞腐れていると、イルカがよろめく足取りで森に来た。 捜しに来たのだろうか。 自分の居所があのイルカに判るのだろうか。 真っ直ぐにこちらに歩いて来た割にちっとも視線が来ないので、偶然なのだと知れた。

 何しにきたんだろう、こんな森の中へ、あんな体で…

 明方に出血するほど酷い抱き方をして、放置してきた。 イルカとのこの曖昧な関係に、普段はこれで充分だと思いながらも時々瘧のように、どうしようもない苛々が襲ってきて彼に当ってしまうのだ。 どんなに酷い扱いをしても、彼が何事も無かったかのようにまた受け入れてくれるので、それに甘えているのかもしれない。 いや、きっとそうだ。 愛している人に愛していると言えず、抱き締めて侶寝していたはずの人が腕の中に居ない。 翌朝早くの任務を控えての配慮だろうと、今なら判る。 だけれども自分は時々、こうしてどうしようもない不満を彼にぶつけ、態度だけで今のままでは嫌だと彼に訴えて、そうする事で彼に甘えて、そうして心の均衡を保っている。 そうしなければいられないほど、自分は彼を求めているのだもの。 でも、失いたくない。 それがジレンマなのだ。 斯く言う彼だとて、人が言うほど安定した精神の持ち主ではない。
 人は彼をぼんやりと呼ぶが、彼の心の時計は非常にゆっくりとしか動かず、人が感情の波に攫われて遠くへ連れ去られてしまった後も彼は、一人波打ち際で佇むだけなのだ。 心の障害と言えばいいのか。 魂の傷と言えばいいのか。 そうやって一人暮らしてきた彼に誰も気付かず今まできて、もうその傷は彼の一部となり取り除くことは叶わない。

「う…」

 少し離れた辺りでイルカは木に手を付き、呻いた。 寝巻きにしている浴衣姿のままだった。 肌蹴た裾から覗く白い足を赤い物が伝っている。 出血が止まらないのか…

「…さん」

 自分のしたことを眼前に突き付けられて今にもその体を支えようと飛び出しそうになった時、イルカが微かに誰かを呼んだ。 一回だけ。 口の形から、自分を呼んだのではないと知り、また枝の上で息を潜める。 なんて情けない。
 はぁはぁと喘ぐように肩を上下させながら、彼は更によろよろと歩いた。 時々立ち止まっては、また木に手を付いてきょろきょろと首を巡らせ、そしてまた歩き出す。 何かを探しているようだった。

「あった」

 ほっとしたような声音にこちらも幾分ほっとし、イルカが見上げる木を遠く見下ろすと、それは槐だった。 もう豆状の実が生っている。 イルカは手を伸ばしてそれを摘んだ。

 そうか、血止めか

 観念して、ふうと溜息を一つ吐き、ストンと木を降りた。 気配を隠さずに近付いたのにこちらに気付かないイルカの背後から、一生懸命頭上に手を伸ばす彼の腕を押さえて掴み、抱き寄せる。 熱を持った体が腕の中で身動いた。

「カカシさん」
「槐角なら干したヤツを俺が持ってますから」
「あ…、はい」

 言いたい事を察したらしいイルカが、ふぅーと自分の腕の中で力を抜き、そして凭れかかってきて、それがとても嬉しくて、どうしてもっと大切にしないのかと自分を責める。 イルカが自分を責めてくれたら、自分で自分を責めるなんてことしなくて済むのに。 理不尽な苛つきと判っていても、やはり湧いてくる感情は止められなかった。

「すみません、ストックが尽きちゃって」
「だって俺の所為だもんね、それ」
「はぁ」

 槐(エンジュ)は、忍には欠かせない薬木だ。 花を槐花(カイカ)、実を槐角(カイカク)と呼ぶ。 寒性で、止血・血圧降下・清熱・殺菌・鎮痛・強壮・利尿などの効果があり、特に実を乾燥させた物は肛門部の出血に効くとされている。

「毎年ここで摘んでるの?」

 イルカを側の木の幹に寄りかからせてから、その実を摘んでイルカが持参した袋に放る。 年季の入った薬草採取用の麻袋だった。

「はい、花も摘みに来ます。 他にもいろいろ…」
「自分で見つけたの? この辺じゃ珍しい木だよね。」
「場所は教わったんです。 父さ…いえ、あの…父から、小さい頃」
「…」

 そうか、此処は彼の…否、彼らの庭だったか。 さっき「父さん」て呼んだのか。 少し頬を赤らめて俯くイルカの顔を盗み見ながら、気分が驚くほど上向いていくのを感じて、自分の現金さに内心笑う。 ぷちぷちと豆を摘んでは袋に投げ込み摘んでは投げ込んで、全部は摘まず少し残してイルカを振り向くと、彼はふわっと微笑んだ。

「ありがとうございます」
「これで来年もいっぱいHできるね」
「はぁ」

 出血しないように抱いてやれよ、ともう一人の自分が呟いた。

               ・・・

 彼の家の煎じ薬用の土瓶もまた、随分と年季の入ったものだった。 九尾の吐く邪炎から奇跡的に焼失を免れた物なのかもしれない。 焼け跡からそれらを一つ一つ拾い集める少年の姿を想像して、カカシは慌ててかぶりを振った。 イルカをかわいそうだとは思いたくはなかった。 哀れみの対象にしたくはない。 愛したい、ただそれだけ。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

 湯呑に汲んで渡すと、それを両手で受け取り口に運ぶイルカ。 慣れているのか顔を歪ませないが、相当苦いはずだ。

「苦くないの?」
「苦いです」
「いつも飲んでたの?」
「はい」
「ごめんね」

 謝ると、ふっと顔を綻ばせて笑う。 先生の顔だと思った。 俺は彼にとって小さな子供と同じなのかもしれない。 頑是無い子供。 仕方ないな、と赦す存在。 愛情はきっとある。 でもそれは親の慈しみの方に近いのだ。 俺が欲しい、肉と欲で相手を縛る愛とは違う。

「綱手様から何か言われたのですか?」

 湯呑に目を落としたままこちらを見ずに、イルカが何気なさ気に尋ねた。 知っている? もしかして綱手の糞婆、この人にも同じ事言いやがったか。

「別に、なにも」
「そうですか」
「なんで?」
「なんだか苛々してらっしゃるから」
「朝起きたらアンタが居ないからだよ」
「俺、早朝から任務だとゆうべ…」
「その任務はどうしたの?」
「行けなくなったと連絡しました」
「アンタらしくないね」
「綱手さまから、アナタの事を一番にするようにと言われています」
「!」



 なんて残酷な人。





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