クープランの墓
- Le Tombeau de Couprin -
4
Rigaudon
第4曲:Rigaudon 「ピエール、パスカル・ゴーダン兄弟に捧ぐ」
カカシの居ない一週間。 四日目。
ルルルル…
電話が鳴っている。
今度こそ
切れる前に受話器を取らなきゃ
待って
もう1コールだけ待って
あと一歩だから
あと手を一伸ばし
「はいっ」
プツッ ツー・ツー・ツー・・・
また
また間に合わなかった
どうしてもっと早く走れないのだろう
どうして…
ルルルルルル…
あ、今度はこっちの部屋から
行かなきゃ
電話を取りに行かなきゃ
早く
走って
ドアをもっと速く開けて
「カカシさんっ」
プツッ ツー・ツー・ツー・・・
カカシさん…!
ルルルルルル…
よかった!
またかけてきてくれた!
今度こそ!
走る
走る
ドアを開けて
電話はどこだ?
あそこ!
走って!
もっと速く!
手を伸ばして
もっと遠くへ!
「カカシさんっ カカシさんっ」
プツッ ツー・ツー・ツー・・・
ルルルルルル…
・・・
ぷるるるる
ぷるるるるる
はっと目を開けると、ベッドサイドで携帯が鳴動していた。 バイブの振動でテーブルの上を這うように動いているのが目に入る。 手を伸ばし、慌てて相手を確認すると、先生だった。
『あ、もしもし? イルカ君?』
「はい」
『あーよかったー。 連絡がなかなかつかないから心配して。 どう? 調子やっぱり悪い?』
「あ… はい、ちょっと熱が。 すみません、今日はそちらへは行けそうもありません。」
『それはいいんだけど…。 キミ、今何時か判ってる?』
「え? えっと… あっ」
携帯のデジタル時計を確認して、イルカは思わず布団の中から上半身を起こした。 汗で濡れた体が急に外気に触れて湯気が立つ。 寒さとダルさが襲ってきた。
「すみません… 朝、起きれなかったみたいで」
『いいんだよ、いいんだよ。 昨日の帰り際に顔色悪かったから、多分具合が悪いんだろうって皆で言ってたんだ。 でも、大丈夫? 誰かそっちにやろうか?』
「い、いえっ そんな、大丈夫です。 ちょっと寝過ごしただけですから。」
『でも、今誰も居ないんでしょ? 紅ちゃん達も誰も、側に居ないんでしょ?』
「ええ、でもほんとに大丈夫ですから。 寝て起きたら大分良くなりましたし」
『ほんとう?』
ブルブルっと背筋に震えが走り、イルカは布団を被り直そうとしたのだが、冷たく冷えたパジャマが肌に貼り付いてとても寝直す気にはなれなかった。 携帯を耳に当てたまま、ようやっと体を起こしベッドから降り立つ。 ふらふらする体を叱咤して、ガタガタ震えながら居間まで歩いた。 もう午後だったが、午前中の日の名残か、居間にはまだ幾分温かい空気が残っていた。 少しほっとして、それでも慌ててストーブのスイッチを押し、今度は浴室へ向かう。 とにかく汗を流して着替えなきゃ。
「はい…、はい、大丈夫です、はい」
携帯に向かって何度も頷きながらシャワーのコックを捻る。
「いえ、とんでもないっ はい、はい。 え、いえそれは止めてください。 はい…そうします。 じゃあ」
カカシ達に知らせようかと言うのを何とか押し止め、やっと携帯を切って耳から離すと、風呂場全体にモウモウと湯煙が立ち登っていた。
「ううっ 寒い…」
体の震えは既に歯の根が合わないほどになっていた。 熱があるに違いない。 でも計らないでおこう。 シャワーして着替えたら、何か一口胃に詰め込んで薬を飲んで、それで寝ればいい。
「電話、寝室へ持ってけるかな」
寝室にも電話のソケットがあったはずだ、と思い出しながら、イルカは冷たく貼り付くパジャマを剥ぎ取るように脱ぎ捨てた。
・・・
おとうさん、どうしてその曲ばかり弾くの?
なんていう曲なの?
父が、バッハの無伴奏パルティータの2番のシャコンヌばかり弾くので、すっかり覚えてしまった。 母はそれを嫌がった。 母は今思うと精神的に不安定な人だったのだろう。 バロックのような対位法の曲よりも、和声法の曲を好んだ。 だから父は、母の留守などに集中的に練習していたように思う。
『とうさんのお友達と約束したんだ。 今度会う時に1曲づつ弾きましょうって』
その人は何を弾いてくれるの?
『バッハの無伴奏チェロ・パルティータの5番を弾いてくれるんだよ。 とっても上手なんだ!
とうさんがね、おねだりして弾いて欲しいって言ったら、じゃあ代わりにコレを弾いてって言われて、
それで練習してるんだよ。 ヘタクソだと恥ずかしいだろ?』
ふーん、いいなぁ
ボクも聞ききに行っていい?
『…』
父はちょっと哀しそうな顔で微笑んだ。
再びベッドに潜り込んでから、またウツラウツラと色々な夢を見ながらイルカは電話を待った。 こちらからかけるにはまだあちらは早朝過ぎるだろう、と我慢した。 夜になったらかけよう、夜になったら…。 そう思いながら、薬の力もあってまた深い眠りの淵に落ち込んだ。 電話のベルを聞く夢を、また何度か見た気がする。 次に目覚めた時は翌日の朝で、携帯に着信履歴は無かった。
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