クープランの墓

- Le Tombeau de Couprin -


2


Fugue

第2曲:Fugue 「ジャン・クリュッピ少尉に捧ぐ」




 カカシの居ない一週間。 その第二日目。


 雪が降っていた。 ふわりふわりと天から綿が落ちてくる。 限りなく、途切れなく。 イルカはポカンと上を向いて、いつまでもそれを見ていた。 祖父の家に居た頃は冬になれば日常的なその光景も、今はかなり懐かしい。 湧き出てくる、という表現が合ってるなとつくづく思う。 高い高い暗い空の奥から、滲み出るように白い点が幾つも幾つも生まれ出で、それが段々と大きくなってクルクルと回りながらイルカに向かって落ちてくる。 そう、全てが自分に向かって落ちてくるように感じる。

「飽きないねぇ」
「え、ええ」

 夕べ降り出した雪に、カカシが居ないのなら泊まればいいと誘ってくれた人。 全てが自分一人に落ちたりはしないと、現実に引き戻す人。

「カカシ君、調子どうだって?」
「元々あまり乗り気でなかったから… でも、やるとなったらやるのがカカシさんですし」
「ふふ」

 寒いからもう中へ入ろうと肩を押され、雪舞い落ちるベランダを後にした。 昨夜はカカシの携帯がバッテリ切れでも起こしたか話ができなかったので、今日は早めに連絡を取ったのだが、カカシは何故かどこか不機嫌っぽかった。 上手くいっていないのかもしれない。 でも、自分にできることは唯こうして他愛の無い会話をする事だけ。 カカシとの家に居なくてもこうして携帯でやり取りできるので、特にこちらに居ることも伝えなかった。 ナルトと一緒に居ると聞けばもっと機嫌が悪くなるだろう。

「紅ちゃん達も同行してるんでしょ?」
「はい、アスマさんも」
「たいへんだ、カカシ君のお守りは」
「そんな、大変なことはないですよ? いつもは」
「キミが側に居ればね」

 にっこり笑う顔がナルトと重なる。 最近急に大きくなったナルトは、益々この義理の父親に似てきた。 不思議だ。

「ナルトは?」
「もう寝かせたよ。 明日、部活で早起きしなきゃなんだって。 昨日ははしゃいじゃって困ったでしょ? 眠れた?」
「ああ、はい。 まぁそこそこ」

 昨夜はナルトと一緒にベッドに入ったのだ。 強請られて拒めなかったのだが、もうあの小さかったナルトとは違うと実感させられた。

「もう一緒に寝るのは無理がありますね」
「そう?」
「ええ、大きくなったなぁ」
「うーん、毎日見てるとあんまり感じないけど、そうだねぇ…そうかも」

 あはは、と明るく笑っているが、昨夜は随分と剥れていた。 自分とは絶対一緒に寝てくれないくせにと、散々中学生の息子に愚痴を言って、殴られていたっけ。

「あの子のさ、友達が居るでしょ、横浜時代の」
「サスケとサクラですか? もう横浜に居るのはサクラだけですけど」
「そう、そのサスケ君とサクラちゃんがね、夏休みに遊びに来てくれたんだよ」
「へぇ」
「ボクはね、今まで何回も、愛する人がこの手の中から… イルカ君はもう知ってるって前提で話していいかな?」
「え? えーと…はい。 あの…でも」

 この人はいつも唐突だ。 だいたい言いたいことは判る。 判るのだがイルカは、でも、と彼の顔から視線を外し、テーブルの上に用意されたコーヒーに手を伸ばした。 敢えて触れなかった彼の人生を、今突然さぁどうぞと食卓に広げられたような感じがして戸惑ってしまうのだ。 戸惑う…と言うよりも、そうだ、まだ覚悟が決まっていないと言った方が正しいかもしれない。 彼の話したいことには、少なからず自分の父親の事が含まれる。

「多分ね、紅ちゃんも判ってるんだと思うんだよ。 でも彼女とは話せないでしょ? こんなこと。」
「そう…ですね、女性とはちょっと、ですね」
「うん、そうなんだ。 でもボク、今まで誰にも相談もできなかったから、キミが居てくれて凄く嬉しいし助かるんだよ。」

 ね、ボクほら愚痴零しぃだしさ、と彼は眉尻を下げてまた笑った。 その笑顔を見ながら、なんだか泣きそうになった。 両親が死んでからもう十年以上経つ。 永い、永いな…、とても永い。

「カカシ君が居るとこじゃ絶対話せないしね」

 コーヒーをひとくち口に含んでカップをテーブルに戻し、ソファの背に深く凭れて再び彼の方を向くと、彼は今度は微かに微笑んだ。 これが彼の、本当の笑い方なのかもしれない、そう思った。

               ・・・

「ナルト君はさ、サクラちゃんが好きなんだね。 ほんとに心底、あの元気のいい女の子が好きなんだなって判ったよ。 普段からサクラちゃんサクラちゃん言ってるから知ってはいたんだけどさ、目の前で見たらああーってさ、判るでしょ?」
「ええ、そうですね、ほんとにアイツは判り易い」

 笑いが堪えられずに背を折って一頻り笑うと、先生も一緒になって笑った。 クスクスと思い出し笑いをする彼の細められた目や引き上げられた口元、少し紅潮した頬。 彼は本当に義理の息子を愛おしんでくれていると、イルカは感動してまた泣きそうになった。 ナルトの人生は、人生と言うほどまだ幾らも年月は経っていないと人は言うかもしれないが、それでもその短い子供時代を、少なくとも普通の家庭に育った子供よりも長く感じたことだろう。 サスケも同じ境遇だが、ナルトはちょっと特別だったのだ。 容姿の所為もあるかもしれないが、出自が原因らしかった。

「でもあの子は、サスケ君も同じくらい大事なんだね。 サスケ君に対する感情をあの子はまだ形にできないだろうし、そんな事考えてもいないんだろうけど、サスケ君の方ははっきり自覚があるみたいだ。」
「え? 自覚って?」
「あれ?」

 そこで二人で思わず互いを見合って数瞬呆然とし、それからイルカは随分遅れたが唐突にその事に気付いた。 なんと…、なんと迂闊だったことよ! サスケがそんな風にナルトを見ていたなんて、全く気付かなかった。 自分に起こった事を特別だと思って、こんな事そうそう起こらないと高を括っていたのかもしれない。

「気付いてなかったんだ?」
「え… ええ、はい、なんて言うか、その… 吃驚しました」
「キミってほんと…ノーマルなんだね」

 カカシ君はほんとにほんとのラッキーだった訳だ、と顎に手を当てて頻りに頷き、最後にチラっとこちらを見遣ると、うふふと意味ありげに笑う。 悪戯っぽいその顔が、尻尾を立ててお尻を振り々々擬似餌を狙う家猫のようで、野生の猫の生き死にに関わった必死さは無いがかなり性質の悪い執着心が窺えた。 そういう顔は紅とアスマで見慣れているイルカだったので、敏感に”危険”を感じ取り、慌てて防御姿勢を取った。

「ねねね、キミとカカシ君ってさ」
「あ、あの! ナルトとサスケの話を、き、聞きたいです、はい」
「ええ〜ッ」

 不服そうに頬を膨らましながらも、彼は楽しそうに笑う。 そうだ、この人はいつも笑っているイメージがある。 彼の支えは、何なんだろう…。

「俺、全然気が付きませんでした。 多分ナルトも、これっぽっちもそんな事感じてないんじゃないかな」
「うーん、そうなんだよね。 あの子の鈍さはキミに勝るとも劣らないかな。 サスケ君の方はかーなーり露骨にアプローチしてるようにボクには見えたんだけど」
「そ、そうですか? 俺にはちっとも判りませんけど」
「焦ってるみたいに見えたな、ボクには。 早くしないと誰かに掻っ攫われちまうってさ!」
「ナルトがですか? サスケがですか?」
「だから、サスケ君だよ。 彼はナルト君が心配で仕方がないんだよ。 ナルト君もサスケ君のこと気にかけてるけど、それとは別種の心配だね、あれは。 カカシ君がキミに向ける心配と同じだ。」
「カカシさんは、ちょっと過保護なだけで」
「違うよ。 カカシ君は自信が無いんだ。 キミがいつ自分の手の中から逃げていってしまうか、気が気じゃないんだよ。」
「そんな…自信が無いのは俺のほうで…」
「違う違うっ 全然解ってない。 愛する側と愛される側の違いなのかなぁ? 愛する側はいつも余裕が無いもんなんだよ。」
「あなたは」
「え?」

 あなたはどっちなんですか、と思わず聞きそうになってしまった自分にイルカは自分で驚いていた。 それは、この人がはたけサクモを抱きたかったのか、それとも抱かれたかったのかという質問に通じる。 さっきそう言われたのだもの。 ”知っている”ということ前提で、とは、自分がこの人のサクモへの気持ちを知っている、という意味なのだ、そう理解した、間違ってはいないと思う。

「いえ…あ、あの…」
「ボクは、両刀かな」
「………は?」
「うっふっふっ キミっておもしろーいっ」

 目が点になっているだろう自分を不躾にも指差して、先生は笑い転げた。 そうしなければその場が持たなかったのかもしれない。

               ・・・

「ボクは、そうだね、サクモには抱かれたかったんだと思うよ。 彼は雄なんだ。 根本的に愛する側の人間なんだね。 キミのお父さんはその逆で、生まれながらの愛されるべき人だったんだと思うよ。 会った事はないけど、キミを見てれば判る。」

 喋りたいのかもしれない。 彼は滔々と話した。 今まで誰にも言えなかった彼の抑えた気持ち。 彼の”失う”人生。

「あの時、ボクの目の前から彼らが、愛する対象も、憎むべき対象も、いっぺんに消えてなくなってしまったあの時、ボクに残されたのはカカシ君だけだった。 ボクは彼を激しく愛したよ。 そうしなきゃ、とても立っていられなかった。 カカシ君はどんどんサクモに似てきたし、チェロを持ってくれた。 だからボクは、カカシ君の事は抱きたかったんだと思う。」

 判っていた。 判ってはいたつもりだった。 だがショックだった。 頭の後ろの方からスーッと血の気が退いていく。

「そんな顔しなくっていいんだよ。 どっちかって言われたらの話だし、それにボクが最も恐れることは、カカシ君との間に有る親子としての絆を失うことなんだから。 それにね、カカシ君もサクモの息子だけあって心底”雄”なんだね。 決して抱かれる側にはならないな。 だから今までは、相手がこっちを向いてくれない限りあり得ない恋だろう? ボクにとってはさ。 でも、ナルト君は違うんだ。 サスケ君はあの子を抱きたいと思ってる。 目がそう言ってたもん。 ボク、娘をどっかの馬の骨に取られそうな男親の心境って初めて解ったよ。 すんげぇ理不尽な怒りが湧いてくんの。 オマエなんかに絶対渡さないゾって」

 幾分力んだ風に拳を握っていた事に気付いた先生は、ちょっと頬を染めてその頬を指先で掻いた。

「いや、ボクもナルト君をどうこうしたいって言うわけじゃないんだよ? もう年も年だし、それに何だか本当に血が繋がってるみたいに感じるし。 だけど、失いたくないんだよ今度こそ。 解ってくれる?」
「ご…めんなさい…」
「え? なんでそこでキミが謝るの?」
「俺は…」
「キミが…、いや、キミのお父さんが、ボクからサクモを奪ったと思ってるの?」
「…」

 いきなり核心を突いてくるのか。 はぐらかしたかと思ったら、一撃必殺の猛禽類の狩りのように鋭く爪を喰い込ませるのか。 否、そうじゃない。 自分が今まではぐらかしてきたのだ。 ここを通らなければ前に進めない事を判っていた。 カカシと、だ。

「俺は…カカシさんと、一生…一緒に居たいです」

 「カカシが望んでくれるなら」というフレーズを挿みそうになるのを必死に堪えたお蔭で、涙の方を堪え切れずにイルカは頬に雫を幾筋か零した。 先生はそんなイルカをぼんやりと見遣っていたが、やがて憤然と言い放った。

「そんなの当たり前です。 カカシ君の親として、そうでなきゃ困ります。 キミは自分に自信が無いっていうより、覚悟が足りないだけだとボクは思うよ?」
「はい、俺もそう思います」

 何かあったら、この髪を切った時のようなアクシデントや、それよりも深刻な展開に遭ったら、自分よりカカシの方が失う物が大きい。 それは確かだ。 それが恐い。 カカシに失わせるのが恐い。 そうなる前に逃げてしまえと、自分は一回逃げた。 同じ轍は踏みたくない。 でも…

「でも、恐いんです、とても」

 どうして我慢できないのだろう。 涙が止まらなかった。 先生がティッシュボックスを取って渡してくれる。 それを膝に抱え、イルカは更に涙を落とした。

「俺は、今の生活が続けられればいいです。 でも、カカシさんは違います。 今回のレコーディングだって、向こうから話がきた。 これからもきっと、そういう話がたくさん来て、もっともっと海外とか行くようになっていくんだと思います。 俺は」
「キミにもきたでしょ? 話」
「え…」

 イルカは硬直して、彼の真っ直ぐな青い瞳を必死に受け止めていた。
 雪は、夜半に入って益々酷くなり、ニュースでは積雪注意報と関越新幹線のダイヤの乱れを報じていた。





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