クープランの墓

- Le Tombeau de Couprin -


1


Prelude

第1曲:Prelude 「ジャック・シャルロ中尉に捧ぐ」




 カカシの居ない一週間。 その第一日目。


 朝起きると体が軽かった。 Hをしないで起きた朝。

「そっか、こんなに楽なんだ」

 カカシと居るとHが日課だから、忘れていた日常をふと思い出してイルカはおかしくなった。 女だって月に一度、生理の時は休めるんだからな。 俺なんか年中無休。

「…」

 ここでイルカは赤くなった。 体が慣れたことを自分で知って、自分でちょっと恥ずかしくなったからだった。


 カカシとの朝食はコーヒーだが今朝はミルクティを淹れ、いつもならカカシのために卵を焼くが今朝はただトーストにジャムを塗っただけにした。 だってめんどくさいから。 でもちょっと考えて、食後にヨーグルトを出してきて食べた。
 皿一枚、マグカップ1個、スプーン1本。 洗い籠に伏せて布巾を被せ、カウンターテーブルの上のトーストの屑を集めて捨てる。 簡単だ。 一人で暮らしていた頃を思い出した。 あのメゾネット・タイプのアパートは、ここと違って作りも古く狭かった。 一人住まいの身で小さな台所に不自由を感じたことは無かったが、ここの広々としたキッチンやダイニングを知ってしまった今となっては、もうあの頃の生活には戻れないのかもしれない。 そう思うとどこか不安になり、頭を振って居間の方へ移動する。 カーテンから薄い日の光が射していた。 寒いけれど、豪雪地帯にあるイルカの職場に行ったらこんなもんではないので、ストーブも点けなかった。 居間は南東に向いているので、好天の日の午前中は暖かいのだ。 歯磨き洗面をささっと済ませると、寒い寝室から着替えを居間に持ち込んで、ソファで着替えた。 カカシが居たら絶対にできない。 朝から喰われちまう。 パジャマはカカシのと色違いだった。

               ・・・

「グレツキの3番?」
「そーなんだよー」
「で、でも… ちょっとマイナーなんじゃ。 それに結構忍耐要る曲ですよね。」
「聞いてる方はいいけどね」
「俺ら通奏低音なんかたいへんよ?」
「パッサカリアでしたっけ」
「カノンよりはちょと重いもんね」
「わー、たいへんそうだ」
「みんなも難色示したんだよ、これでも」
「でもあの人さー、もう断然やる気なんだよね」
「そうそう、嫌ならブラームスの4番やるってさー」
「え? その方が客受け良さそうだけどなぁ」
「やーだーよーっ 俺たち前にアレやってさー、なー?」
「そうそう、ヒデェ目に遭ったさ」
「先生、ブラームスに異常にストイックなんだよ」
「あの人、表面はへらへらモーツァルトだけど、内面はむっつりブラームスだよね、絶対」
「うんうん」
「4番、難しいもんなぁ」
「あの人さ、チェリビダッケ・ファンなんだよ。 だから演奏すんげぇ速いのよ。」
「バイオリンなんかもう総崩れだったよね」
「俺たち、地方の半アマ・オケだもんな」
「でもどうして急にグレツキなんですか?」
「ああ、ナルトだよ」

               ・・・

『ナルト?』
「そうらしいんですよ。 なんでも一緒に映画を観ていたとかで」
『ああ、フィアレス?』
「そう!それそれ。 ジェフ・ブリッジスの!」
『あれ、先生俺とも昔見たはずだけどなぁ』
「じゃあ泣いたの先生ですか、やっぱり」
『そうなんだよ、グレツキの3番が始まったあたりからもう、ぐおーって(笑)』
「なんだ、自分の話だったのかな。 ナルトがやっぱりエンディングで号泣したとかって」
『エンディングじゃないよ。 最後の最後だけどほら、飛行機の事故を回想するシーンで』
「え、でも、カンタビレがって」
『エレジー?』
「ええ、言葉も判んないのにボロボロ泣いて、これの全曲がぜひ聞きたいって言ったって言うんですよ」
『CD買ってやりゃいいのに、なにも自分でやんなくても』
「そこがあの人のいいとこですよね」
『いいとこぉっ?!』

 カカシが携帯電話の向こうで絶叫した。 今は遠く海の向こうに要る。 紅もアスマも一緒だから、大丈夫だ。 なにも心配ない。 心配って言ったら、そう、モテモテで鼻の下伸ばしてなきゃいいけど…なんて…。

「ソプラノもちゃんとプロを呼ぶそうで」
『そんな金あんのかよ』
「安さん達も、そんな余裕無いはずだって言ってました。 先生の人脈って謎ですよねぇ」
『ああ… まぁ、ね』

 なにか知ってそうで言葉を濁すカカシの口振りに、先生の過去が垣間見える。

「俺ね、あの映画で苺が人を殺すことがあるって知って、すごいショックだったの覚えてますよ」

 聞いてはいけないのだと話を基に戻すと、カカシは携帯の向こうでくつくつと笑った。

『苺を恐がる小さいイルカ先生、見たかったぁ』

 その後、会いたいです、と一言カカシは呟いた。 自分も会いたい。 携帯を通してカカシの肌の温度を感じてしまい、イルカはザワッと肌がざわめくのを感じて、慌ててカカシにオヤスミを告げた。 時差は8時間ほどか。 あちらは昼か。




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