千の星
10
「こいつは妖魔なんです。 しかも妖狐、狐の妖です。 俺達が何回抱くよりこいつの一回の方が効くかもしれない。」
「そうですか。」
高尾は何故か少し項垂れた様子で応えた。 何の話をしているのか今ひとつ判らなかったが、俺が妖魔って処は突っ込まないのかと、少し憮然とした気持ちになって黙り込む。 そんな妖狐に高尾が揺らめくような眼差しを向けてきた。
「では、あの人の情人というのは、あなたのことなんですか?」
「とんでもないっ」
妖狐は慌てて首をぶんぶんと横に振った。
「高尾さん、アイツが今ここに居たら、俺達とっくにあの世です。」
千影が呆れたように、妖狐の代わりに付け加えた。
「そんなに凄いんですか?」
「凄いの何のって、もう信じられないですよ、あの存在は。」
そう言って腕を組んで目を眇める千影に愕然とする。
「会ったことがあるのか?」
「一回だけ森まで後をつけさせてもらった。 ひやひやだったよ。」
問うと、苦笑しながら答える千影に妖狐は開いた口が塞がらなかった。
「バレてるに決まってるだろ。 よく無事に帰してもらえたな。」
「ああ、だから二度やる気は起きなかった。 彼にしてみたら警告のつもりだったかもしれないが…。 なぁ、何故里へ来て暴れないんだと思う?」
と、千影が妖狐に向き直った。
「し、樒さんの家族がいるのに、できないだろ!」
なんとか誤魔化す。 樒が罠に気付いていて態と呼ばない事は、悟られる訳にはいかなかった。
「ああ、やっぱりそうなんだ。 実はもう居ないんだけどな。」
「?」
「あの人を拉致った時、家族を逃がすから追わせないでくれと頼まれた。」
「…」
拉致ったと臆面もなく言う千影に怒りはしたが、樒の家族の事が気になる。 16になる息子が居ると、確か言っていた。
「自分は行くから、家族には手を出すな、と言われて了承したんだ。」
「樒さんが?」
「そうだ。」
「…」
この男が? この抜け目の無い男が樒の家族を逃がした?
信じられないと思って黙っていると、千影の方がおかしそうに問い返してきた。
「なんだ、まだ何かあるのか」
「いや、あんたらしくないなと思って」
「……。 俺だってそう思ったさっ」
思わず率直に感想を言うと、千影は一瞬だが顔を引き攣らせた。 そんな千影を見たのは初めてだったが、言っている事が本当らしいことに安堵した。 そうか、逃げたのか。 妖狐はほっとすると共に、樒の覚悟を想った。 白虎と契った、共に行くつもりだった、と言った樒。 家族との、人間の柵との縁を切ったのか。
「あの人がこんなに頑固だとは知らなかったからな。」
「後を追わせたんだな。」
だが、そんな物思いも千影の一言で霧散させられる。 妖狐は唸るように千影に問うた。
「もちろん! でも後の祭さ。 全然、足取りひとつ掴めなかった。 妖魔にでも喰われたか、盗賊にでも攫われたか。 あの時一緒に拉致っとけばよかったよ!」
千影は吐き捨てるように言うと、ぷいと妖狐から視線を逸らした。 まるで安否を心配するような口ぶりに訝しさが募る。 どうも千影の真意が判らない。 本人にも揺らぎがあるように感じられて妖狐は黙った。 が、今度は高尾がぽつりと呟くように言いだした。
「でももし今、あの人のご家族があなたの手にあったら、あの人を毎晩あんな目に遭わせなくてもよかったのかもしれませんね。」
「あんたは樒さんに、自分の息子や奥さんの命と愛する者の自由を天秤にかけさせるって言うのか? 樒さんがどんなに苦しむか!」
「それに、言ったところであの城主が彼を手放したりはしないでしょう。」
妖狐と千影がそれぞれに反駁するが、高尾はまだ首を横に振った。
「あの人は何かやる気だ…」
妖狐は、この高尾という男が心底樒の身を案じている事が、段々判ってきた。
「逃げる気なんでしょう。」
「どうやって? 無理です。」
そんな危険な事はさせられない、という恐れが伝わってくる。
「とにかく、一人では無理でしょう。 誰か、或いは相手の妖魔か。 そうなってくれたら好都合なんだが。」
だが千影は、もうまた冷静で冷酷な忍の若頭の顔に戻っていた。
「…その妖魔というのは、どんなモノなんです?」
「白い、虎でした。」
「白虎…?」
「そういうことです。」
ふたりはそこで長く黙した。 人間も解っている。 白虎がどういう妖魔なのか。 そもそも人間などに敵うはずもない最強の妖魔のひとつだ。 高尾は恐らく白虎に嫉妬に似た気持ちを抱いているのだろう、と思う。 だが千影は…。
「俺はアイツが欲しい。」
千影が独り言のように呟いた。
「真名さえ解れば…」
妖狐は千影の目に昏い欲望の火がチリチリと揺らめくのを、言葉も無く見つめていた。
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