千の星


9


「契る?」
 海野が腕の中で首を傾げた。 その仕草があの時の樒を思い出させた。
「おまえ、妖魔と人間は命のサイクルが違うから何人も海野を相手にするんだろうとか、さっき言ってたよな。」
 海野は胸元からまっすぐ妖狐を見上げて黙った。 黒い瞳が揺らいでいる。
「自分の先祖に嫉妬して」
 にぃっと笑って追い討ちを掛けてやると、海野は顔を赤らめて胸に顔を埋めてしまった。
「ごめんなさい。」
 それでも、小さく謝ってくるのが海野だ。 妖狐はふふ、と笑って続けた。
「いや、サイクルが違うのは間違ってないんだがな。 ただ、ひとつだけ、命の振り子を合わせられる方法があるんだ。」




               *****




「ほら」
 そう言って、樒は自分の瞳を妖狐の顔に近付けた。 真っ黒な瞳が一瞬だけ金色に光り、虹彩がきゅっと狭まって縦に割れた瞳が現れた。
「…っ」
 妖狐は絶句してしまった。 それは人間の瞳ではなかった。
「俺、もう人間じゃないんです。 半分、あなた達と同じ、妖魔です。」
 樒が一回瞬くと、瞳は元の黒目に戻った。
「俺ずっと、自分の命は自分だけのものでした。 家族は俺が死んでも多分なんとか生きていってくれる。 だけど、彼は違うみたいです。」
 ふっと重く息を吐くと、樒は椅子に深く凭れた。
「そう考えると人間て強い生き物ですよね。 彼は俺と契ってから俺と魂を同化させてしまった。 俺、契るって意味がちゃんと解ってなかった。 もう少しで彼を道連れにするところでした。 彼とずっと一緒に歩いて行きたいと望んだから契ったのに。」
「樒さん、何言ってるかよくわからないよ。 もっと解るように話して」
「俺が自害しようとして自分の体を痛めたら、彼も弱っていくのが解った。 遠く離れていても解るんです。 でも俺の体力が少し戻ったら、彼の気も少し強くなった。 俺は生きなくちゃ。 生きて彼の元へ還らなくちゃ。」
 樒は自分に言い聞かせるように呟いた。
 妖狐があっけにとられて樒を見ていると、樒は椅子からずり降りて、妖狐の側に腰を落として顔を近付けた。
「今晩から、俺を抱きに来てください。 仔細はあの調教師の人に聞いてください。 あの人、全部一人で背負い込もうとしてる。」
 声を落として妖狐の耳に噛り付くように言い募る。
「このことが知れたら、あなたもあの人も只じゃ済まない。 くれぐれも用心してください。」
 特にあなたの主人には。 樒はそう言うと、もう疲れたから帰ってくれ、と少し大きめの声で言いながら、最後に調教師の名をこそりと妖狐の耳に囁いた。
 妖狐が部屋を出ると、千影の部下が待っていた。 中の話は全て聞かれていたかもしれない。 だが千影の元に行くしかなかった。

「俺もあの人を抱きたい。 調教師の男に会わせてくれ。」
 千影に開口一番そう言うと、千影は暫らく妖狐の顔を凝視してから、膝を叩いて笑い出した。
「っくくくくっ こりゃいいやっ 俺も仲間に入れてもらおう。」
 千影の言葉に慌てるが、ここで襤褸を出す訳にもいかず妖狐は諾として従った。 だが、調教師の男にはできることなら一対一で会いたかった。 樒の言いたいことが、今ひとつ解らなかったからだ。 仔細は調教師の男が知っていると言っていた。 解るように説明してもらいたかった。
「ほら、高尾さんに会いに行くんだろ。」
 そんな妖狐の思惑を知ってか知らずか、千影は立ち上がってサッサと歩き出していた。



 調教師、高尾佐吉の家は城の膝元、賑やかな花街の片隅にあった。 千影は慣れた様子で道を辿った。 玄関でも「木の葉の千影です。」と言っただけでさっさと入って行く。 妖狐は焦った。
「知り合いなのか?」
「最近、懇意になったのさ」
 千影は意味ありげにふふっと笑った。
 三和土から直ぐの障子を開けると二間続きの畳部屋の奥に布団の端が見えた。 千影は遠慮なくどんどん上がって、お邪魔します、と声を掛けた。
「ああ、そのままそのまま。 寝ていてください。」
 布団に起き上がる人影に向かって千影が優しげな声を出す。 妖狐には成り行きが見えなかった。
「どういうことなんだっ」
 思わず声が高くなる。 千影は呆れた顔をして、自分が座った囲炉裏端に妖狐も座らせた。
「すみません。 こいつ躾がなってなくて。 ほら、挨拶くらいしろよ。」
 千影の態度が解らない。 ぶすっとして黙っていると、男が寝間との間の仕切りを閉めてやってきた。 薄い浴衣にもう一枚着物を羽織って、どこかだるそうな緩慢な動きで座る。
「申し訳ありません。 茶も出せませんが。」
「いいえ。 勝手に遣らせてもらいますから。」
 と言って、千影はさっさと囲炉裏の鉄瓶から急須に湯を取っている。  あの時は上から見ていたので、顔つきの判別がいまひとつつかなかったが、声は紛れもなくあのフィスト・ファック野郎だった。 妖狐は思わず目的を忘れそうになって体を震わせた。
「こいつ、最初の夜、私と天井裏にいたんですよ。 それで未だにこれです。」
 三人分の茶を淹れながら千影が妖狐の方に顎を杓った。 だが男は黙って俯くばかりだった。
「あの城主はな、新しい玩具が手に入ると必ず最初にアレをやらせるんだそうだ。 その後従順になるからと言ってな。」
 男の代わりに千影が答えた。 妖狐は機先を制される形となってやはり黙り込んだ。
「具合はどうですか?」
 最初に調教師の男に茶を勧め、千影は気遣わしげに問うた。
「大丈夫です。 いただきます。」
 一口茶を啜り、ああ旨い、と男が吐息を吐き出した。
「何も腹に入れてないんですか?」
「ええ、まぁ」
 ずっと臥せっていたらしい男は、曖昧に応えて湯呑を傾けている。 今度は何か持ってきます、と男の顔を見ずに千影が呟いた。

 二人の間に何か信頼関係ができあがっているらしいのが妖狐にも見てとれた。 あの千影が、と思わずにはいられなかったが、今はそんな事に気を取られている訳にはいかなかった。 仔細を聞けと、樒は言った。 この際、疑問も遺恨も後回しにしよう。
「あの、高尾さん、ですよね?」
 妖狐は取り敢えず名前を確認したかった。 樒に最後に囁かれた名前は、高尾佐吉、だった。
「そうです。 高尾佐吉です。」
 高尾は妖狐に向き直った。
「樒さんが」
 樒の名を出した途端、二人の男が動作を止めて妖狐の次の言葉を待つ。 妖狐は面食らって後が続かなくなった。 そんな妖狐に焦れてか、千影が先に口を開いた。
「こいつを今日、あの人の処にやったんです。 白湯を湯呑に一杯ほど自分で飲んだそうです。」
「そうですか!」
 高尾が顔をぱっと輝かせた。
「ありがとうございます。」
 やはり全部見られていたのか、と千影を苦々しく思っているところへ、妖狐に向かって頭を下げる高尾に更に面食らう。
「でも食べ物はまだですから…」
「そうですか。 では、今晩も城に行かなくては」
「そのことなんですがね」
 千影は湯呑を置くと、高尾の湯呑に茶を足しながら話を切り出した。
「こいつがあの人の処から戻って開口一番、あの人を抱かせろって言い出したんですよ。」
 高尾は、えっと妖狐の顔を凝視した。
「樒さんにそう言われたんだな?」
 今度は千影も妖狐に向き直り、確認するように問うてきた。
「それで高尾さんに会うように言われたんだろ?」
 妖狐は、千影がどこまで知っていて、いったい何をしようとしているのか訝しんで口を噤んだ。 樒は、千影には気をつけろと言っていた。 不信感丸出しで黙り込む妖狐に肩を竦めて千影は高尾に言った。
「この通り、全然、信用ないんです。」
 だが、高尾の方は妖狐から視線を外さず、妖狐に話の続きを促した。
「それで、それであの人は何て言ったんですか?」
 千影をチラと見たが、相変わらず何を考えているか判らない顔で薄笑いを浮かべている。 妖狐は諦めて話し出した。
「俺にもよく解らない。 仔細はあなたに聞いてくれと言われた。 とにかく、今晩から自分を抱きに来て欲しいと。 あなたが全部ひとりで背負い込んでいるからって…」
 高尾は瞠目して息を呑んだ。 そして項垂れると、額に手を当てて緩く頭を振った。
「全て判ってらしたんですね。」
「あの人はそういう人です。」
 千影も俯いて囲炉裏の火を見つめた。






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