千の星
8
手枷足枷をされた樒がぼんやり椅子に座っている。 妖狐は一回だけ樒に会うことを許された。 だが裏では、白虎の真名を聞き出すようにと千影から言い含められていた。 樒が誰にも一言も口を聞かず、飲み食いも拒み続けていて衰弱が激しかったので、唯一こうなる前からの顔見知りである妖狐が間に立つことになったのだった。 とにかく、何か口にするように説得しろと付け足すように言われたが、その時の千影の顔を妖狐は見ていなかった。 あの時以来、妖狐は千影に対し必要最小限の対応しか取らなかった。 もちろん命令には逆らえない。 だが、それだけだ、と千影の顔を見ようとしなかった。
「樒さん」
妖狐が呼びかけても、樒は動かなかった。 ただずっと、ぼんやり夕日に染まる庭に目を向けている。 リクライニイングされた椅子に力なく凭れるように体重を預けた姿勢で、首を僅かに傾げる様に斜めに外を向いている。 着物の襟元や袖から覗く首筋や手首は、見違えるほど細くなっていた。 木製の枷の嵌った両手首には、幾筋も噛んだような傷跡があった。 自傷が止まないので仕方なく枷をしているのだ、とは千影の弁だった。 それでも、こんな樒を奴等は毎夜犯し続けている。 あの調教師も毎回呼ばれているようだった。 フィスト・ファックはあの夜だけだったようだが、城主は毎夜樒を慰み者にし、自分で足りないところを調教師に遣らせている。 それを酒の肴にしていると言う。
「樒さん、白湯だけど、少しでも飲んで」
妖狐は樒の口元に、持ってきた湯呑をそっと近付けた。 それでも樒は反応しなかった。 唇に押し付けて器を傾けても、液体は空しく顎を伝って流れ落ちた。 妖狐は樒の足元に座り込んで、何度流したかしれない悔し涙を零した。
「ごめん、樒さん。 みんな俺の所為だ」
樒たちに出会わなければ、とは思いたくはなかったが、千影の前で軽率に声を掛けなければよかったと悔やんだ。 それに、あの時感じた不安を蔑ろにしなければ、樒から決して目を離さなかったはずだと、自分を責めた。 今だとて、樒を助け出すこともできなければ、いっそ命を絶ってやることも、妖狐にはできなかった。
だがその時、頭に緩く手を感じて妖狐はピクリと身体を震わすと、樒の膝に縋った。 骨ばった樒の膝を涙で濡らす。 この人は、強姦しかけた俺を許し、剰え微笑みかけてくれた人。 守ると誓ったのに何もできずにいる俺を、今また慰めようとしてくれる。
「白湯、貰います。」
掠れた声で樒が小さく囁いた。 妖狐が仰ぎ見ると、にこ、と微笑んで小首を傾げる。 ね、ください、それ。 「ね」という樒の仕草にまた涙が零れた。
「もう、冷たくなっちゃったけど」
床に置いてあった湯呑を口元に運ぼうとすると、小さく首を振って、自分で、と枷の嵌ったままの両手を差し出された。 そして5センチ程の間隔を開けて拘束された手首を内側に合わせて湯呑を挟み、樒は自分でそれを口に運んだ。 頼ってくれないのが寂しかったが、無理強いはしたくなかった。
「ずいぶんと泣き虫になりましたね。」
と樒が笑う。
「だって、あんたがこんなに痩せちゃって、俺…」
言葉に詰まるとまた笑われた。
「あなたの所為じゃないですよ。 解ってたんです。 彼に前から言われていて、気をつけていたつもりだったんですけど。」
彼、と言って樒は少し言葉に詰まった。
「彼……、今死にそうにしています。 なんとかしないと…」
妖狐は頭を抱えた。
「死にそうなのはあんただ」
「それほど弱ってはいないんですよ。 俺は大丈夫。」
「でも、せめて水分くらいはちゃんと取ってください。」
妖狐が泣き付くと、樒はふふふと笑った。
「俺もね、最初は気付かなかったんだけど」
と、樒が話すところによると、毎晩城主に抱かれた後に樒を抱く調教師の男が、飲み食いを拒んでいる樒が意識を飛ばすのを待って、無理矢理口移しで水を飲ませていたらしい。 城主に、媚薬だから、と言っているのが聞こえたので樒は最初抗った。 だが、男が樒を抱く振りをして樒の耳元で、ただの水ですから飲んでください、と必死で告げるので、樒は男の接吻けを受け入れた。 男は水を含んでは濡れた唇を何度も何度も押し当ててきたと言う。 水分が体に満ちると共に、萎びていた体力と気力が同時に微かだが回復した。 その時感じたのだと言う。 白虎の気力も上向いた事を。 彼は自分に同調している? 樒はその時初めて、自分自身が白虎を追い詰めていた事を悟ったのだと言った。
「あんた、それを信じたんですか?」
妖狐は呆れて問うた。
「あの男は、あんたにあのぶっとい腕を突っ込んだんだ。 俺は絶対許さない。」
思わず声を荒らげると、樒は唇に指を当てて妖狐を制してから、あの人は優しい人ですよ、と微笑んだ。
「まったく、あんたって人は…」
「だって、そうでなきゃ俺がこんなに元気な訳ないでしょう。」
「どこが元気なんですかっ」
妖狐は脱力する想いだった。
「表向きはハンスト中だから、こうやって元気ない振りをしてるんです。」
そうしないとあの人が罰を受けるでしょう?と 自分を辱めている相手の事まで気遣う事を言って、樒はまた微笑んだ。
「あんたの旦那は、なんであんたを助けに来ないんだろう。」
だが、妖狐がずっと疑問に思っていた事を口にすると、今度は哀しそうに眉を寄せた。
「護符が、貼ってあるからですよ。」
千影が城の四隅に貼った護符が妖魔を中に入れないのだと言う。
「え? じゃあどうして今日俺は入れたの?」
「あなた、あの千影さんに呼ばれて来たのでしょう?」
そうだ、と応えると、だからですよ、と説明してくれた。
「中の者が入れと言ってくれれば入れます。 あの人は真言を使えるみたいですね。」
侮れない。 と樒は呟く。
「じゃあ、あんたが旦那を呼べばいいんじゃ?」
「できるだけ彼をあの人に近付けたくない。 あの人には敵わないかもしれない。 あの人は俺が彼を呼ぶのを待っているみたいだけど、ただ誘き寄せるためだけに俺に忍耐戦を強いているのではなくて、彼の真名を知りたがっている。 違いますか?」
妖狐は一瞬固まってしまったが、僅かに顎を引いて肯定した。
「彼をあなたのように遣いたいんですね。」
樒は頭を振って溜息を吐いた。
「きっとこの城に罠があるんです。 俺をここに置きたいのも、仕掛けが立体的で大掛かりな物だから城という構造が必要だったんじゃないかと思うんです。」
樒の眼力に恐れ入る。 自分はそこまで考えが及ばなかった。 ただ城主に取り入るために樒を差し出したのだと思っていた。 千影の真の目的は、ここの城主と盟約を結ぶことではなく、力のある妖魔を捕らえることだったのか。 ここの城主も、千影にとってはただの踏み台か。
「本当は、俺が自害してしまえればいいんだけど」
そう言って樒は自分の手首を見た。
「やめてよっ そんなこと、旦那も悲しむよ。」
妖狐が泣きそうに懇願すると、樒はまた優しく髪を撫でてくれた。
「はい。 もうしません。 俺が死んだらあの人も死んでしまうと解ったから。」
妖狐が首を傾げると、樒が耳元でそっと囁いた。
「俺達、少し前に契ったんです。」
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